なすの日記

思考を散歩させるための場所

とりとめのないこと

上手くいけば僕の学生生活は、あと数か月で終わる。

 

少なくとも僕のファーストキャリアを既に決まっていて、その仕事はある程度、今後の僕の人生を規定していくことになるだろう。

年齢もあと少しで25になる。

誰が「四半世紀」とかいう余計な長さを感じさせる表現を考えたのか知らないが、年を取ったのだという感慨はある。

世間的にはまだまだ若者で、これからなんでもできるという扱いなのだろうけど、

個人的には、そろそろ自分に折り合いをつけていく場面が増えるんだろうと思う。

 

一生は短くて、その間にできることはほんのわずかで、取り返しのつかいないことが多すぎる。

ほとんどのことは、別の何かで取り返せても、どうしようもないことが増えていく。

同世代はほとんどみんな就職していて、結婚する人もどんどん増えていく。

後戻りしようのない決断を、次々と下していく。

レールに乗ろうとも外れようとも思わないけど、そういう決断が下せることに、とても驚きを感じる。

僕は、まだ子供だ。

未だに抽象的なことばかりを考えている。

だから、目の前に転がっていた幸せのような何かを踏んづけて道の先ばかりを見ている。

 

この先働き始めたら、歯を食いしばってお金を稼いで、少しずつ増えていくお給料に比例して、着るものと食べるものと住むところのレベルを上げていく以外に何かすることがあるんだろうか。

僕は、地方から出てきた田舎者として、東京を埋め尽くす記号を消費しているし、これからもそうしつづけるだろう。

どこまでいっても上がある。

値段が上がればそれは、「よりおしゃれ」で「よりおいしく」て「より良い環境」なのだ。

東京で生まれ育っていない僕は、自分の中の欠落感を東京に求めていたのだろう。

そして、それは僕に限ったことではない。

無限に「上」を見せてくれる街で、死ぬまで「上」を見続ける。

それは「夢」と呼ばれているが、じっと見つめるとなんだかよくわからない。

美術館に置かれているという理由だけで芸術として認識され、パシャパシャ写真を撮られている現代アートみたいなものだ。

なんだかよくわからないものに突き動かされている。

それは、欲望ですらないと感じる時もある。

そこに虚しさがあるのは確かだ。

その虚しさを、東京も学歴もテクノロジーも埋めてはくれない。

 

来年の今頃はもうそんなことを忘れて、どうやって数字を作るかということしか考えられなくなっているかもしれない。

それはそれでかまわない。

だから、この虚しさは死にゆく青い自分の断末魔みたいなものなのかもしれない。

この文章を見た未来の自分に「若かった」なんて思われると想像すると本当に癪だ。

来年の自分が少しでも生き生きしていることを願う。