「納得」こそ正義。このなんでもない世界を生きるために。
僕たちは日々、苛烈な「意味」の洪水の中を生きている。
「あなたはなんのためにこの学校を志望したのですか?」
「あなたはなぜ当社に興味を持ったのですか?」
「あなたはなぜ留学するのですか?」
「あなたはなぜ生きているのですか?」
意味を問われるとついそれらしい答えを用意してしまう僕がいる。
「私は社会学に興味があり、それを学ぶのに最も適しているのはこの学校で・・・」
「御社の◯◯という理念に感銘し・・・」
「この国の社会システムを勉強したくて・・・」
「世界をより良いものにしたくて・・・」
で何を答えてもピンとこない自分が絶対どこかにいる。
この歳でこんなこと言うと叱られるだろうが
この世界は思った以上になんでもない世界だと思う。
僕が何をしようと意味なんて存在しない。
僕はブログを書いた。それで?
僕は留学に行った。それで?
レーニンがソ連を建国した。それで?
スティーブ・ジョブズがスマートフォンを発明した。それで?
誰かが何かを成し遂げても新たな問題が降りかかる。
世界の格差は小さくなった。
同時に豊かな国の自殺率はどんどん上がった。
スマホで生活が便利になった。
同時にスマホが人々の時間を奪っている。
「なんで?」って問い続けると最後には何も答えられなくなる。
子供の遊びのようだけど、かなり重い真実だと思う。
でも、間違いなく言えることは
無意味=絶望、ではない。
全く違う。
「それをやる意味はなんですか?」という問いは消えるべきだ。
そしてこう問うべきだ。
「それであなたは納得するんですか?」
「納得」こそ正義。
「意味」という言葉からはどうしても他者の臭いがする。
「それって意味あるんですか?」=「他人にとっていいことあるんですか?」
逆に、納得はどこまでも個人的な問題だ。
他の人がなんと言おうと自分が納得したら他人は関係ない。
自己中心的だけれど、いわゆる他人を顧みないわけじゃない。
他人も幸せじゃないと、自分も「納得」できないことだってたくさんある。
なんで、こんなに納得を重視するかというと話は簡単で
死ぬときは一人だから。
誰も死を共有してはくれない。
納得した生き方なら安らかに死ねる。
でも、どれだけ「意味」に満ちた人生でも
納得してなかったらそれは最後になって後悔となり重くのしかかるだろう。
「生きてる意味」なんて問われても困ってしまう。
僕はたまたま生まれ落ち、生きているから生きているにすぎない。
意味の洪水の中だと一つ一つの行為がとても重いものになってしまう。
「なんとなく」という言葉で軽やかに立ち回れる世界であったなら
どれだけ素敵だろう。