なすの日記

思考を散歩させるための場所

僕らの世代

あなたにとって仕事とは何だろうか。

お金を稼ぐための手段か、はたまた自己実現の手段か。

2016年になった今でも、仕事はつらいものだというイメージは変わっていないのかもしれない。

同期が就活するのをみて強くそう感じる。

実際、社会に出て働くということがどの程度過酷なのか僕にはまだわからない。

おそらく、働いたら働いたで楽しいことも沢山あるだろう。

 

それでも、「仕事とは自分の中の何かを犠牲にするもの」であり続けているのではないか。

少なくとも、仕事を探す際には、自分の何を犠牲にできるのか問われている。

あるいは、学生のほうが、仕事を得るために何かを犠牲にすべきだという考えにとらわれて、先回りしているのかもしてない。

なぜ、僕たちは人生の節目で憂鬱にならねばならないのだろう。

学生という守られる一方でたくさんの制限のついた立場から、自分の力で未来を切り開く新たなステージに移行するのだから、その船出をもっと高揚感に満ちたものにできないのだろうか。

考えてみれば、どこを見渡しても不安に満ちている。

 

 

おそらく、日本では、あらゆる選択が「不安」を原動力としてなされているのではないか。

あるいは、世界も同じ状況なのかもしれない。

良い大学に行けないかもしれないという不安

良い就職先を見つけられないかもしれないという不安

昇進できないかもしてないという不安

家族を養育出来なくなるかもしてないという不安

 

とめどない不安に憑りつかれるように、人生の選択を下さざるを得ない状況があるのではないか。

いや、人生の選択だけではない。

ささいな選択にも、不安が関わっている。

資格をとったほうがいい

英語をやったほうがいい

陳腐な表現を借りれば、「したい」ではなく「したほうがいい」「しないとやばい」で全てが回っていく。

僕たちが、ものを考えるスピードよりも圧倒的に早いスピードで世界が回り、選択を迫られる。

自分が何をやりたくて、何に興味があって、何を愛していて、何を美しいと感じて、何を悲しいと感じるのか、

そんなことを考える時間をない。

そんなことを考える時間は無駄だ。

どれだけ天気が良くても、どれだけ美しい景色を発見しても、気になる小道を見つけても、学校や会社に向かい、社会の歯車とならねばならない。

 

歯車となる感覚こそが幸福であると教え込まれてきたのが今までの時代だったのかもしれない。

それは、多くの人が力を合わせ何か一つのことを成し遂げるためだと言われれば必ずしも悪いことではない。

しかし、幸か不幸か僕らの世代は、自由や個性を尊重することが大切だという価値観を浴びて育ってきた。

それは、既存の価値観を混ざり合い、なりたい自分と現実の自分との間にギャップを生み、そのことが常に僕らの世代を疲弊させてきた。

 

これからを生きるのは僕らの世代だ。

既存の価値観に安易に迎合すれば、なにも変わらない。

大人に、そして老人になった僕らは、新たな世代に対して同じ仕打ちをするだろう。

そうなってはならない。

今の社会に安全圏から文句を言うだけではだめだ。

僕らはすぐに年を取り、違和感に鈍感になり、いろんなことをあきらめるようになり、従順になってしまう。

いつしか当事者ではなくなってしまう。

そうなる前に、自ら声をあげ、行動に移さなければならない。

どれだけ逆風が吹こうと、自分たちの世代としての態度・姿勢を示さなければ、後の世代も同じ苦しみを味わうことになるだろう。

堂々と、不安に満ちた今の社会を拒絶し、幸福を追求する姿勢をはっきりと肯定するべきではないか。

 

陰で文句を言うでもなく、世の中を一気にひっくり返そうとするでもなく、

ただ、現実を変えるための努力を積み重ねたい。

中立はただの無関心かも

この前、友達に「お前はいつもニュートラルだ」と言われた。

それは、良い意味でも悪い意味でもないと思うけれども、自分の中でハッとするものがあった。

確かに僕は、常に中立的だ。

誰かがある意見を言えば、反対の立場で論じてみせ、何かを断言することはない。

何かを言い切ってしまうのは怖い。

物事には常に様々な側面があって、それをわかっていることが知性だと思っていた。

それは、あながち間違いではないと思う。

しかし、中立であるだけでは何も始まらないとも思う。

 

どこで見たか忘れたけど、「中立」という言葉のうまい説明がある。

中立とは、争いが起きたときに当事者を仲介するための存在、態度であり、

何も意見を述べなかったり、ただ両論を併記する人は中立ではない、と。

その通りだ、と思った。

 

世界は争いで満ちている。

大きなものから小さなものまで様々だ。

民族間の紛争から、今日何を食べるかまで、生きていればあらゆる場面で意見の対立に出会い、時に自分も立場の表明を求められる。

しかし、日本人は自分の立場を持つことに慣れていない。

公平であることが是とされ、学校でも家庭でも特定の主義主張が推奨されることは少ない。

しかし、「公平」が「意見を持たないこと」と同義になってしまってはいないか。

「公平」とは「聞く耳を持つこと」であり、意見をもたないということではないはずだ。

事実、意見がなければ何もできない。

自分で意見を持たなければ、誰かの意見に従うだけになってしまう。

 

意見を持つということは、誰かと対立するということでもある。

それは、日本人にとって避けるべきものであり、意見を持てない一つの原因かもしれない。

 

しかし、意見を持たないというのは、無関心と同義でもある。

関心を持たなければ、何かに関わり対立を経験する必要もない。

しかし、それでは何も問題は解決しない。

ある現象を「問題である」と認識し、それを自分が「良い」と思う方向に変えていかなければ、世界は何も変わらない。

若いうちは、誰かの大きな意見に流されていればいいというほど鈍感ではないはずだ。

だから、今のうちに意見を持つ癖をつけたい。

どんな小さなことにも自分なりの論理で意見を持ち、対立を恐れないように生きていきたい。

対立は敵対ではないし、自分より優れた論理は素直に受け入れればよいと思う。

それが「公平」ということだろう。

知性は、中立という名の無関心を維持するためではなく、前に進むための意見を持つためにあるべきものだと信じたい。

 

そして、叫ばれるだけの意見は意見とは言えない。

意見に基づいた行動がセットになるべきだ。

意見を持っていたとしてもほとんどの人は、意見を叫ぶだけだ。

その姿は、正直醜いと思う。

全ての出来事に行動を起こせるわけではないかもしれないけれど、

ただ、何かを述べるだけの人間は一番かっこ悪いし信頼もされない。

今はSNSがあるから、そこで何か意見を表明すれば何かをやった気分に簡単に浸れる。

しかし、それは本当にインスタントなもので、

例えば本当に困っている人がいたとしてSNSで救われるかはかなり微妙だ。

SNSはあくまで補助的なツールであり、その力を過大評価してはならないと思う。

 

日本という社会が、意見を持ち、その意見に従って行動に移ろうと思う人に対して寛容で、そんな人を支援できる社会になるために何ができるのだろう。

 

 

 

授業に行きたくない理由を徹底的に考えてみた。

先週、授業をさぼってしまった。

寝坊したわけではない。

いじめられているわけでもない。

体調も悪くなかった。

ただ、「行けない」と思った。

 

「行けない、とは何事だ!お前が怠惰なだけだろ!」

いや、その通りである。

「親はお前の大学にいくら払ってると思ってるんだ!」

いやはや、まったく返す言葉がない。

 

しかし、その日、体は頑として動かなかった。

僕は授業が苦手である。

話をずっと聞いているのが苦痛で、いつも気持は別の世界へ飛んでいく。

ディスカッションがあったとしても、それは、話し合いのための話し合いのようなきがして、気持が入らない。

 

日本でも授業をさぼりがちだった。

最初の頃は、「授業より意味のあることたくさんあるっしょ!!!」という

若気の至り的マインドでさぼっていたのだけど

最近は、授業をさぼったとしても大したことをしていないのに気づき、さぼりに罪悪感を感じるようになった。

そして、何度も「今日こそは…」と思い、教室に向かうけれども

身は入らないのであった。

 

デンマークに来てからはわりと頑張って授業に行っていたのだけど、

授業を楽しめるようになったわけではなく、ただ行っているだけだった。

そして、先週、ついに再び気持がぷっつり切れてしまった。

せっかくなら、自分が授業に行きたくない理由を徹底的に考えてみよう、と思い立った。

 

役に立ったのは、『未来のイノベーターはどう育つか』という本だった。

以前は、僕もとんがっていたので「イノベーション」とか「クリエーティブ」と名のつく本は全部胡散臭いと思って一蹴していたけれど、最近は丸くなったようで、たまたま創造性教育という言葉を耳にし、この本を買ってみることにした。

読み進めると、この本には僕が授業に行きたくない理由、逆に言えば、授業に行かずに何をしたかったのか、という問いへの答えが書かれていた気がするので、参考にしつつ自分の意見を書いてみようと思う。

 

まず、最もピンときたのは、「今の若者は、外的なインセンティブではなく内的なモチベーションで動く」という言葉だ。

学位の取得は、一流企業に入るために必要な前提と考えられており、だからこそ今でも多くの人が少しでも良い学歴を得ようと努力する。

人々が一流企業に入って得たいものは、名声であり、良い給料であり、安定した生活だった。

これらのものは、今でも価値を失ってはいない。

しかし、今の若者の価値観とは少しずれ始めているのではないかと思う。

僕らの世代は、建前上、「自分のやりたいことをやるのが一番」という価値観の中で育ってきた。

一方で、本当に自由にやらせてもらえた人というのは少なく、「安定した生活」という古い価値観も同時に強く刷り込まれてきた。

メディアでは、自分の生きたいように生きる型破りな人間が取り上げられ、そういう人たちがかっこいいと思っているのに、実際にそんなに自由に生きられる人間は少ない。

なぜかと問われれば、今の若者(すくなくとも僕)の中には新しい価値観と古い価値観が同居し、世の中もまだ古い価値観に従って動いている。そんな世界になんとなく流される中で、ゆっくり時間を取って自分が情熱を注いで打ち込めるものを見つけられずにいるからかもしれない。

『未来のイノベーターはどう育つか』の中では、子供時代から自分の熱中したいことに好きなだけ熱中することのできた人々が紹介されている。

彼らは、その中で自分の進むべき道を見つけ、お金や名声ではない内的なモチベーションに従って生きている。

 

問題は、子供ではなくなってしまった人たちは、どうすれば何か熱中するものを見つけ、内的なモチベーションに従って行動することができるか、ということだ。

少なくとも、今の大学のシステムは若者の内的なモチベーションを支援したり喚起するためのシステムを構築できていない(もちろん、運よく良い教授、授業にであうことはあるだろうが)。

価値観の過渡期の中で生きている今の若者たちは、内的なモチベーションに基づき何かをしたいと思いながら、どうすればモチベーションを喚起できるのか、何に対してなら情熱を持ち得るのか分からないまま、とりあえず既存のレールに乗り、日々の業務をこなしていくことになる。

 

自分のやりたいことは、高校に受かってから考えよう!

いや、やっぱり大学受験で忙しいから、大学に入ってから考えよう!

いや、やっぱり就活と単位を取るので忙しいから社会人になってから考えよう!

いや、若手の内はやることが多くて考える時間がないから、もっと高いポジションになって余裕が出てから考えよう!

と決断を先延ばしにしているうちに人は老いる。

どこかで自分の中のパラダイムと向き合い、考え方を変えていかなければならない。

 

ここで、授業の話に戻せば、大学の授業は確かに「興味深い」かもしれない。

しかし、その情報の多くはネット上や書籍で手に入るものだ。

ディスカッションだって、評価されるためのディスカッションには意味を見いだせない。

自分がなんのために、今、先生の話を聞き、他の生徒と話し合っているのかできるだけ明確であってほしい。

そして、それらは単位取得のために存在する茶番ではなく、実際に社会に関わるものであってほしい。

大学は「社会にはこんな問題がある」という知識を教えるのではなく、「問題にどうアプローチするか」という一連の過程を経験できる場であってほしい。

そして、社会に出てからは難しいであろう失敗をたくさん経験できる場であってほしい。

 

自分の話をすれば、「内的なモチベーションにしたがって何かをしたい」という思いをずっと抱えていながら、情熱を傾ける対象を探すためのチャレンジを怠っていたと思う。

授業には意味を見いだせないから行きたくないけど、かといって何かに打ち込むわけではないという思考停止の状態にあったのだ。

いろんなことにトライし、打ち込んでみて、目的意識を持てるようになれば、大学との付き合い方も少し変わってくるだろう。

 

まあしかし、ちゃんとした理由を持っていたってそれは怠惰と紙一重なのは間違いない。

冒頭に述べたように、自分が親の金で大学に通っているのもまぎれもない事実だ。

 

壮大な言い訳をかましたので来週からはちゃんと授業を受けよう…

 

 

 

デンマーク最古の町から -塔の上で見えたもの-

旅行の目的地というのは大概、大きな都市か景勝地である。

特に海外にいて地方の町に行く機会はなかなかない。

先日、同じフラットの友人に連れられるがままにデンマークの田舎を訪れた。

町の名は「リーベ(Ribe)」。

調べてみると、デンマーク最古の都市であり、紀元800年ころから町が存在したらしい。

とはいっても、ついぞ聞いたことのない町である。

デンマークに半年以上暮らしても、その名を耳にすることはなかった。

人口は約8000人。

昔、10年ほど人口4000人ほどの町に暮らしていた。

リーベの町はその規模感に似ていた。

 

 

町にくり出したとき、天気は快晴だった。

デンマークの冬は曇ることが多いけれど、晴れるときはとことん晴れる。

山と高い建物がないから空が広い。

首都コペンハーゲンですらそう感じさせるのだから、田舎などなおさらだ。

リーベの町の真ん中には大きな聖堂がある。

 リーベ大聖堂は12世紀初頭に建設が始まり、13世紀末には60mほどの塔が完成した。

この塔が長らくデンマークで最も高い建物だったらしい。

塔には上ることができる。

長く狭い階段を上がっていくと頂上にたどり着く。

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上から見る景色は想像以上に素晴らしかった。

視界を遮るものが何もない。

 見渡す限りの田園風景だ。

美しい景色はしばしば人を麻痺させる。

目の前の風景を見て、その素晴らしさを伝えたいのだけど

そこに言葉を当てはめることすら野暮なように思えてくる。

それでも何かを述べてみようとするのは僕の性なのだろう。

 

人工の美しさと風景の美しさは、そこから受ける感動が少し違う。

どちらが優れているというわけではない。

そこで「やはり自然のほうが美しい」という陳腐な言葉を言ってのけられるほど僕は素直ではない。

ただ、人間の作り出した美しさには「意志」がある。

一方で、自然には「意志」がない。

人工物は何かの目的のために存在しているが、自然は違う。

ただ、そこにあるのだ。

私たちに美しい物を見せようとするわけでもなくただそこにある。

それを人間が勝手に美しいと感じるだけなのだ。

人間として生きる以上、「ただ存在する」というのは不可能に近い。

常に何かのために思考し、行動する。

それが個人的な動機だろうと他者のためであろうと意図を意識せずに存在することは難しい。

ただ、自然を感じるとき、人間にも「ただ存在する」ということが許されるような気がする。

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同じようなことをアイスランドでも感じた。

僕たちは常に目的や意図をもっていて、それは人として生きる上で大切なことだ。

というより、目的や意図への自覚こそが人を人足らしめるのかもしれないとさえ思う。

しかし、常に目的を達成できるわけではないし、常にうまくいくわけではない。

そんな時、自然は僕を否定も肯定もしない。

何も言わない。今も昔もこれからも。

それは、僕にとって救いだ。

ただ、なんの目的も意図も価値もなく存在していていいのだ、と思わせてくれる。

ある意味で、それは僕に対する肯定なのだ。

いざというときは、すべて投げ出して旅に出たっていいのだ。

それを確認した時、僕は再び日常へと帰っていくことができる。

そうして、自然に対して解釈を加えてしまうことそのものが人間の悲しい性なのだろう。

自然と一体になることはできない。

常に自然と自分との間に違和感を感じ、時には自然を壊し、時には接近してみたりする。

 

同じようなことを昔の人も感じたのだろうか。

700年前に大聖堂の塔に上った人たちは何を感じたのだろうか。

見渡す限りの平原、地平線の先に好奇心を喚起されたのか、あまりの広大さに呆然としたのか。

見下ろすと、田畑の中に道路があり、車が走っている。

700年前の人は見なかった景色だ。

一瞬、邪魔に思えたけれど、僕が2016年を生きているからこそ見えた景色だ。

そう思うとなんだか素敵なものに思えてきた。

自分たちの息子や娘はどんな景色を見るのだろう。

車は空を飛んでいるだろうか。吹く風は同じだろうか。

ふと、自分に子供ができたらここに来てほしいと思った。

自分とは違う景色を同じ場所から眺めてほしいと。

一人の人生はたかだか80年だけれど、別の誰かが同じ場所から景色を見渡し、何かを感じてくれるのなら、それはそれでいいかもしれないと思える。

同じように、僕は700年前かある場所から700年前とは少し違う景色を見たのだ。

 

ただの妄想と言ってしまえばそれまでだけど、そういう感慨に浸れるのは人間の特権なのかもしれない。

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逸脱者たちへ

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またテロが起こってしまった。

たくさんの悲しみと憎しみが渦巻くのを目の当たりにしても、何もできない無力感が襲う。

パリの時と同様、多くの人が連帯を表明した。

「私たちはベルギーとともにある」

「テロには屈しない」

無差別的な犯罪が起きたとき、誰しもが「自分が被害者だったかもしれない」あるいは「これから被害者になるかもしれない」と想像する。

だから、何も言わずにはいられない。

日常を生き続けられるよう自分を奮い立たせるために「友情」や「連帯」、「不屈」といった言葉を並べ、街に繰り出すのだ。

しかし、その「連帯」にはどれだけの人間が含まれているのだろう。

「結束」は「敵対」とコインの裏表だ。

戦うべき敵がいるからこそ結束する。

しかし、僕らは誰と戦うのだろう。

過激派だろうか。

それは、正しいように見えて、実は重大な誤りを含んでいるように思う。

 

多少なりとも良識がある人なら、「西洋vsイスラム」という見方はしない。

多くのムスリムはテロなど起こさないからだ。

では、過激派とは何なのか。

確かにここ最近のテロはすべてイスラム過激派が関与している。

それでは、過激派を名乗る人・組織を全滅すれば世界は平和になるのだろうか。

僕はそうは思わない。

いつの時代もテロは存在した。

 

地域の独立や、圧政からの解放、新たなる理想を掲げ暴力的な手段に訴える人間は常に存在する。

1970年代には世界中で左翼グループがテロ事件を起こした。

日本でオウムがテロを起こしたのは20年ほど前だ。

もちろん時代ごとにその内実は異なるかもしれない。

現代のテロには組織的というより、ある思想に感化された個人、あるいは非常に小さなグループが事件を起こすという特徴がある。

 

一方で、テロを助長する思想は時代ごとに違うにしても、その根本にあるものは同じなのではないかと思う。

現代社会の主要な要素の一つに人権がある。

人は生まれながらにしてある種の社会的な権利を有しているという思想である。

この考え方では、個人は世界に一つしかない尊重されるべき存在である。

しかし、現実はどうだろう。

自分は本当に代替不可能な人間なのだろうか。

自分より優秀な人はいくらでもいて、自分がいなくても社会も仕事も回っていく。

資本主義の世界では、自分という存在に給料という形で値段がつけられる。

誰もが自分の価値をリアルに知ることになる。

自分は世界にただ一人の人間ではないのか、尊重されるべきではないのか。

そんな問いは常に現代人の頭をよぎる。

多くの人は、ある時点で折り合いをつけて生きていく。

しかし、生まれながらにしてある種の偏見や差別など理不尽の中で生きていたとしたら。

そういう理由から、自分の中に生じる違和感に折り合いをつけることができないとしたら。

傍目には普通の生活を送っているように見えても、心の中では疎外を感じているとしたら。

自分という存在の価値や意義を確かに感じるために、何らかの思想にすがるのは人の常だ。

それがイスラム過激主義だろうと新興宗教だろうと環境保護だろうと同じこと。

 

その中でも暴力とそこから引き起こされる恐怖は他者に自分の力を知らしめる最も安易な手段だ。

過激な行動の支柱となる思想がどういうものであろうと、最終的に行き着く先は暴力だ。

 

自分の存在を正当化するための手段として暴力を用いるのは明らかに怠惰で、身勝手な思考だ。

誰も殺さなくても努力すれば誰かに認められることはできる。

その点において、テロリズムに走る人たちを許すことは絶対にできない。

 

しかし、彼らが抱えているような疎外感や不安を感じる人間は決して少なくない。

それは、大なり小なり誰の心にも存在する。

たまたま自分は周囲の環境に恵まれただけではないのか。

自分が少しでも違う境遇の中にいたら、同じような思想に走ったのではないか。

そういう想像、そして恐怖は常に僕の中にある。

 

自分が被害者になるかもしれないという想像をする人は多いが、

自分が加害者になるかもしれない、あるいはなりえたかもしれないと想像する人はどれくらいいるのだろう。

僕の場合、そんな想像から生まれる感情は同情ではなく、恐怖だ。

同情など間違ってもしないけれど、自分が何らかの思想に救いを求め、ルールを逸脱することがありえたかもしれない。

今、自分がいわゆる「まとも」な人間として生きていられるのは単なる偶然なのではないか。

 

犯罪者になりえたかもしれないという想像なんてとんでもないと思うかもしれない。

しかし、その想像力は重要であるように思う。

テロリストを人間ではないある種の悪魔のように見立て、ただ排除するだけでは何も解決しない。

どんな状況でも疎外感・違和感を感じる人間はいる。

疎外感を感じる人間がいれば存在を認めてやり、

違和感を感じる人間がいればそれを正しい方向に昇華させる術を共に考えなければならない。

 

悲惨な出来事を目にしたとき、何かしなければいけないと思うのは普通のことだ。

しかし、あまりに多くの情報にさらされる現代に生きる我々は、どんな悲惨なことも自分に直接関係ない限り簡単に忘れてしまう。

いや、忘れるのではない。

飽きるのだ。

SNS上に氾濫するインスタントな連帯の表明は、新たな疎外を生むだろう。

なぜ遠い国の死者には祈り、身近な苦しみには目を向けてくれないのか。

なぜ豊かな人間の少数の死には涙するのに、貧しい国での多くの死には無関心なのか。

そんな疑念、不信感は強い負の感情へと変わっていく。

そうこうしているうちに人々の関心は新たな方向に向かっていく。

テロの度に拡散されるようになったポップなイラスト、キャッチコピーは、あと何度かすれば飽きられるだろう。

そして新たな形の「哀悼の意」が流行るのだ。

 

人々の関心が偏るのは仕方のないことだと思う。

どこにあるのかすらよくわからないような国で1000人死ぬのと、自分と同じような生活レベルの国で30人死ぬのとでは感じるものが違うのはしょうがない。

しかし、哀悼の意がネット上で拡散された途端に、その拡散度合いが人の命の価値を否が応でも見せつけてしまう。

貧しい国で起きたテロにも哀悼の意を表すればいいという話ではない。

氾濫する投稿が、不平等や疎外感といった人間がはるか昔から抱える負の側面と向き合う覚悟と思慮を持っているようには、僕は見えない。

 

ただ、自分を揺さぶる感情に従って衝動的に意思表明をすればいいのかもしれない。

ひょっとすると世界を救うのはSNS上で表明される「愛」なのかもしれない。

しかし、僕はそんなに素直にはなれない。

 

僕もまた、違和感と疎外感を抱える逸脱者なのだろう。

 

 

 

 

 

 

あなたの普通と僕の普通は違います。

選挙の際に低い投票率が懸念され、実際に低投票率に終わるというのは近年おなじみの光景となった。

選挙ポスターにはアイドルが起用され、まるで選挙に行っていないのは若者だけだ!と言いたいかのようだ。

それは去年の統一地方選の時も同じだった。

選挙番組は投票率の話に割かれている時間がとても多い気がした。

実を言うと、投票結果が出るまで僕の感覚は違っていた。

Twitterのタイムラインには自分のフォローしている人たち(多くは友人)が投票に行ったことをツイートしていた。
普段ツイートしないような人も「投票行ってきた」とつぶやいたりしていて内心かなりびっくりした。

フォローしている人は皆投票したのではないかと思うくらい、TLは選挙ツイートで埋まっていた。

 

選挙に行かないと言われる若者がこれだけ投票に行っているのだ、今回は多少なりとも投票率が上がるに違いない。

もちろんその推定の根拠はツイッターだけなので他人には言わなかったけれども

僕はそんなことをぼんやり思っていた。

 

しかし、蓋を開けてみれば大方の予想どおり平均投票率は最低を更新した。

ここまで、選挙の話をしてきたけれど今回の主題は違うところにある。

 

投票率の低下にはいろいろなり理由があるだろうが、この件で僕が最も感じたのは

自分は特殊な環境にいるということだ。

2014年の衆議院選挙の結果を比べてみよう。

【アンケート結果】難関大学生の衆議院議員総選挙の投票率74%。景気・消費税増税に大きな関心。(アンケート)|t-news Web

きちんとした統計ではないが、難関大学生の投票率を調べた調査があった。

582名に調査し、投票率は74%。だった。

いっぽう、総務省によれば20代の投票率は32.58%

総務省|国政選挙の年代別投票率の推移について

2倍以上の開きがある。

 

この結果から言えるのは、僕の「身の回り」の動向は日本の一般的な動向とは違うということだ。

つまり、僕の周囲にAの意見を持っている人が多いからといって、日本人はAの意見を持っている、とは言えないし言ってはいけない。

文章にすれば当たり前だけれども、私的な会話(ブログなども含む)では実際このような一般化を無意識のうちにやってしまいがちだ。

 

「一般論」は自分のいる環境に大きく依存している。

最近目に付いた記事に「最近の若者は元気がない」という趣旨のものがあった。

【正論】「欲ない、夢ない、やる気ない」……現代日本の最大の危機はこの「3Y」にある 作家・堺屋太一(1/5ページ) - 産経ニュース

まあ産経だし堺屋さんはもう80歳のご老人だし記事の内容は真に受ける必要はないと思うが

にしてもこの人の意見と僕の意見は違う。

僕の「身の回り」には起業意欲のある人はそれなりにいるし、留学に行く人も沢山いる。

(ちなみにこの「身の回り」は直接の知り合いだけでなく、知り合いの知り合いくらいまで含めている)

僕と堺屋さんの見解の相違は「身の回り」、つまりは二人が身を置く環境の違いに起因するものだと思う。

僕の周りには大きな夢を持った人がいて、彼の身の回りにはいない(というかそもそも若者との関わりが少ないと思うのだけど…)

その違いが、意見の相違を生む。

意見が違うだけならいいのだけど、そこでお互いが自分の身の回りを一般化して「僕の身の回りでは〜」と言いながら違う主張をすれば話がかみ合わない。

 

「大きな夢を持っている若者はこれだけいて、例えばこの人は社会問題解決のために起業しました」という反例をあげればこの産経の記事には反論できるかもしれない。

しかし、僕がいる環境もまた先ほど述べた通りやはり特殊で、「日本人」というレベルにまでは一般化できない。

例えば、僕の周囲には就活で日系大企業、外資系あるいは官僚を目指す人が多い。

しかし、日本に存在する企業の99%以上は中小企業であって大企業ではないし、キャリア官僚と呼ばれる人は日本に1万5000人しかいない。

人事院

僕の普通は他人の普通ではない。

 

 

安易な一般化は留学生が特に気をつけたいことでもある。

留学先での目新しい体験を全てその国独自のものとして一般化してしまうと

物事を分析する自分の目にバイアスがかかるし、他人にそのことを話せば他人にもバイアスを与えてしまう。

 

正直いって安易に一般化して「日本人は〜」というふうに語るのは楽だし盛り上がる。

いちいち「僕の身の回りの話だけどね」と注釈を入れるのも面倒くさい。

ただ、その結果として世間を見るためのレンズを曇らせたりしてはいけない。

なにより、自分の世界が狭くなる。

いわゆる「日本人」は集団主義的で控えめかもしれないけれど、それにあてはまらない人なんていくらでもいる。

僕が一番嫌なのは自分の身の回りの状況を一般化し、「日本人は〜」という語り出しで不満を述べることだ。

たまに「日本人は〇〇だからだめなんだ」と誰かに言われて「いや、そんなことないと思うけどな。君のまわりだけじゃないのかな」と思うことがある。

日本人が共通してもつ空気感みたいなのはそりゃあるだろうが、せめて「日本人」という括りで話すのならきちんとした研究を参照してから言って欲しいといつも思う。

自分の場合で言えば、安易な一般化をしてしまう時は思考が止まっていると思う。

自分が感じた違和感はすぐに一般化せず、どこに問題があるのかきちんと考えるようにしたい。

強くなるのは大変だ。

何度も書いたことがあるけれど

大学生からその先の人生は小さい頃の自分の想像が全く及ばない世界だ。

とりあえず働くだろうとは思っていたし、特定の職業に憧れを持っていた時期もないわけではないが、概して漠然としたイメージしか持っていなかった。

そうやってふらふらしながら大学生活を過ごしてきて

今やっと幾つか道筋のようなものが見えてきた。

それを簡潔にまとめると、

  • 努力しなければ自分が生まれ育った環境以上の場所へは上がれないこと。
  • 学校という守られた空間の外に出れば、人間は結果でしか評価されないこと。
  • 大学入学以降の人生は、それまでよりもはるかに早いスピードで時が流れること。
  • 「いつか」は「今」だということ。

という感じだろうか。

どれも自己啓発本に書いてありそうな言葉で、自分でも笑ってしまうけれど

思考の結論だけを切り取れば大抵自己啓発チックになるのはしょうがない。

今のままじゃやばいなあ、と感じながらも何かに向けて邁進できているわけではない。

人と同じことはしたくない、といえばかっこいいけれど

要は、頑張りたくないだけ、怠惰なだけという場合が多々ある。

誰かが泥臭く進んでいるところを自分はスマートに行けるんじゃないか、という妄想はもう捨てなければならない。

怠惰でずるい自分を乗り越えて、自分の頭の悪さや才能のなさを認識しながら何事も泥臭くやろうというスタートラインにやっと立てたような気がする。

でも、スタートラインに立ってなお違和感を感じ続ける自分がいる。

いつも「何か違う」と思い続け、セオリーのようなものに反発し続ける自分がいる。

そして、そんな天邪鬼を見て「さっさと走れよ!時間ねえんだよ!」とキレる自分もいる。

人の意見を素直に聞けないことほど不幸なことはないのではないか。

何にも納得できない。

何にも違和感を感じる。

常にモヤモヤしていて、原因のわからない違和感にイライラして、

横を見れば、走り出せない自分を尻目にひたむきに走る人たちが見える。

どんな自分になったって、自分のことを100%肯定できる日なんて来ないんじゃないか。

たとえ、一見誰かに羨ましがられるような人生を歩んだとしても。

 

考えることをやめれば全て解決しそうだ。

でも、きっとそれは僕にはできないだろう。

「考えるのをやめて楽になったよ」とのたまう自分を、自分として認めることはできそうもない。

 

とは言っても「ただ文句を垂れるだけのやつにはなりたくない」という最低のラインがあって、

せめて身の回りの人たちが自分の言葉を真剣に受け止めてくれるように結果は積まなければと思う。

自分の言葉に自信を持てるようになるには、途方もない裏付けが必要だ。

必要な努力量に怯みながらも、一つずつ積み上げるしかないということか。