デンマーク最古の町から -塔の上で見えたもの-
旅行の目的地というのは大概、大きな都市か景勝地である。
特に海外にいて地方の町に行く機会はなかなかない。
先日、同じフラットの友人に連れられるがままにデンマークの田舎を訪れた。
町の名は「リーベ(Ribe)」。
調べてみると、デンマーク最古の都市であり、紀元800年ころから町が存在したらしい。
とはいっても、ついぞ聞いたことのない町である。
デンマークに半年以上暮らしても、その名を耳にすることはなかった。
人口は約8000人。
昔、10年ほど人口4000人ほどの町に暮らしていた。
リーベの町はその規模感に似ていた。
町にくり出したとき、天気は快晴だった。
デンマークの冬は曇ることが多いけれど、晴れるときはとことん晴れる。
山と高い建物がないから空が広い。
首都コペンハーゲンですらそう感じさせるのだから、田舎などなおさらだ。
リーベの町の真ん中には大きな聖堂がある。
リーベ大聖堂は12世紀初頭に建設が始まり、13世紀末には60mほどの塔が完成した。
この塔が長らくデンマークで最も高い建物だったらしい。
塔には上ることができる。
長く狭い階段を上がっていくと頂上にたどり着く。
上から見る景色は想像以上に素晴らしかった。
視界を遮るものが何もない。
見渡す限りの田園風景だ。
美しい景色はしばしば人を麻痺させる。
目の前の風景を見て、その素晴らしさを伝えたいのだけど
そこに言葉を当てはめることすら野暮なように思えてくる。
それでも何かを述べてみようとするのは僕の性なのだろう。
人工の美しさと風景の美しさは、そこから受ける感動が少し違う。
どちらが優れているというわけではない。
そこで「やはり自然のほうが美しい」という陳腐な言葉を言ってのけられるほど僕は素直ではない。
ただ、人間の作り出した美しさには「意志」がある。
一方で、自然には「意志」がない。
人工物は何かの目的のために存在しているが、自然は違う。
ただ、そこにあるのだ。
私たちに美しい物を見せようとするわけでもなくただそこにある。
それを人間が勝手に美しいと感じるだけなのだ。
人間として生きる以上、「ただ存在する」というのは不可能に近い。
常に何かのために思考し、行動する。
それが個人的な動機だろうと他者のためであろうと意図を意識せずに存在することは難しい。
ただ、自然を感じるとき、人間にも「ただ存在する」ということが許されるような気がする。
同じようなことをアイスランドでも感じた。
僕たちは常に目的や意図をもっていて、それは人として生きる上で大切なことだ。
というより、目的や意図への自覚こそが人を人足らしめるのかもしれないとさえ思う。
しかし、常に目的を達成できるわけではないし、常にうまくいくわけではない。
そんな時、自然は僕を否定も肯定もしない。
何も言わない。今も昔もこれからも。
それは、僕にとって救いだ。
ただ、なんの目的も意図も価値もなく存在していていいのだ、と思わせてくれる。
ある意味で、それは僕に対する肯定なのだ。
いざというときは、すべて投げ出して旅に出たっていいのだ。
それを確認した時、僕は再び日常へと帰っていくことができる。
そうして、自然に対して解釈を加えてしまうことそのものが人間の悲しい性なのだろう。
自然と一体になることはできない。
常に自然と自分との間に違和感を感じ、時には自然を壊し、時には接近してみたりする。
同じようなことを昔の人も感じたのだろうか。
700年前に大聖堂の塔に上った人たちは何を感じたのだろうか。
見渡す限りの平原、地平線の先に好奇心を喚起されたのか、あまりの広大さに呆然としたのか。
見下ろすと、田畑の中に道路があり、車が走っている。
700年前の人は見なかった景色だ。
一瞬、邪魔に思えたけれど、僕が2016年を生きているからこそ見えた景色だ。
そう思うとなんだか素敵なものに思えてきた。
自分たちの息子や娘はどんな景色を見るのだろう。
車は空を飛んでいるだろうか。吹く風は同じだろうか。
ふと、自分に子供ができたらここに来てほしいと思った。
自分とは違う景色を同じ場所から眺めてほしいと。
一人の人生はたかだか80年だけれど、別の誰かが同じ場所から景色を見渡し、何かを感じてくれるのなら、それはそれでいいかもしれないと思える。
同じように、僕は700年前かある場所から700年前とは少し違う景色を見たのだ。
ただの妄想と言ってしまえばそれまでだけど、そういう感慨に浸れるのは人間の特権なのかもしれない。