なすの日記

思考を散歩させるための場所

みんなで決めることは別に良いことじゃない。

僕はこの前のエントリーで、安保に関するデモを批判した。

そのことに関して一つ補足しておきたいのだが、僕はデモそのものを止めろと言いたかったわけではない。

柄谷行人が言うようにデモが起きれば、それはこの国がデモをできる国になるということを意味する。

デモもできない国というのはけっこう異常な国だ。

僕が言いたかったことは、デモをやるだけで満足するな、ということに尽きる。

 

デモというのは選挙の外の枠組みだ。

公式に認められた政治参加の枠組みではないし、時として暴力的な運動となり法律の枠も越えてしまう。

だからといって、デモは悪だ!と断じることには違和感がある。

「民主主義で決めたことを踏みにじるデモは悪だ!」という意見は嫌いだ。

この意見の根底には「みんなで決めたことは正しい」という誤った認識がある。

(ここでの「正しい」は「良い結果をもたらす」と解釈しよう)

単刀直入にいっていまえば、みんなで決めたことが正しいとは限らない。

というか、基本的にあまり正しくない。

その最たる例は、先の大戦だろう。

選挙権が制限されていたとはいえ、あれだって一応「みんなで決めたこと」だ。

いくらバラマキと言われ、国庫が危なくなるとしても給付金をだすことを公約にすれば支持率は上がるだろうし、

どれだけパフォーマンスだといわれたところで、芸能人が選挙に出れば当選する。

「大衆が昔に比べて馬鹿になった」といわれることが最近多いが、そんなことはない。

大衆というものはいつだってそんなものだ。

ギリシャ時代からポピュリズムは存在した。

そのポピュリズムを排除するために導入した陶片追放(選挙)でさえ、誤った情報に踊らされた大衆がアテネの功労者を追放したりした。

言わずもがな、人間はずっとこんなことを繰り返している。

 

そして僕もたぶんそんな大衆の中の一人だ。

 

民主主義というのはあくまで皆が納得するためのもので、必ずしも正しい答えを導き出すためのものではないと僕は思う。

みんなで決めて、「みんなで責任を負おうよ」という考え方ではないか。

理論上は、人はその失敗から学びより良い選択をできるようになるはずである。

しかし、人間という生き物自体が進化しているわけではないから学びを怠れば

人は同じ過ちを繰り返すことになる。

そして、人の命はせいぜい100年。

自分の学んだことの全てを伝えられるわけではない。

学んだとしても、その知識から得られた教訓が瞬間的に湧き上がる感情(嫉妬とか怒りとか)に勝てるとは限らない。

人間とは本当に”だめな”生き物なのだと思う。

 

そうはいっても人間に生まれてしまったものはしょうがないし、

僕はそういうどうしようもなくダメな一面が好きでもある。

芸術なんかはそういうどうしようもない一面の発露と考えても良いだろう。

 

僕らは生きていく上で、人間の普遍的な一面と向き合い続けなければならない。

民主主義もきっと長い間練られ続けてきたそういう思考の一つの答えだ。

なんらかの判断を下せば、必ず誰かが不利益を被る。

だから、ある判断が正しいかどうかはなかなか判断できないし、不満が噴出する。

ならば、判断が正しいかはわからないけど、一番不満が少なくなり、不満を感じたとしても

納得はできるような制度を構築しようというのが民主主義ではないか。

うまくいけば皆のおかげ、失敗すればみんなのせい。

あくまで民主主義も不完全な制度だ。

だからこそデモが存在してもいいと僕は思う。

 

今あるルールに固執していると、見えてこないものもある。

難民・移民から考える「思考」の射程範囲

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物事を考える上で「どうしたいか」と「どうすべきか」という二つの次元が存在する。

ここでは、世の事象を全てこの二分法で説明できるということが言いたいのではない。

もっと身近な言葉で言えば「〜したい」と「〜しなきゃ」かもしれない。

この二つの大きな違いは「時間」だ。

「どうしたいか」を考えている時、自分の行動が始まると予想される時はけっこう先のことだ。

それは、結局実現されぬまま終わる可能性も大いにある。

一方、「どうすべきか」を考えているときは大体、期限が定まっている。

精神的余裕に差はあれど、時間に追われているはずだ。

 

個人レベルだとこの2つの思考の違いは分かりやすい。

宿題をやろうとする時、時間があればどれだけの完成度で宿題を完成させたいかを考えることができる。

でも、期限の前日になればそんなことを考えている場合じゃなく宿題を終わらせねばならない。

 

ただ、物事の規模が大きくなるとこの二つの思考がごちゃまぜになることがある。

僕がそれを強く感じたのは「難民問題」と「移民問題」だった(一応、二つを分けておく)。

移民を入れるか否か、ということを呑気に考えていられるのは移民の流入が少ない時だけだと思う。

いま、地中海沿岸のヨーロッパ諸国にはシリアや北アフリカから大量の難民が流入している。

日本にいて、ニュースだけを見ていると「難民を受け入れるべきかどうか」といった議論がなされがちだ。

日本の周辺に難民はほぼいないから、日本に難民が押し寄せるという状況になることはない。

だから「どうしたいか」という議論ができるし、個人の意見から責任が発生することはない。

でも、現実に難民の流入に直面する国にとって「どうしたいか」を話し合うことにはほとんど意味がない。

なぜなら、考えている内に難民はどんどん入ってくるから。

理想を語るのではなく、対処を語る必要が生じる。

「難民を入れたくない」という意見が勝れば、それは押し寄せる難民を拒否するという「対処」となり、トルコの海岸に打ち上げられた少年のように「難民の死」という結果になる。

(ちなみに、ここで言いたいのは難民を受け入れろ!という政治的主張ではない。)

 

少しわかりにくいと思うので、日本における移民問題を考えたい。

日本に移民を入れるべきか否かという議論がある。

僕は、これは殆ど意味のないことだと思っている。

なぜなら、これからの少子化のなかでそれなりの経済規模を維持するには

移民を「入れざるをえない」状況になると思うからだ。

来年から突如少子化対策が効果を現して出生率が途上国並みになったとしても

その子供たちが生産年齢人口になるには15年かかる。

そして、残念ながら出生率が爆発的に上がることも多分ないから、状況はけっこう絶望的だ。

日本は移民問題に関して「どうしたいか」ではなく「どうすべきか」を考える段階にある。

「移民を入れたくない」という意見は、それがこの先の日本の破綻につながるということを理解した上でなされなければならない。

(日本人がそういう選択をするのならそれはそれでしょうがないと思うけど。)

人口が増加していた時期なら「移民はいれたくないね」「それなら移民を入れなくていいよう出生率を維持しようね」という話ができたはずだが、

今となっては、「移民を入れたいか入れたくないか」という話をしていても意味がない。

どうせ移民を入れることになるんだから、どういう風に入れれば軋轢が少なくなるか、どうすべきかを考えようよというのが僕の意見だけど

多分、この先どうにもならなくなってなし崩し的に移民を受け入れて、低賃金労働に従事させて、移民の2世が大きくなる頃には彼らが権利要求をして争いがおきるんだろうなあという気しかしない。

「どうすべきか」っていうのは具体的な行動が伴うのも特徴かもしれない。

 

まず確実に起こりうることでも、それに備えて具体的な行動をとるのは難しい。

だって、まだそれは起きていないし、もしかしたらおきないかもしれない。

移民がなくてもまだ日本はやっていけるし、もしかしたらどうにかなるのかもしれない。

ただ、現代に欠けているのは20年〜30年あるいはもっと長い期間で物事を見て

仕事をする視点だと思う。

起こりうる事態に備えるには、国家レベルになると数十年規模の視点が必要だ。

もしかしたら無駄になるかもしれないその数十年に命をかけられる人間になれるだろうか。

「努力=我慢」の時代は終わった。

自分のメンタリティというか無意識のうちに陥っている思考について考えてみた。

これを見ている人からすれば知ったこっちゃないだろうが、僕はもっと人生ぱっとしないかなーなんていつも思っている。

当たり前だけど世の中はそんなに簡単じゃなくて、努力しなければパッとしない。

じゃあどんな努力をすればぱっとするんだろうか。

たくさん勉強すること?人と交流すること?

ここまで考えて気づいたけど、「努力」という言葉には

どうしても「やりたくないけどやらなきゃいけないことを無理してやる」みたいなニュアンスがあることに気付いた。

他の人はどうか知らないけどぼくはとりあえずそう思っている。

僕にとって「努力」とはすなわち「我慢」だったのだ。

例えば、受験勉強は明らかに我慢だろう。

一つのライフイベントだけではなくて、人生観みたいなものにも「努力=我慢」的な思考が影響している。

大学受験の最中は「受験勉強を乗り越えた先に楽しいキャンパスライフがある」と思っていたし(実際楽しいのだが)

大学になったら「大学生の間に努力していい会社に就職して金を稼ごう」みたいなことをちょっと思ったりするし

たぶんこのままだと社会人になっても「働いて金貯めて悠々自適な老後を送ろう」ということを考えだすのだろう。

でも、この考え方でいくといつまでたっても幸せにはならない。

「いつか幸せになるだろう」という形で、希望を未来に託しているうちに全ておわってしまう。

「今」という時間の過ごし方はとても難しい。

未来のために行動するのか、この瞬間のために行動するのか。

年をとったら過去の中で生きる人も出てくるだろう。

どうあるべきかは一概には言えない。

でも、どんな多様な生き方が可能になった今、耐えてばかりでは何も得られない。

一定の困難に耐えれば、予定調和的な成功が手に入る時代は終わりつつある。

「今」という時間をどう豊かに過ごすかが問われている気がする。

言葉には、力がある ―氾濫する醜い言葉に立ち向かうために―

言葉は魔法だと思う。

いかなる言葉も、誰かへ向けて発せられる。

その誰かの所に届いた言葉は、その人の心や行動に影響を与える。

言葉はただの音や模様ではなく、人(自分も含む)を動かすものなのだ。

その昔、言葉には魔力が宿ると信じられていた。

言葉を扱えるのはごくわずかなエリートだけであり、言葉による祈りや呪いが現実になると思われていた。

 

今の時代にそんなことを真面目に語れば、間違いなく馬鹿にされるだろう。

現代人にとって言葉はだれにだって使えるもので、それは情報伝達のツールにすぎない。

 

本当にそうなのだろうか。

 

今だって、言葉には力がある。

それだけ書くと、本のキャッチコピーみたいだし言葉の力を肯定的に捉えているように思われるかもしれない。

だが、今回は言葉の力のマイナス面を考えたい。

 

友達に突然、「お前は馬鹿だ」と言われたらどう思うだろう。

僕なら結構傷つく。

「僕が馬鹿である論理的理由が述べられるまでその言葉は無効だ!」なんてことは考え付かない。

どれだけ無根拠でも、人は言葉だけで傷つく。

逆に言えば、人は言葉によって簡単に人を傷つけることができる。

例え他人に向けられた言葉であっても、誰かを侮辱したり貶めたりするような言葉を聞いたり読んだりするだけで嫌な気持ちになる。

最も分かりやすいのはヘイトスピーチだろうか。

自分に向けられた言葉でなくても、だれかをゴキブリ呼ばわりしたり殺害を示唆したりする暴言は聞いていて本当に不快だ。

憎しみの込められた言葉は、その対象となる人間だけでなくその言葉に触れた全ての人間に憎しみを喚起する。

言葉を発した人間の中では憎しみが再生産され、対象となった人間には怒りが湧き上がり、それを単に聞いただけの人間もどちらかの側に無意識に立ってその感情を追体験することになる。

 

 

負の感情を背負った言葉が負の感情をまき散らすだけではない。

言葉は一種の麻薬でもある。

大きな夢であったり、かっこいい理想をその口から語るとき、人は少なからず快感を覚える。

その言葉が、自分を突き動かし発言が現実になったりすることもある。

しかし、自分の言葉に酔いしれるだけの人間になってしまえばそれは虚言癖という誹りを免れない。

使い方によって自分のパフォーマンスを高めることも、自分を破滅させることもできる。

そういう意味での麻薬だ。

時事的なことを例にとると、国会前でデモをやっている人達も言葉という麻薬に侵されていると思う。

「平和」「戦争反対」「子供たちの未来のために」

これらは、誰にも否定されようのない「正義の言葉」だ。

そんな正義の言葉を発する自分も誰にも否定されようがない。

正義の言葉を発することで得られる快楽に浸っていては物事は変わらないわけだが、

言葉の麻薬の中毒者になった以上、他人の言葉は届かない。

よほどのことがない限り、彼らは自分の言葉の世界の中だけで生きていくことになるのだろう。

 

言葉には僕たちが想像する以上の大きな力がある。

一方で、言葉はあまりに簡単に拡散されるようになってしまった。

大きな力を持つからこそ、言葉は慎重に練られるべきだし安易に発してよいものではない。

Twitterで暴言を吐き炎上する人も、それに対して暴言で非難する人もどちらも安易だ。

一人の心の中にしまっておくことのできたはずの憎しみが一瞬で拡散してしまう。

「思う」ことがあくまで自己完結的な行為であるのに対し、「述べる」ことは本質的に他人を巻き込む行為だ。

ここでの「他人」には「自分の中の自分」とでもいうべき存在も含まれる(勝負の時、自分にむかって「大丈夫」と声をかけたりするでしょ?)。

 

そうはいってももう言葉の氾濫を止めることはできない。

言葉を練り上げることのできるプロ以外は発言するな!といってもそれは無理な話だ。

爆音で響く汚い言葉を嫌って耳をふさげば、小さな言葉を聞きのがすかもしれない。

それはそれで無責任ともいえる。

かといって雑音に身をさらせば、言葉によって自分の中に汚い感情が喚起されることに無自覚ではいられない。

 

僕は、世の中の雑音から身を遠ざけられるほど落ち着いた人間ではないし、嫌でも耳を傾け続けるしかないのかなと思う。

美しい言葉が、醜い言葉に音量で勝る世の中になりますように。

 

 

デモという「祭り」 ー政治的価値のないデモを繰り返すなー

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国会前デモに行ってきた。

その日の昼に安保法案が衆院特別委員会で可決された。

僕は前回のエントリーで書いたように、法制化の進め方に疑問は感じるものの

すぐに「戦争反対」を盾に集団的自衛権に反対する人たちにも違和感を感じていたので

あくまで見に行く、という感じだった。

 

19時頃、永田町駅から歩いて国会議事堂の正門まで行こうとすると

議事堂の横側まですでに人がたくさんいた。

なによりも驚いたのは、デモの年齢層が高いことだった。

巷ではSEALDsが話題になっているし、デモも若者主導なんだと思っていた。

しかし、実際6〜7割は60代以上の高齢者だったように思う。

逆に若者の集団はあまり見かけなかった。

人々の間にはたくさんの旗が並んでいる。

来ている人の所属を表すもので、労働組合系の旗がほとんどだった。

 

東京の都市構造は絶望的にデモに向いていない。

海外では、街の中心に広場がありそこに人々が集う。

しかし、日本に広場と言えるものはない。

国会議事堂前でも、人々は歩道沿いに細長く展開しており、

集団の力を行使できる形状ではなかった。

また、高齢者の存在はデモ隊にとって不利に働いていたように思う。

デモの雑踏の中で高齢者が頻繁に危険な目に遭い、その度に集団全体の動きが阻害されていた。

 

満員電車のような人混みのなかで、僕はある疑念に囚われていた。

「この人たちはなぜデモをやっているんだろう。」

もう決は取られてしまったのである。

もちろんデモの時点でまだ衆議院本会議では可決されていないが、

自民党議席率を考えれば、当然安保法案は可決されるだろう。

なぜ、こんな土壇場になってこんなに盛り上がっているのだろう。

 

僕はそこに安保闘争世代、全共闘世代、そして左翼系の人々のナルシズムを見た。

まさに絶体絶命の状況でも諦めずに平和を叫ぶ自分。

子供の世代のために老体に鞭打ってデモに参加する自分。

政治について真剣に取り組んでいる自分。

そんな雰囲気に満ちていた。

 

だが、僕は敢えて彼らを断罪したい。

なぜ、失敗から学ばなかったのかと。

昔の安保闘争を戦った人々が自分たちの失敗した理由を誠実に分析し

中長期的なスパンで地道に活動していればこんな状況にはならなかったのではないか。

現状の枠組みでは国会に議員を送り込む以外に、自分の意見を政治に反映する手段はない。

しかし、左翼と呼ばれる人々は「強固な地盤を作った上で国会に代表を送り込む」

という地道な作業を怠った。

集団を作らないこと、政治家にならないことが美徳とされていたから。

しかし、デモに参加する高齢者の中で自分たちの責任、怠慢を感じている人間がどれだけいるのだろう。

 

 

彼らが自分たちの負けのなかから学習していたなら、

今頃、自民党オルタナティブが存在していたはずだ。

少なくとも前回から50年も経過したのだから、なければおかしいのだ。

なぜ半世紀にもわたって同じ問題で揉めなければならないのだろう。

オルタナティブとされていた民主党も、様々な政治的主張を持つ人々の集まりであり、烏合の衆である。

それはつまり、自分たち政権運営することを想定しておらず

とりあえず数を多くするという安易な道を選んだということに他ならない。

 

固定した土地を持ち、松下政経塾のように学校などの形でリベラルな政治家を育成し、

国会に送り込むことで自分たちの政治的主張を実現していこうという態度は

左翼のなかには現れなかった(あったとしても支持されなかったのだろう)。

まさに法案が可決するという段階になって、大勢を集めて「祭り」を開けば

なんとかなるのではないか、という発想は

前回も指摘した通り、太平洋戦争中の日本軍の精神論と同じだ。

 

デモの参加者は10万人と発表された。

しかし、どう考えてもそんなにいたはずはない。

デモの参加者数は基本的に多めに見積もられる。

そんないい加減なことをしていれば人々はついてこない。

「今日は10万人も集まりました!この調子で頑張りましょう!」

と言って身内で勝手に盛り上がっていたのでは、たとえ安保に疑問を感じていても

デモに参加しようという気は失せてしまうだろう。

 

今回のデモに参加したSEALDsの学生やその他の若者は、この「負け」を反省するのだろうか。

また、数十年後もどうにもならない状況になった後で国会前で「戦争反対」をさけびつづけるのではないだろうか。

 

 

結局、日本のデモは開催時期を考慮すると「本当に変える」ためにあるのではない。

それは、数十年に一度、国会で安定した勢力を持たない左翼陣営が

自分たちの存在を誇示するための「祭り」なのだ。

僕自身、自分はリベラルな考えを持っていると思っているし安倍政権の議論の進め方はおかしいと思う。

しかし、現状のような自己陶酔的なデモをやっていても人々はついてこない。

本当に政治を変えるための努力を怠ってきた人々のデモに、僕は怒りを抑えることができない。

集団的自衛権から考える -右の傲慢、左の欺瞞ー

集団的自衛権に関する議論が盛り上がっている。

これほどの規模になったのは、間違いなく3人の憲法学者

集団的自衛権違憲としたからだろう。

 

最近は24歳の女性フリーターによる演説が話題になっている。

24歳女の子が安倍晋三に向けてスピーチ。 | 宮崎イベント情報&ライフスタイルマガジン|LAZYBOY レイジーボーイ

思えば、60年安保の時は大学生と政党の党首が反政権デモの中心だった。

全共闘日本赤軍に代表される左翼運動の失敗により

その後の日本では、社会運動と知識人への人々の期待が失われていった。

24歳のフリーター少女が反政権のアイコンとなりつつあるのも

知識人と政治への不信感を如実に表している。

 

安倍政権憲法解釈で集団的自衛権を導入しようとしたのは明らかな傲慢だ。

憲法改正という段階を「面倒だから」という理由ですっ飛ばせば

憲法の存在意義が失われるし、今後も憲法解釈の変更であらゆる法案を

通せるという前例を作ることにつながる。

世論は「反安倍」という大きな流れを形成しつつある。

これは、60年安保で安倍総理の祖父、岸信介が退陣に追い込まれたのとまったく同じ構図だ。

様々な意見の相違はあったし、そもそも多くの国民が安保の内容など理解していなかったにもかかわらず、

国会前に数万人が集まり結局、岸は法案可決と同時に辞職した。

 

そういう傲慢な政権運営は確かに問題なのだが

僕は反対派の運動の仕方にも疑問を感じる。

集団的自衛権の議論になると必ず「戦争」というワードが登場する。

確かに日本は先の大戦で甚大な被害を諸国に与えたわけだし、戦争はあってはならない。

しかし、憲法違反で議論が盛り上がったのに乗じて「戦争反対」を唱えることは正しいのか。

そもそも集団的自衛権違憲と断じた憲法学者は戦争反対“だから”違憲といったのではない。

憲法という国の根幹にあたる法をないがしろにした“から”違憲と言ったのだ。

彼らは自らの政治的主張のみに従って判断を下したのではない。

それをさも「戦争反対」という信条に引きずられて判断したかのように

論陣を張るのは学者にとっても失礼なことだろう。

 

「戦争反対」は絶対的な正義だ。

それを簡単に振りかざせば、安全保障に関する議論は全て萎縮してしまうかもしれない。

僕は、集団的自衛権に関する議論が巻き起こることは必要だとおもう。

「戦争反対」と唱える人々は、「どう国を守るべきか」という問いに答えられるのか?

その問いの典型的な答えはいつも曖昧だ。

「他国と友好関係を維持する」

といっても「どう友好関係を維持するのか」

つまり「どう戦争を防ぐか」はいつも棚上げされている。

その問いに答えられないのであればそれは「”なんとかして”平和を保つ」と言っているのと同じであり、

思考のレベルとして「なんとかしてアメリカに勝つ」と言っていた戦時中の日本軍と

なんら変わりはない。

日本において理想論ばかりを語ることは安易な精神論へと行き着き、最終的に破滅を待つだけなのだ。

 

 もう一つの疑念は「デモの先に何があるのか」ということだ。

官邸前デモやSEALDsのデモは最近盛り上がりを見せている。

デモという選択には大きな意味があると思う。

しかし、たとえデモが大規模になり目的が達成されたところで

この国の未来には何があるのか。

現実的に、今の政界で政権を担当できるのは自民党だけだろう。

民主党はあまりに多くの意見を党内に抱え込んでいる上に、さきの民主党政権の失敗で国民から見放されている。

その他の党も政権運営能力や規模の点からみて厳しいものがある。

デモで既存の政治勢力を倒した後に権力を握るにふさわしいオルタナティブが存在しないのがこの国の現状だ。。

実際、日本は歴史的に民衆のデモによって実際に変革を成し遂げたことがほとんどない。

1960年の全学連は大量の人を動員し国会に突入までかけたものの、首相の退陣という成果しか残せず、その後も自民党が政権を担い続けた。

1969年の全学連にしても同様だ。

デモの先に打ち立てるべき未来像、そしてそれを実現していくためのサステナブルな集団がこの国には存在しない。

だから、60年前から延々と安保法案という同じ内容でもめ続けているのだ。

現在のデモの唱えていることは「子供のために戦争のない未来を」というレベルだ。

そもそもどういう理論で戦争のない未来は実現されうるのか

そしてそれをどういうやり方で国政のレベルで実現させるのか。

今のデモはそれを子供世代に放り投げ、現状を否定しているにすぎない。

駄々をこねているのと同じなのだ。

 

さらに絶望的なことを言えば、日本でこのような意見を述べれば

直ちに「右翼」とか「戦争したい人間」というレッテルを貼られる。

まるで、国を批判した人間を「非国民」と断じるのと同じだ。

ここまで述べてきた中で、戦争を礼賛するということは全く言っていない。

ただ、理想を具体的に示し、実現させろと言っているだけなのに。

 

ここまで書いてきて察せられるように、

日本人の政治思想は、本質的には戦時中からあまり変わっていない。

政治的主張の中身を見れば、極端な現実主義者か理想主義者しかおらず

そのどちらもが日本人が目指すべき日本の理想像を具体的に政策レベルで示そうとはしない。

そして、自分と相容れない部分があれば直ちにレッテルを貼り議論を封殺する。 

左右両陣営が、自分たちがいかに敗戦から教訓を得たか強調しておきながら

どちらも精神構造的にはまったく変化がない。

戦後70年という節目に、日本人という集団がいかにあるべきかが問われている気がしてならない。

 

 

Fly me to the moon

僕は何にでもなれる。

2~300年前の人達が流してくれた血のおかげで

僕がなりたいものになることを妨げるものはほとんどない。

自分の頑張り次第。

でも、「何にでもなれる」ということは「全てになれる」ということを意味しない。

人間はこれだけ自らを取り巻く環境を変えてきたのに、

相も変わらず僕らはいつか死んでしまう。

こうしている間にも死へのカウントダウンを刻んでいる。

時間制限の中で、僕たちはようやく一つ何かになれたら十分だ。

だからこそ「他の何者かであったかもしれない自分」という亡霊は執拗に付きまとう。

 

「何かになった自分」は「他の何かを諦めた自分」と表裏一体だ。

 

あの日、別の決断をしていたら自分はどうなっていただろう。

いや、今この瞬間こんなことを書かずに勉強していたら

僕は何になれただろう。

もっとましな何かになれたのではないか。

ブレーキのない車で、道なき道をでたらめに走っているような感覚。

どこまででも行けそうなのに、どこにも行きつかない。

 

殆どの人間は、道のない世界を自信満々に進めるほど強くない。

みんな不安でしょうがない。

だからみんな先人の残した轍を辿る。

道なき世界に道を作ることが美徳とされながら。

何をどれだけやれば、自分は何かになれるのか。

他人は自分を確固とした「何か」として認めてくれるのか。

全ては自分の判断に丸投げされている。

 

世界は、「君は何にでもなれる」という騒音に満ちている。

「いつかもっとましな何かになれる」と考えると

目の前の世界が色あせてしまう。

大しておいしくもないのにぽりぽり口に運んでしまうスナック菓子のように

大して価値もない情報がタイムラインに流れ、それをなんとなく消費する。

そうしている間に、気づかぬ間に

「何かになれる可能性」は時間とともに少しずつ消えていく。

いつしか、何物にもなれなかった自分だけが残る。

空想は頭の中に積み上がり、虚しさだけが増していく。

 

 

「悔いのないように」と言われる。

しかし、「何にでもなれる世界」の中で「他の何かになりたかった」と思わずに

生きていくことなどできるのだろうか。

きっと、「何かになる人達」は僕が途方に暮れている間に

自分で作ったコンパスを一心に見つめ、目的地への距離を縮めるのだろう。

そういう人たちの存在は僕の不安を喚起するけれど、

そうなりたいと思えない自分がどこかにいる。

いつか、そんな素直になれなかった自分を後悔する時がくるのかもしれない。

僕は何にもなりたくないのかもしれない。

 


Frank Sinatra - Fly me to the moon (with lyrics) - YouTube