なぜ私たちは高校生の涙を見続けなければならないのか。
年末年始、テレビを付けると若者のスポーツ大会ばかりやっている。
特にすることもないので箱根駅伝と男女の高校サッカー選手権を延々と見てしまう。
駅伝は二日間、サッカーは1週間くらいある。
毎回、誰かが負けて泣く。
だから、お正月なのにたくさんの涙を見てしまった。
人生の中でもはや見飽きたと思うくらいに、若者の涙をメディアを通じて見てきた。
そういうお決まりのシーンが嫌いな人もいるだろうが、
基本的に僕はけっこう自分もウルっときてしまったりする。
しかし、なぜこの国ではこんなにも若者が泣く姿が消費されるのか、とさすがに疑問に思う。
今年の年始は、昼にリアルタイムで見た高校サッカーの試合からの夜のニュースでのダイジェスト映像と立て続けに高校生の泣き顔を見せられた気がした(どんだけテレビ見てたんた)。
スポーツに限らず年中なんらかの学生向けの大会が開かれ、いつも誰かが泣いている。
何年も一つの目標を持ってトレーニングをしてきたのに、
それがかなわなければ泣くのは当然の反応である。
しかし、敗者の涙にここまでクローズアップするのは
あまり欧米では見られないような気もする。
試しにアメリカのカレッジバスケを見てみたが、敗者は泣いてるっぽかったが、試合後はほとんど勝者しか映していないので分からなかった。
英語で「NCAA(全米大学体育協会) ロッカールーム」で検索すると、アメリカでも日本と同じように泣く生徒とねぎらう先生みたいな構図がいくつかあったが、数も少ないし、勝利後のワイワイを映した映像の方が多かった、
日本語で「高校サッカー ロッカールーム」で検索すると、たくさん動画が出てくる。
多くが敗者のロッカールームだ。
考えてみれば、大会は勝つために参加するものだし、勝者に重きを置くのが普通だ。
(さすがに、優勝者は注目されるが。)
しかし、おそらく日本でメディアに取り上げられる時間・スペースを比較すると、敗者に割かれるものが大きいように思う。
ある種、様式美と言えるまでになっている「若者の涙」は、なぜこれほど必要とされるのか。
一つに「敗者の救済」としての役割がある。
高校サッカーを例に取るなら、最後まで勝ち続けられるのは一校だけで、
地方大会まで含めればとてつもない人数が涙を呑んでいる。
では、目的である「勝利」を達成できなかった彼らの努力は無駄だったのか。
スポーツに限った話ではない。
何を勝ち負けとするかによるが、人生を通じて勝ち続けられる人などいない。
人生で一回でも「大勝利」と思えるような機会に遭遇できればまだマシなほうだろう。
ある目的のために払った努力・コストは感情的にも「無駄じゃない」と言いたくなる。
もし、ある目的達成のための努力が無駄なら、ささげた時間は無意味だったことになる。
その時間は二度と戻らないわけだから、すさまじい徒労感がその人を襲うだろう。
システムとしても「無駄かもしれない」という感覚を放置するわけにはいかない。
資本主義というシステムから考えると、どこかで負けても再び競争に参入してもらわなければ市場は発展しない。
たった一度の失敗で、出社しなくなっては困るのである。
だから、自分を納得させるためにも、システムを維持するためにも「努力は無駄じゃない」というメッセージが求められるようになる。
しかし、そんなこと自分で勝手に「努力は無駄にしない」と思えばいいだけではないだろうか。
なぜ、全国ネットで四六時中、若者の涙を見ねばならないのか。
これまた僕の勝手な持論なのだが、日本人は「不安」な民族だと僕は思っている。
ある出来事に対して評価を下す際に、自分一人では不安で下せないのだ。
この特性が端的に現れているのが、日本バラエティー番組だと思う(またテレビの話)
日本のバラエティー番組の中に、一時間ひたすらスタジオのゲストがVTRを見るという形式のものがたくさんある。
『世界まる見え!』とか『イッテQ』とか。
この形式だからこそ「ワイプ芸」も重要性を帯びてくるわけだ。
いつも、見ながら「これスタジオいらなくない?」「VTRだけ流しても普通に番組として成立するんじゃない?」と思ってしまう。
しかし、視聴者はVTRの中でどこがおもしろいのかを芸人という「笑いのプロ」やタレントという「一般人の代弁者」に明示してもらえなければ不安なのだと勝手に推測している。
だから、スタッフ笑いやら観覧客の笑いやらも重要になってくる。
まあ、アメリカのホームドラマとかもすごく笑い声が挿入されてるので日本に限った話ではないのかもしれない。
ここで、話が「敗者の救済」に戻ってくる。
つまり、「努力は無駄ではない」というメッセージをメディアを通じて確認しなければ不安になってしまう。
逆に言えば、そのような不安を和らげるために「努力は無駄ではない」というメッセージを発し続ける必要がある。
社会学っぽく言えば、「若者の涙」は特に精神的な側面における労働力の再生産のために必要となるコンテンツだと言えるだろう。
では、そのコンテンツはどうすれば効果を最大化できるのか。
重要なのは、努力の「純粋さ」だ。
よけいなことをせず、いかに一つの目標のために精神的にも肉体的にも時間を費やしたかが問題となる。
高校や大学であれば、基本的に3年や4年という時間制限もあり、「次」があるプロと比べても一つの試合や大会にかける思いが大きい。
(実際は、プロだって頑張っているわけだが、見ているこちら側が勝手に切実さを読み込んでしまう。)
余談だが、負けて彼女に慰められる高校球児の画像がネットで炎上するのも若者に純粋さが読み込まれている一つの証拠だろう。
貴重な若い時間の全てをささげた(とされる)人々が負け、涙を流したとき、コンテンツとして最も分かりやすくケチのつけようのないものとなる。
まとめると、ほとんどの人間が「負ける」資本主義社会において「これだけ頑張ってダメだったけど努力は無駄じゃないんだよ次につながるよ」というメッセージは、常に人々から必要とされている。
黙って再生産されていればいいものを、こんな風に分析してしまう自分は間違いなく「純粋」ではないだろう。
ただ、こういうことを指摘したのは「高校サッカー的」、あるいは「甲子園的」なコンテンツを批判したいわけではない。
かくも巨大な競争システムの中でもがき、敗北し、疲れては、日々だらだらと目に触れるコンテンツによって再生産され、再び競争の中に飛び込んでいくのかと思うと、自分は滑稽だと思った次第である。