何も言えない世界へ
「何も言えない世界」が到来しつつある。
言論の自由は権力によってのみ奪われると思っていた。
もちろん権力は今でも言論を弾圧しうる。
しかし今、言論を抑圧しているのは市民の方だ。
俗にいう「炎上」。
何気ない発言や行動があっという間にインターネット上に拡散され
当人が謝罪や撤回に追われるのはもはやお馴染みの光景となった。
炎上を引き起こす人達には2種類あると僕は思っている。
一つ目は、勝手に代弁する人。
このタイプは「中には不快に思う人もいるのではないか」という論法を使う。
「子供に悪影響だ」「高齢者に失礼だ」「被災者が辛い思いをする」
では自分はどうなのか?
まるで問題となった発言や行動の対象となった人達が声を上げられないかのような言い草ではないか。
子供が嫌かどうかは子供に聞くべきだし被災者が辛いかどうかは被災者に聞くべきだ。
その他もすべて同様だ。
にもかかわらずタイプ①の人は自分が声なき弱者の代弁者になった気分で
自分の主張を振りかざす。
「私は当事者だが不快に思う」という声が一定以上集まって初めて批判は受け取るべきものとして認められるべきだと思う。
二つ目のタイプは、専門家。
このタイプは自分がその道の専門家であるがゆえに異論を認めない。
専門外である人の発言を「言葉の定義レベル」から追求し、間違っていると断罪する。
その結果として専門家以外の人は発言する意欲を失ってしまう。
自分の知らない知識を振りかざされ、間違っていると断言されれば
多くの人は「自分は無知だから何も言わない方がいい」となるだろう。
そもそも言葉の定義から問い直すという方法は議論を破綻させる。
例えば「被災地をどう復興させるか」を話し合おうとしたとき、
「そもそもどこが被災地なのか」「復興とはどういう状態なのか」ということを
話し始めればそもそもの議題である「被災地をどう復興させるか」は話し合われず、
言葉の問題に終始するという本末転倒な状況に陥る。
あるべき態度としては、相手の方が無知なのであればその人にとっての言葉の定義を推し量り、
それに応じて議論を展開すべきだ。
相手の主張が間違っていると感じたとしても、最初にすべきことは否定ではなく話を聞くこと。
言葉で表現できることなど思考のほんの一部でしかないのだから粘り強く長々と
問答を繰り返さないと相手の真意なんて分かるはずがない。
文字のやり取りだけで相手の主張を理解できるなんて考えることは怠惰と傲慢の極みだ。
タイプ②のもう一つの特徴は「自分が絶対的に正しいと思っている」こと。
その自信を保証しているのは、長年やってきたとかいう程度のことでしかない。
それがいい意味での誇りに昇華するなら良いが、他の意見を受け入れない傲慢へと
変われば自分の価値を下げるだけだ。
知識の量はその人の価値に何ら影響を与えるものではなく、
その知識を使ってどういう論を展開するかが重要ではないのか。
知識は論を補強するために使われるべきであって、それ自体が評価されるべきではない。(特に今の時代)
自分より知識が少ない人を見つけるたびに、「啓蒙」しようと飛びかかる人が
ネット上にはあふれている。
専門を極めたとしても、本来の動機はそれを何らかの形で社会に還元すること(直接的でなくても構わない)であり、そのためには結局多くの人が理解できるような話を展開する必要がある。
無知に飛びつく物知りはまさに何の役にも立たないチンピラと変わらない。
通信技術の発達以前の人はまさか市民の側が自由な言論を抑圧する立場にまわるとは思いもよらなかったであろう。
何も言えない時代にあってどう物申すか。
自覚ある一人一人が「戦う」必要がある。