なすの日記

思考を散歩させるための場所

僕が留学する理由

「なんで留学するの?」

よくそう聞かれる。無理もない。

行き先はなじみのない北欧の国だし、英語もあまりしゃべれない。語学は嫌いだ。

さらに言えば、外国人とのコミュニケーションがとても苦手である。

別に考えが違ったりぶつかるのはいい。

ただ、自分の気持ちを正確に伝えられないことがどうしようもなく怖い。

間違った表現で相手を傷つけたり怒らせたりすることを考えると話しかけられない。

要するに、内面だけを見れば僕ほど留学から縁遠い存在はいないといってもいい。

それでも留学することにした理由を、留学に行く前に書き留めておこうと思う。

 

興味はないかもしれないが幼少期の思い出から始めたい。

僕は10歳まで人口4000人の田舎で育った。

県庁所在地からも車で3時間かかる場所で、鉄道も高速道路もフェリーもなかった(はず)。

そんな誰も知らないような辺鄙な田舎に10年ほど前まで大きな工場があった。

そして、不思議なことに外国人がよく出張で町に来ていた。

日本人でさえ大抵の人は知らない町に。

幼稚園か小学生の頃で、特に話したりしたわけでもないと思うが

なんとなくそれが普通だと思っていた。

 

11歳で大きな都市に引っ越した。

日本全体で見れば田舎かもしれないが、前と比べれば大都会である。

しかし、意外なことにこの都市(まあ松山なんだけど)で外国人を

身近に感じたことはない。

街に多少の観光客はいたが、学校に留学生がいたわけでもなく

地域に外国人が住んでいたわけでもなく、留学する同級生もほとんどいなかった。

その点、先日発表されたトビタテ留学JAPANの高校生コースは300人も海外に送り出すというのだから、時代が変わったのか地方の宿命なのか…。

別に環境のせいにするわけではないが外国人のような自分とは違った価値観を持つ人と

交流を持たないまま10年近くを過ごす中で、僕はいらぬ羞恥心を身に着けてしまった。

だからこそ、幼いころ抱いていた、「何言ってるかわかんないけど同じ人間であることだけは分かる。だから大丈夫」みたいな感覚を取り戻したいのかもしれない。

どこに置いたかも思い出せないけどなぜか諦められない忘れ物みたいな感情。

 

こんなことを言うと怒られるかもしれないが、留学しない合理的な理由はいくらでもある。

この10~20年でまず確実に自動翻訳の性能が日常会話に支障のない程度に上がるだろう。

そうすれば、ほとんどの人は英語を学ぶ必要がなくなる。

人間の話す不安定な第二外国語より機械の方が信用されるかも。

少子高齢化と人口減少に伴う市場の縮小が叫ばれる日本だが、それでも1億以上の人口を抱える大きな国だ。

まだまだ国内だけで稼げる市場は残っているし、これから伸びる業種だってある。

無理にグローバル人材を目指す必要はない。

 

デンマークとかいうマイナーな、自分にとっても未知な国に行くのも偶然としかいいようがない。

消去法で決めた後にいろいろ調べた結果、面白そうな国だとおもった。

「適当に決めたけど、調べると俺にぴったりじゃん」という感じ。

留学計画も詳細に書いた。それらは間違いなく自分のやりたいことを反映させたから全く嘘ではない。

でも、それは僕にとって留学の一つの側面でしかない。

語学力とか議論する力とか人脈とか、人が留学に求める理想はたくさんある。

でも僕は1年外国に行っただけで、世界の優秀な人と渡り合えるような人材になれるとはあまり思っていない。

留学は「スキル」を身に着けるための特効薬ではないと思う。

少なくとも僕にとっては。

 

自分の知らない世界があって、自分と違う人がいて、自分はそれを完全に理解することはできなくて、

でもそういうものに対する親しみがよみがえれば。

あるいは警戒心が解かれれば、それでいい。

その程度かと言われるかもしれないけど

合理的な理由ではないから

誰から何を言われても気持ちは変わらない。

まだ日本でしか暮らしたことのない僕は、そんな風に思っている。

「○○はダメだ!」という思考停止

身の回りにある矛盾について考えると怒りを感じるに至ったりする。

サークルにいそしんで、学問に対して真摯でないように見える大学生を目にすると

「大学生なのになぜあそんでばかりなんだ」「大学は学問をするところだぞ」

「海外の学生は寝る間も惜しんで勉強しているらしい」「こんなんだから日本もよわくなりつつあるんだ」

「今の学生はダメだ!」

これは一つの例だけど、入学してすぐはこんな怒りにも似た思いを抱えていたこともあった。

この話だけでなく、「○○はダメだ!」という思いにいたることはよくある。

 

なんでこういう話をだしたかというと

最近、「○○はダメだ!」とだけ唱えるのは“思考停止”なんじゃないか

という思いを強くしたからだ。

別の言い方をすると、「○○はダメだ!」という主張が価値を持つ局面はあまりないのではないか、と思う。

「○○はダメだ!」という感情は即ち「否定」だ。

この回では論理的否定ではなく感情的否定に注目していきたい。

 

「○○はダメだ!」という否定の意見表明をしてしまう場面は多々ある。

自分と意見の合わない人を見つけたとき。

世の中の矛盾が自分や他の人にとって不利益をもたらすとき。

否定する対象は個人であったり国であったり

あるいは漠然とした概念であったりする。

では、なぜこういう否定的な感情が生まれるのだろう。

 

ある特定の個人や集団に対して否定の感情を持つ場合は

「俺はこいつらとは違う」というアイデンティティ形成の手段となっている可能性がある。

アイデンティティを極端に簡単に要約すれば「他人と違う」ということであり、

その感覚を得る最も容易な方法は「他者の否定」だ。

最初に述べた僕の体験談はまさにこれに該当する。

他人と一緒にされるのは嫌なのだが、自己を確立するための努力もしたくない。

そういう人のための安易な自己確立手段が「否定」なのである。

 

もちろん否定の全てがアイデンティティ形成のためにあるわけではない。

本当に現実に対して問題意識を感じ、何かを変えたいという場合もその現実をとりあえず「否定」する

でも、その問題をどう解決していいのかわからない場合、そのどうしようもない思いを否定の感情としてぶつけてしまう。

この状況は、自分が不快であることを言葉によって伝えられずに大声で泣く幼児に似ている。

もちろん、全ての人が目の前の問題に対して合理的な解決策を考案できるほどの思考力や知識を持ち合わせているわけではない。

しかし、どうしていいか分からないからと言って否定の感情をまき散らすのは

思考停止としかいいようがない。

 

感情的否定の良くない点はなんといっても議論の可能性を殺してしまう点にある。

論理的考察を経た否定はその論理の欠陥が発見されれば、意見が変わる可能性がある(まあそれは理想に過ぎないわけだが…)。

しかし、感情的否定はまさにその主体に湧き起った感情であるので論理的な説得が通用しない。

感情的否定の主体の持つ認識が間違っていたとしても、それを訂正することはできない。

一見、論理的に何かを否定していてもその発議の出発点が「怒り」などの感情であった場合、最終的に「いや、とにかくそれは違う」という主張となり、説得の努力は徒労になってしまう。

議論の可能性を断ち切る感情的否定は、目の前の問題をなんとか解決させようという努力を無に帰してしまう。

いってしまえば「どうしようもない」のである。

もっと難しい言葉で言えば、感情に固執する人間は「動物的」であり

「動物的」な人間に対処するにはこちらも「動物的」になるしかない。

「動物的対処」とは力による対処に他ならない。

 

感情的否定が何かをかえる局面もある。

感情的否定は誰もが持つことのできるものなので共通文脈となりやすい。

デモや革命は感情的否定を動員しなければ成功しない。

 

いろいろ書き散らしたが、何が言いたいかといえば

「○○はダメだ!」と言うなら、その問題に関して議論する余地があなたにあるのか。

その余地がないなら問題に対して真摯であるとは言えないし、

逆にそういう感情的な否定に論理的に相手をしても無駄だということだ。

 

あの日あの場所にいたかもしれない自分

 

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*今回のエントリーはごく個人的な発散なのであまり読んでも意味はないと最初に言っておきます。

 

 

今でも1年前あの場所になぜ行かなかったのかよく考える。

本当になぜかわからないけど、自分はいてはいけないような気がした。

たくさんの人が一つの目標の実現に向けて頑張っていた。

僕も最低ラインのことはやっていた。

でも、他の人たちの熱意に自分は及ばないと最後まで思っていた。

だからこそ、行くと言えなかった。

その場所へ行ったら安易な達成感を得てしまうような気がしていた。

本当に大勢の人が全力を尽くしていた。

その目標が達成されれば、その先にはきっと大きな感動が待っている。

そして、その感動の渦の中に入っていれば

僕も何かを成し遂げた気分に浸り、涙を流すことができただろう。

でも、それをしてはいけないという思ってしまった。

それは若干の後悔として僕の中にあるけれど、それは行かなかったことへの後悔じゃない。

他の人と同じように頑張れなかったことへの後悔。

頑張る価値のあったにもかかわらず、全力を捧げられなかった後悔。

どこかで、よくわからない反発心のようなものがあって頑張ることを妨げていた。

今でも当時頑張っていた人と会うのは少し気がひける。

 

自分はいつ頑張れるのだろうといつも思う。

自分は何のためなら頑張れるのだろうといつも思う。

過ぎ行く時間は二度と戻らない時間であることはわかっている。

でも、その不可逆的な時間を悔いなく過ごそうともがけばもがくほど

疲弊し、幻滅し、結局怠惰な自分に逆戻りする。

「死ぬ時に後悔しないように」としばしば言われるけれど、

自分の性格ならいろいろやり残しても「まあいっか」と言ってしまうだろう。

自己啓発という燃料を永遠に注ぎ続けなければ走れないのだろうか。

では、なんのために自己を啓発するのかそれすらよくわからない。

 

中途半端に勉強してしまったせいでいろんな欺瞞に気づいてしまった。

きっと欺瞞という言葉を使う時点で僕は何かから逃げて何かを暴いたつもりになっているのだろう。

僕が「欺瞞」と呼んでしまうそれを欺瞞と感じずにいられたら。

大人に教えてもらった常識を疑いもなく信じられたら。

 

一人前になるには

一昔前の偉い人の経歴を見るとずいぶん長いこと学生をやっている人が多い。

院に進んだ人もいるだろうが留年している人も多い。

今の風潮だと留年はかなり避けられるものであるようだ。

留年するとその人はとても怠惰な人というレッテルを貼られたりする。

でも、ストレートに大学を卒業した場合、大学にいる年数はたったの4年。

長いようで実はとても短い。

それは大学生でも2年を過ぎたあたりで実感し始めることだし、

すでに卒業した人はもっと強く感じていることだろう。

たった4年で何を学ぶというのか。

これは、大学のカリキュラムの話ではない。

自分の中に、軸というか「俺はこうやって生きていくんだ」

という確信めいたもの手に入れられるかという話だ。

言い換えれば、「もう学生は辞めて次のステージに進もう」

と思えるようになるまでに僕たちはどれだけの時間が必要なのだろう。

僕は少なくとも4年では足りないと思っている。

3年になってやっと“学生”のうちにどうすればいいのかが見え始めた。

逆に4年も必要ない人もいるだろう。

 

でも、僕達には向き合わなければならない現実というものがあって

それは、僕らがのんびり学校を卒業することを許さない。

ここ30年で物価は2倍になった。

ところが、国立大の学費は15倍、私立大は4倍になった。

「学費を自分で出す」と言っても昔の学生と今の学生では大変さが違う。

だから、人生において大学は駆け足で出るべきステージという位置づけになった。

本当は、学費という負担とやりたいことを見つけたいという熱意の微妙なバランスの上に大学生活があって、

学費を払って大学にいるより、学生という立場を脱し社会にでてやりたいことをやらなきゃ

と思ったときに初めて大学という場所がアカデミズムの世界に生きる人以外にも価値をもつのではないか。

 

大学というのは「一人前」になる場所だと僕は勝手に思っている。

「一人前」とは自分で様々なことを判断し、その責任を負えるようになること。

大学生はすごく曖昧な時期で、高校生だと「一人前」とはみなされない(だから少年法とかがあるのだろう)

4年間で僕は「一人前」になれるんだろうか。

人生には幾つかの区切りがあって、なかでも学生時代は特殊な時期だと思う。

学生時代は親や学校に守られながら社会のいろんな側面をぼーっと見つめていたい。

湧き上がるエネルギーに身を任せて

友達と行動を起こしたり、突飛なことをしていたい。

でも、そんな悠長なことは許されないのだろう。

学生の間にたくさん勉強して“スキル”を身につけねばならないのだ。

英語、コミュニケーション能力、論理的思考。

 

少なくとも僕はそういう“スキル”を“スキル”として身につけられるような偉い人間ではない。

そういうことに違和感を感じ、反発したがる欠陥のある人間だ。

誰からも「良い」と言われることをやるのがどうしようもなく嫌だ。

テストでいい点を取ろうとしたり、みんなを好きになろうとしたり、なんでもかんでも真剣に受け取ったり、体にいいものばかり摂取しようとしたり、決まりを守ろうとしたり。

秩序を乱したいわけではないけれど、好きに生きようとしたら秩序や規範をはみ出してしまう人間だってたくさんいるのだ。

そんな人間が「一人前」になるにはどうしても長い時間がかかる。

世間からはみ出さざるをえない人間が生きていける世界はもうなくなってしまったのだろうか。

何も言えない世界へ 

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「何も言えない世界」が到来しつつある。

言論の自由は権力によってのみ奪われると思っていた。

もちろん権力は今でも言論を弾圧しうる。

しかし今、言論を抑圧しているのは市民の方だ。

俗にいう「炎上」。

何気ない発言や行動があっという間にインターネット上に拡散され

当人が謝罪や撤回に追われるのはもはやお馴染みの光景となった。

 

炎上を引き起こす人達には2種類あると僕は思っている。

一つ目は、勝手に代弁する人。

このタイプは「中には不快に思う人もいるのではないか」という論法を使う。

「子供に悪影響だ」「高齢者に失礼だ」「被災者が辛い思いをする」

では自分はどうなのか?

まるで問題となった発言や行動の対象となった人達が声を上げられないかのような言い草ではないか。

子供が嫌かどうかは子供に聞くべきだし被災者が辛いかどうかは被災者に聞くべきだ。

その他もすべて同様だ。

にもかかわらずタイプ①の人は自分が声なき弱者の代弁者になった気分で

自分の主張を振りかざす。

「私は当事者だが不快に思う」という声が一定以上集まって初めて批判は受け取るべきものとして認められるべきだと思う。

 

二つ目のタイプは、専門家。

このタイプは自分がその道の専門家であるがゆえに異論を認めない。

専門外である人の発言を「言葉の定義レベル」から追求し、間違っていると断罪する。

その結果として専門家以外の人は発言する意欲を失ってしまう。

自分の知らない知識を振りかざされ、間違っていると断言されれば

多くの人は「自分は無知だから何も言わない方がいい」となるだろう。

そもそも言葉の定義から問い直すという方法は議論を破綻させる。

例えば「被災地をどう復興させるか」を話し合おうとしたとき、

「そもそもどこが被災地なのか」「復興とはどういう状態なのか」ということを

話し始めればそもそもの議題である「被災地をどう復興させるか」は話し合われず、

言葉の問題に終始するという本末転倒な状況に陥る。

あるべき態度としては、相手の方が無知なのであればその人にとっての言葉の定義を推し量り、

それに応じて議論を展開すべきだ。

相手の主張が間違っていると感じたとしても、最初にすべきことは否定ではなく話を聞くこと。

言葉で表現できることなど思考のほんの一部でしかないのだから粘り強く長々と

問答を繰り返さないと相手の真意なんて分かるはずがない。

文字のやり取りだけで相手の主張を理解できるなんて考えることは怠惰と傲慢の極みだ。

 

タイプ②のもう一つの特徴は「自分が絶対的に正しいと思っている」こと。

その自信を保証しているのは、長年やってきたとかいう程度のことでしかない。

それがいい意味での誇りに昇華するなら良いが、他の意見を受け入れない傲慢へと

変われば自分の価値を下げるだけだ。

知識の量はその人の価値に何ら影響を与えるものではなく、

その知識を使ってどういう論を展開するかが重要ではないのか。

知識は論を補強するために使われるべきであって、それ自体が評価されるべきではない。(特に今の時代)

自分より知識が少ない人を見つけるたびに、「啓蒙」しようと飛びかかる人が

ネット上にはあふれている。

専門を極めたとしても、本来の動機はそれを何らかの形で社会に還元すること(直接的でなくても構わない)であり、そのためには結局多くの人が理解できるような話を展開する必要がある。

無知に飛びつく物知りはまさに何の役にも立たないチンピラと変わらない。

 

 

通信技術の発達以前の人はまさか市民の側が自由な言論を抑圧する立場にまわるとは思いもよらなかったであろう。

何も言えない時代にあってどう物申すか。

自覚ある一人一人が「戦う」必要がある。

 

 

 

Mighty holes ー都市の中心に関する考察ー

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東京という都市の中心には巨大な空虚がある。

周囲を高層ビルに囲まれながら、その場所だけは緑を湛えている。

江戸時代には、江戸城という巨大な構造物があり今とは逆に江戸の町を見下ろしていたというから皮肉だ。

皇居という場所から発する力は日本における天皇の存在感を象徴している側面がある。

皇居同様、天皇という存在自体も日本の中心でありながら空虚でもあった。

一部の時代を除き、天皇は権力そのものではなく権威として機能してきた。

言い換えれば、西洋の王や中国の皇帝とは違った存在感を放つ存在なのだ。

その天皇、および皇居から発せられる力は

例えるなら近づくほどに強くなる下向きのベクトルだろう。

我々を引き寄せるわけでもなければ、排斥するわけでもない。

近づくほどその磁場は強くなり、動けなくなる。

 

都市にはその都市や国そのものを象徴する何かがある。

東京と同様に中心に空虚を持つ都市といえばニューヨークだ。

非常にわかりやすいことに、その場所には「セントラルパーク」という名が付いている。

同じ空虚でも東京とニューヨークには大きな違いがある。

それは、セントラルパークは誰もが思い思いの時間を過ごせる場所だということだ。

その場所からは人々を引き寄せる力が発せられている。

それは、アメリカという国の成り立ちを象徴しているように思える。

アメリカは移民によって建国され、様々な人種を受け入れることによって成長してきた。

世界中の人々を惹きつけるその引力の源はセントラルパークにある。

引力は「アメリカンドリーム」と換言することもできるだろう。

引き寄せられた人々はエリス島の移民局を通り、自由の女神という夢を見せられ

セントラルパークに達する。

都市の中心が人々の集まる場であるということは、

その都市の一種の意思表示でもある。

 

2001年、ニューヨークに新たな穴が開いた。

グラウンドゼロ

その場所からはセントラルパークとは逆方向の力が発せられつつある。

 

同時多発テロ以降、アメリカはその報復としてアフガニスタンイラクに次々に侵攻し

自己の力を発散させてきた。

市民は愛国心を高ぶらせ、イスラームへの排斥運動は激化した。

セントラルパークから発せられる力の正体が夢や希望だとするなら

グラウンドゼロから生まれる力は「その日死ぬはずのなかった人々の死」によって生じた憎しみや悲しみ、そして異教徒への恐怖だ。

今のアメリカは二つの力がせめぎあっているように見える。

まじめな人

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「まじめ」とはなんだろうか。

決まりを守ること

よく勉強すること

嘘をつかないこと

「まじめ」という言葉は良い意味でも使われるが、

皮肉としてつかわれることもある。

辞書によると

うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。

らしい。

 

最近、まじめっていいなって思う。

僕の言う「まじめ」はかなり限定された意味だ。

僕の尊敬する「まじめ」な人は

自分の価値観、感覚に対して嘘をつかない人のこと。

日々暮らしていく中で「これは違くね?」とか「ちょっと嫌いかも」

という思いによく出会う。

それは例えばサークルかもしれないし授業かもしれない。仕事かもしれない。

そんなとき人はどうするだろうか。

始めたばかりならもう少し続けてみる。

しばらく続けていたなら、本気になる余地がないか確かめてみる。

それでも違和感を持ってしまう。

そこで、自分の持つ価値観の方向にシフトできる人を

僕は「まじめ」と呼びたい。

 

人間というのは他人の価値観で生きてしまいがちな生き物だと僕は思っている。

みんなお金持ちになりたいと思うし中小企業より大企業に勤めたいし

他人から高く評価されたいと願う。

目指したものになれた時、それはそれで本当に幸せなのかもしれない。

でも何か鬱屈としたものを抱えながら

社会的評価の高い目標を目指しているのはただの思考停止だ。

それは世間で使われる「まじめ」という言葉が指す意味と同じ。

良い大学にいくために「まじめ」に勉強し

良い会社に入るために「まじめ」に活動する。

 

でも、本当の意味でのまじめな人は自分の価値観や感覚と誠実に向き合う人だと思う。

そういう人はとても強い。

様々な体験を通じて自分と向き合った結果、結論を下すから

他人の言葉になびかない。

自分を他人の作った環境に適応させるのではなく、自分が生きるための環境を作り出してしまう人。

その行為は「理想の実現」というきれいな言い方もできるが

実際は自分を納得させるために「そうせざるを得なかった」というネガティブな表現のほうがしっくり来る気がする。

それは自分の感覚を無視したりすることのできないめんどくさい人間ともいえる。

 

「すごい人」っていうのは別に崇高な人じゃないと最近思う。

一つの目標があってそのための一本道を走り抜けるというイメージは

確かにかっこいいけれど、初めから見えている道なら走るのは簡単だ。

 

方向性ブレブレでいろんな道に入っては行き止まりにぶつかり引き返す。

ところが俯瞰してみると距離的には実はものすごく進んででいたり、ほかに誰もいない場所へたどりついたりする。

そういうのは傍から見るとダサいし何をやっているかよくわからない。

でもそういうものなんじゃないかな。

他人からすごいといわれるために何かをするのはもう終わり。