なすの日記

思考を散歩させるための場所

なんでもない世界 その2 -必然の非対称性-

少し前、こんな記事を書いた。

「納得」こそ正義。このなんでもない世界を生きるために。 - なすの日記

要約すると、この世界を生きるうえで「意味」なんてものは客観的に存在しないのだから自分の「納得」という感覚を大事にしようぜ。

みたいな記事だった。

この考え方につながる面白い論説があったので紹介したい。

 

僕は今、自身のバイトの関係もあって思想家の東浩紀さんにめちゃくちゃ影響を受けている。

その東さんの対談記事「デッドレターとしての哲学」(『現代思想 2月臨時増刊号』)を読んだ。

Amazon.co.jp: 現代思想 2015年2月臨時増刊号 総特集◎デリダ -10年目の遺産相続-: ジャック・デリダ, 東浩紀, ジャン=リュック・ナンシー, カトリーヌ・マラブー, ロドルフ・ガシェ, 藤本一勇, 西山雄二, 宮崎裕助, 郷原佳以, 合田正人: 本

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その中で語られていたのは「必然性の非対称性」というもの。

要約すると、個人の存在とか行為に必然性はない。

例えば、僕がこうしてブログを書いたり、何かを発言したり、或いは生きていることそのものに必然性はない。

でも、将来僕に子供ができたらその子どもにとって僕の存在は必然的なものになる。

だって僕がいなければその子は産まれてこなかったのだから。

同じように僕が何かを書いて、それに触発されて誰かが何かを書けば

その人にとって僕の行為は必然的というかなくてはならなかったものになる。

 

この非対称性はすごく面白いと思う。

自分のやったことが誰かにとって必然的なものになることがある。

だからこそ人間はいろんなことに意味を見出して

自分の生の必然性を確かめようとするのかもしれない。

一方で、「自分のやっていることは他者にとって必ず意味がある!だからやるんだ!」

と言うためにさっきの論を使うのは傲慢だろう。

 僕たちのやることなんて実際はほとんど他人から見向きもされず、忘れられていくものだ。

自分が他者にとって必然であることを最初から主張するのは押しつけがましい。

誰かが自分のやったことに振り向いていてくれるかどうかなんて運でしかない。

 

いろいろやってれば

もしかしたら

いいことあるかもね。

ないかもしれないけど。