あなたの普通と僕の普通は違います。
選挙の際に低い投票率が懸念され、実際に低投票率に終わるというのは近年おなじみの光景となった。
選挙ポスターにはアイドルが起用され、まるで選挙に行っていないのは若者だけだ!と言いたいかのようだ。
それは去年の統一地方選の時も同じだった。
選挙番組は投票率の話に割かれている時間がとても多い気がした。
実を言うと、投票結果が出るまで僕の感覚は違っていた。
Twitterのタイムラインには自分のフォローしている人たち(多くは友人)が投票に行ったことをツイートしていた。
普段ツイートしないような人も「投票行ってきた」とつぶやいたりしていて内心かなりびっくりした。
フォローしている人は皆投票したのではないかと思うくらい、TLは選挙ツイートで埋まっていた。
選挙に行かないと言われる若者がこれだけ投票に行っているのだ、今回は多少なりとも投票率が上がるに違いない。
もちろんその推定の根拠はツイッターだけなので他人には言わなかったけれども
僕はそんなことをぼんやり思っていた。
しかし、蓋を開けてみれば大方の予想どおり平均投票率は最低を更新した。
ここまで、選挙の話をしてきたけれど今回の主題は違うところにある。
投票率の低下にはいろいろなり理由があるだろうが、この件で僕が最も感じたのは
自分は特殊な環境にいるということだ。
2014年の衆議院選挙の結果を比べてみよう。
【アンケート結果】難関大学生の衆議院議員総選挙の投票率74%。景気・消費税増税に大きな関心。(アンケート)|t-news Web
きちんとした統計ではないが、難関大学生の投票率を調べた調査があった。
582名に調査し、投票率は74%。だった。
2倍以上の開きがある。
この結果から言えるのは、僕の「身の回り」の動向は日本の一般的な動向とは違うということだ。
つまり、僕の周囲にAの意見を持っている人が多いからといって、日本人はAの意見を持っている、とは言えないし言ってはいけない。
文章にすれば当たり前だけれども、私的な会話(ブログなども含む)では実際このような一般化を無意識のうちにやってしまいがちだ。
「一般論」は自分のいる環境に大きく依存している。
最近目に付いた記事に「最近の若者は元気がない」という趣旨のものがあった。
【正論】「欲ない、夢ない、やる気ない」……現代日本の最大の危機はこの「3Y」にある 作家・堺屋太一(1/5ページ) - 産経ニュース
まあ産経だし堺屋さんはもう80歳のご老人だし記事の内容は真に受ける必要はないと思うが
にしてもこの人の意見と僕の意見は違う。
僕の「身の回り」には起業意欲のある人はそれなりにいるし、留学に行く人も沢山いる。
(ちなみにこの「身の回り」は直接の知り合いだけでなく、知り合いの知り合いくらいまで含めている)
僕と堺屋さんの見解の相違は「身の回り」、つまりは二人が身を置く環境の違いに起因するものだと思う。
僕の周りには大きな夢を持った人がいて、彼の身の回りにはいない(というかそもそも若者との関わりが少ないと思うのだけど…)
その違いが、意見の相違を生む。
意見が違うだけならいいのだけど、そこでお互いが自分の身の回りを一般化して「僕の身の回りでは〜」と言いながら違う主張をすれば話がかみ合わない。
「大きな夢を持っている若者はこれだけいて、例えばこの人は社会問題解決のために起業しました」という反例をあげればこの産経の記事には反論できるかもしれない。
しかし、僕がいる環境もまた先ほど述べた通りやはり特殊で、「日本人」というレベルにまでは一般化できない。
例えば、僕の周囲には就活で日系大企業、外資系あるいは官僚を目指す人が多い。
しかし、日本に存在する企業の99%以上は中小企業であって大企業ではないし、キャリア官僚と呼ばれる人は日本に1万5000人しかいない。
僕の普通は他人の普通ではない。
安易な一般化は留学生が特に気をつけたいことでもある。
留学先での目新しい体験を全てその国独自のものとして一般化してしまうと
物事を分析する自分の目にバイアスがかかるし、他人にそのことを話せば他人にもバイアスを与えてしまう。
正直いって安易に一般化して「日本人は〜」というふうに語るのは楽だし盛り上がる。
いちいち「僕の身の回りの話だけどね」と注釈を入れるのも面倒くさい。
ただ、その結果として世間を見るためのレンズを曇らせたりしてはいけない。
なにより、自分の世界が狭くなる。
いわゆる「日本人」は集団主義的で控えめかもしれないけれど、それにあてはまらない人なんていくらでもいる。
僕が一番嫌なのは自分の身の回りの状況を一般化し、「日本人は〜」という語り出しで不満を述べることだ。
たまに「日本人は〇〇だからだめなんだ」と誰かに言われて「いや、そんなことないと思うけどな。君のまわりだけじゃないのかな」と思うことがある。
日本人が共通してもつ空気感みたいなのはそりゃあるだろうが、せめて「日本人」という括りで話すのならきちんとした研究を参照してから言って欲しいといつも思う。
自分の場合で言えば、安易な一般化をしてしまう時は思考が止まっていると思う。
自分が感じた違和感はすぐに一般化せず、どこに問題があるのかきちんと考えるようにしたい。
強くなるのは大変だ。
何度も書いたことがあるけれど
大学生からその先の人生は小さい頃の自分の想像が全く及ばない世界だ。
とりあえず働くだろうとは思っていたし、特定の職業に憧れを持っていた時期もないわけではないが、概して漠然としたイメージしか持っていなかった。
そうやってふらふらしながら大学生活を過ごしてきて
今やっと幾つか道筋のようなものが見えてきた。
それを簡潔にまとめると、
- 努力しなければ自分が生まれ育った環境以上の場所へは上がれないこと。
- 学校という守られた空間の外に出れば、人間は結果でしか評価されないこと。
- 大学入学以降の人生は、それまでよりもはるかに早いスピードで時が流れること。
- 「いつか」は「今」だということ。
という感じだろうか。
どれも自己啓発本に書いてありそうな言葉で、自分でも笑ってしまうけれど
思考の結論だけを切り取れば大抵自己啓発チックになるのはしょうがない。
今のままじゃやばいなあ、と感じながらも何かに向けて邁進できているわけではない。
人と同じことはしたくない、といえばかっこいいけれど
要は、頑張りたくないだけ、怠惰なだけという場合が多々ある。
誰かが泥臭く進んでいるところを自分はスマートに行けるんじゃないか、という妄想はもう捨てなければならない。
怠惰でずるい自分を乗り越えて、自分の頭の悪さや才能のなさを認識しながら何事も泥臭くやろうというスタートラインにやっと立てたような気がする。
でも、スタートラインに立ってなお違和感を感じ続ける自分がいる。
いつも「何か違う」と思い続け、セオリーのようなものに反発し続ける自分がいる。
そして、そんな天邪鬼を見て「さっさと走れよ!時間ねえんだよ!」とキレる自分もいる。
人の意見を素直に聞けないことほど不幸なことはないのではないか。
何にも納得できない。
何にも違和感を感じる。
常にモヤモヤしていて、原因のわからない違和感にイライラして、
横を見れば、走り出せない自分を尻目にひたむきに走る人たちが見える。
どんな自分になったって、自分のことを100%肯定できる日なんて来ないんじゃないか。
たとえ、一見誰かに羨ましがられるような人生を歩んだとしても。
考えることをやめれば全て解決しそうだ。
でも、きっとそれは僕にはできないだろう。
「考えるのをやめて楽になったよ」とのたまう自分を、自分として認めることはできそうもない。
とは言っても「ただ文句を垂れるだけのやつにはなりたくない」という最低のラインがあって、
せめて身の回りの人たちが自分の言葉を真剣に受け止めてくれるように結果は積まなければと思う。
自分の言葉に自信を持てるようになるには、途方もない裏付けが必要だ。
必要な努力量に怯みながらも、一つずつ積み上げるしかないということか。
やっとけばよかったと思うこと 1
いま僕は22歳だ。
4月には23歳になる。
世間的には若者の部類に入る。
自分でも若いと思っている。
客観的にみても主観的にみてもまだまだペーペーなのだが、
一応、22年生きるとものすごく大切な思い出とか思い返すだけで悔しい後悔なんかを多少経験していたりする。
なんとなく思い立ったので、「やってよかったこと」と「やらずに後悔したこと」を書き連ねてみようと思う。
1. 年上の人ともっと絡めばよかった。
僕は「先輩」という人種に対して無条件に恐怖心を感じるタチだ。
それはべつにゴリゴリの男子寮に入ったからというわけではなく、元々そうなのだ。
逆に、東京で住んでいた男子寮に入っていなかったら今より酷かっただろう。
だから自分が絡むのは高校でも大学でも同級生が多かった。
でも、最近もっと大人と絡んでおけばよかったと思う。
もちろんまだまだ巻き返し可能なのでこれからはたくさん年上の人と話そうと思う。
人生は一人一人違うけれど、それぞれに起こるライフイベントは実はそんなに大差ない(特に日本では)。
大学に行った人なら1年目は大学の中で何を頑張ろうか迷うし3年くらいになると就活に悩みだす。
自分が抱えている悩みの多くを年上の人は既に経験しているのだ。
大学に入って学生団体とかやってたけど、なんでもっと大人(社会人)と関わらなかったんだろうと後悔している。
機会はいくらでもあったのに。
2. 人のすごさは結果・仕事量で判断する。
大学に入ると高校よりもいろんなタイプの人間に出会う。
僕が地方から出てきたというのもあるのだろうけど、自分より優秀な人が無限に存在することに圧倒されていたのが大学1、2年の頃だった。
でも、なんとなく負けたくなくてどうにかしてそういう人たちのボロを見つけて
自分の存在意義みたいなものを確認しがちだったのだが、当たり前ながらそれは本当にカッコ悪い。
しかし、世の中でもてはやされてすごいと評価されている人たちの中にはどうしても「なんか違くね?」というのが存在することも確かだと思う。
最近、覚えた見分け方はこれ。
なんらかの結果を出している人はなんの結果も出してない人より偉い。
どれだけ気に入らなくてつまらなくても結果を出しているやつの方が偉い。
逆に言えば、結果を出していないのに結果を出している人に色々文句をつけるのは最高にダサい。
SNSのおかげでみんなが自分の意見を発信できるようになったけれど、
なんの実績もない人たちがそれなりに有名な人たちを論破しようと試みたりとりあえず罵声を浴びせようとするのを見るけどとにかくダサい。カッコ悪い。
でも、自分にもそういう面が確かにあったし今もある。
結果を出せば人もその他のリソースも勝手についてくる。
あと仕事量ってのも大事かなと最近を思う。
単純な話、やればできるけどあんまりやらない奴と出来はまあまあだけどめっちゃやる奴がいたら後者が良いに決まってる。
例えば「起業」は一つの結果だけど、「で、結局こいつは何をしたんだ?」みたいなのも多い。
それなら会社の中でいろんな事業を成功させた人の方がかっこいい。
僕はどっちもまだなので何も言えないんだけど…
3. 「怖い」をコントロールする
は?って感じですよね。
説明します。
他の人はどうか知らないけど
自分の苦手なことだったりやったことのないことをやるとき、僕は胸のあたりがキューっとなる(ときめいているわけではない)。
べつに緊張でも恐怖でもなんでもいいんだけど、この状態になると思考が止まる。
「時間よ早くすぎろー」状態になってしまって何もできない。
ただやり過ごすことだけを考えるようになってしまう。
大人になると怒られることも減って中途半端な知識や思考力を身につけるからけっこういろんなことをやり過ごせてしまう。
でも、それだと何かにチャレンジして自分を向上させたいみたいな欲求と矛盾する。
それはけっこう苦しい。
僕の場合は「なんでうまくできないんだ!」と思った場合は大体、恐怖や緊張で頭が止まっているせいだと最近気づいた。
例えば、英語を話すときとか、さっきの「年上と話すのが苦手」というのもそう。
思い返せば、苦手であったり未体験のシチュエーションのときは身体がカーッとなる。
意識的になるだけでも随分違うし、もっと早く気づきたかった。
たぶん話はまだ尽きないけど、話のレベルもばらばらになってしまったし既にけっこう長いのでここまでにする。
終点まで行ってみた。 -コペンハーゲンの中心から20分で大平原-
ブログの名前に「日記」とあるのに、今まで日記らしきものを書いてこなかった。
というわけで今日は普段乗ってるメトロの終点まで行ってみた。
終点、といってもコペンハーゲンの中心部からメトロで20分ほどである。
しかも、僕の最寄り駅は終点の一つ前なので目的地まで歩いていった。
僕の近所は新しく開発されている土地なのでどこもかしこも建設中だ。
途中で見えてくるのは2016年に完成するというアリーナ。
終点の駅までつくと、いくつかマンションらしき建物が見えてきた。
もはや見慣れてしまったデンマーク建築である。
本当に何もない。
さらに進むと広大な草原が広がっていた。
もう一度言うが、ここは首都の中心部からメトロで20分ほどの場所である。
ここから20分で国会議事堂にも女王の住む王宮にも行けるのである。
最初は空港の敷地かと思っていたが、そうでもないらしい。
地図の右上あたりから先ほどの写真を撮影したのだが、帰宅してからgoogleマップを見てびっくり。
どんだけ草原やねん!!
調べてみるとここは、30〜40年ほど前まで大砲の訓練場だったらしい。
そして不発弾等の完全な撤去が確認されたのがつい6年前の2010年。
Vestamager ammunitionsrydning - NIRAS ←不発弾撤去完了の記事
Kalvebod Fælled - Wikipedia, the free encyclopedia ←ウィキペディアの説明
なんとも変な感じである。
さて、デンマークで新たに建設されるビルはとにかくエッジが効いている。
この「切断面揃えんかい」と言いたくなるアパート
おもわず「え、どういうこと?」とつぶやいてしまう奇怪な形のオフィス兼住居。
またまたgoogleアースをみて気づいたのだがこの写真のビル、数字の8の形らしい。
というわけでその名も「8TALLET」
誰が気付くんだ…
しかし、このビルからの眺めは先ほどの大平原である(中に入ったわけじゃないけど)。
うらやましい…
少し歩くと幼稚園の横におじさんが座っていた。
木製のおじさんである。
なんの説明もなくただ座っていたこの大きなおじさんは何を見つめているのだろう。
難民から資産を没収!? -Jewelry Lawをめぐる議論ー
先日、ツイッターのタイムラインをさかのぼっていると
やたら"Denmark"という文字を目にした。
何かと思えば、デンマークが難民・移民から財産を回収できるという法律が可決されたことを世界中のメディアが報じたようであった。
具体的には、難民から10,000クローナ(1クローナは約18円)以上の資産を没収し、彼らの住居や食事などの経費に充てるいう内容だ。
元々は婚約指輪など思い出の品を含むありとあらゆる財産を没収する法律であったため、英語では"Jewelry law"と呼ばれている(反対意見が続出したため、思い出の品は対象から除外された)。
上の記事にも“controversial”とあるようにこの法律はかなり論争を巻き起こしている。
国連で難民関連の問題を担当する国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)はこのデンマークの決定をかなり強く非難し、「難民の尊厳への侮辱だ」と述べ、国連のパンギムン事務総長も、命からがら逃げてきた難民たちは敬意をもって扱われるべきだという趣旨のコメントを出した。
さらなる批判として、Jewelry lawはナチスドイツがユダヤ人を強制収容所に送り込む際に全ての財産を没収していたとの比較に値するという意見もある。
↑デンマークのシンボルの一つである人魚姫が難民から没収した宝石類を身に着けている風刺画
デンマーク政府は法律成立前から投げかけられた激しい批判に対し、「デンマーク史上最も誤解された法律だ」と反論した。
Has Denmark’s plan to seize goods been misunderstood? - The Local
デンマークは高額な税を徴収する分、多くのリターンを与えるという社会民主主義の国であり、デンマークで暮らそうとする以上難民だからといって支援を無償で与えるわけにはいかないというのがJewelry lawの趣旨だ。
この法律が議題に上ったあとに起こった大事件といえば、2015年末にヨーロッパ各地で起きた性的暴行事件だ。
この事件は特に日本においては断定的に難民によるもの言われているが、地元のギャングが絡んでいたという説もある。
ちなみに1月6日までに逮捕されたシリア人は難民ではなかった。
一方で、犯行が「アラブ系」によって行われたことは間違いなさそうだ。
しかし、実態がどうであれこの事件は難民の流入に不安を覚えていた人々に、表立って難民受け入れ反対を表明する材料を与えてしまった。
間違いなくデンマークにおけるJewelry law成立の追い風となったはずだ。
個人的な意見としては、Jewelry lawはあくまで国民の不満を抑えるための政策であるように思う。
自分たちが働いて稼いだ税金を難民に与える政府という印象を持たれないためにも、難民から何かを徴収する必要があり、今回の法律は毅然とした対応を示すためのパフォーマンスの一種と言ってしまってもいいような気がするし、難民が移住先としてデンマークを選ばないようにするためのものでもあるだろう。
だいたい、難民から回収できる金額などたかが知れているだろうし没収した資産で難民支援を賄うのは難しいだろう。
(↑デンマークにやってきた難民の持ち物を取材した記事)
しかし、それが「宝石まで巻き上げられる」というセンセーショナルな部分が取り上げられ、大きな問題となった。
実はこの種の法律はスイスで施行されており、今後はドイツもそれに続く模様だ。
難民を受け入れ続けることはいかに国が豊かであろうと難しい。
しかし、本当に命からがらで逃げてきた人たちに対し今も殺戮の続く母国へ帰れ、と言い切ってしまうこともまた難しい。
イスラム問題に関して多くの著作がある池内恵は、「2015年は西欧の普遍主義の限界を思い知らされた年、2016年は限界をあからさまに認めてしまう年」と述べた。
人々は再び分断されるのだろうか。1月1日の夜に放送されていた「ニッポンのジレンマ」が1月30日(29日の深夜と言うべきなのかな?)0時30分から再放送されます。私はVTR出演で「2015年は西欧の普遍主義の限界を思い知らされた年、2016年は限界をあからさまに認めてし...
Posted by 池内 恵 on 2016年1月23日
ただなんとなく、ただわけもなく
僕は「意味」という言葉が苦手だ。
「何で?」という質問は多くの場合、意味を問うていると思うのだけど
この質問をされるのもするのもあまり得意ではない。
得意ではないと言ってみたところで、今の社会で「意味」を問わずに生きていくことなど不可能だし、「意味などない!」といわれてしまっては何もできない。
「意味」というのは誰かに何かを説明するために存在するものともいえる。
他人と共に何か一つの作業をする際、絶対的な上下関係の中にあったりしない限り
なぜそれをしなければいけないのかを説明してやらなければ動けない。
他人と共に暮らすうえで「意味」を考え、それを言葉で説明するのは必須のスキルなのだ。
「他人」といったが、この他人には「自分という他人」も含まれる。
自分に大きな自信を持っていて常に感じたままに動く人もいない訳ではないが、多くの人は自分に対しても自分の取ろうとする行動の意味を説明しなければ気が済まない。
その点、意味という言葉は「理由」という言葉の類義語でもある。
しかし、「意味」や「理由」が言葉によって説明されるためのものであるならば、
この二つは、感覚の後に生まれてくる副次的なものでしかない。
つまり、先に感覚として「こうしたい」というのがあって、それを人に説明するために意味や理由が生まれてくるのではないか。
「〇〇したい」(「〇〇したくない」でもいいけれど)という感覚が先にある限り、意味や理由は最終的に「よって〇〇する」という結論に達する。
乱暴に言えば、意味や理由は結論ありきで後から導かれるもので、要するにどうにでもなってしまうものなのかもしれない。
意味や理由は必然的に言葉という形をとって現れる。
他人に通じる言葉という条件をかければ、自分のやりたいことの意味や理由を説明するために使える言葉はそうそう多くない。
使える言葉がそうそう多くないということは、その言葉たちによって説明できる意味や理由というのもそうそう多くはならない。
人間はひとりひとり違う人生を歩み、みな違う感覚を持って暮らしている。
一方で、言葉はできるだけ多くの人(少なくとも同じ共同体、文化圏に属する人)の間で意思疎通ができるよう、個人個人の差異を切り捨てたところに成立するものだ。
例えば夕日を見て湧き起こる感情を他者と共有するために「きれいだ」という言葉がある。
でも実際は、夕日を見た時に湧き上がる感情は人によって違うはずで、同じ夕日をみて泣く人、笑う人、呆然とする人がいる。
最大公約数的な性格をもつ言葉という道具で、自分を説明しつくすのは新たな言葉を生み出さない限り不可能なのだ(そして、新たな言葉を生み出してもそれが他人に通じなければそれは言葉とは言わない)。
少し話がそれたが、意味や理由というのは他人を動かすために必要なものという意識は忘れるべきではないだろう。
ただの道具であるはずの言葉によって自分を説明し尽せると誤解すると、「言葉で説明できる」程度の人間にしかなれない。
しかし、どこで何をするにも意味や理由を問われるのが現代だ。
他人と一緒に行動する上で意味や理由は欠かせないものであるのは分かっているけれど、
どこにいってもそれを問われるのには疲れてしまう。
もう少し、「ただなんとなく」「ただわけもなく」という答えが許容される場所が増えるといいなと思う
疎外感の行き先 -草間彌生展から-(上)
市内から電車で40分、眼前には海が広がり対岸にはスウェーデンを望む美しい場所にある美術館では、草間彌生の企画展が行われていた。
名前は知っていたけど実際に作品を見るのは初めてだ。
企画展終了まで1週間とあって多くの人が訪れていたが、海外でもこれほど人気なのかと驚いた。
僕にとって草間彌生とは、かわいいけど少しグロテスクな水玉模様を描く変わったおばさんであった。
しかし、その水玉模様は彼女が統合失調症であるがゆえに見る幻視・幻聴に由来するという。
それを証明するように初期の作品群は今の草間彌生が描く物より、遥かにグロテスクである。
また、彼女はヒッピーをテーマにしたインスタレーションや過激なパフォーマンスを行い前衛の女王と呼ばれていた。
そんな彼女の昔の姿と今の姿は大きく異なるような気がした。
最近の草間彌生はルイ・ヴィトンやKDDIとのコラボレーション商品を発表したり、24時間テレビのTシャツをデザインするなどしている。
この傾向に対して「彼女のアートは資本主義的だ」と批判するのは簡単だ。
実際、草間の水玉パターンは一目でそれが彼女の作品とわかる点においてブランド化との親和性が非常に高い。
しかし、実際アートの価値は金銭的価値に置き換えられるのが普通だし、値段のつかないもの、つまり誰も欲しいと思わないものをアートだ!と宣言したところでそれがアートであると認められることはないだろう。
このアートの市場化を大胆に行ったのが草間と同じ日本出身の村上隆だろう。
彼は最も市場価値の高くなるようなアートを作ることを明言し、事実彼の作品には途方もない値段がつく。
僕の感じた違和感は「市場化」「資本主義」というワードで説明しきれるものではなかった。
今回の草間彌生展の特徴は観客が草間彌生の世界観に「親しめる」こと、「触れられる」ことだ。
しかし、そもそも彼女の作品、特に初期のものはそういう価値観と相いれるものではない。
彼女が絵を描き始めたきっかけが実際に統合失調症を原因とする幻視・幻聴にあるとして、そのような世界観に多くの普通の人(幻視・幻聴を見ない人)が「親しむ」ことなど可能なのだろうか。
彼女の初期の作品が物語っているのは「疎外」であると僕は思う。
多くの人が普通に生活しているにもかかわらず、他者には見えないものが見え、その恐怖に日々脅えねばならない
その恐怖や不安の発露が彼女の作品であったはずなのだ。
あえて「発露」という言葉を使ったのは、おそらくそのような深刻な状況への「理解」を求めて作品を作ったのではないからだ。
彼女の初期の作品は、健常者(誰を健常者とするかはさておき)には触れられぬ世界、彼岸が存在することを暗示している。
僕がどれだけ手を尽くそうとあちらの世界に渡ることはできない。
僕が精神を病んだとしても、僕が見る景色は草間のものとは異なるだろう。
同じ世界観の中にある我々に別世界の存在を提示しようという試みは、彼女の過激なパフォーマンスにも通じる。
そのような「疎外」の感覚は今の展示からは拭い去られている。
美術界は発露せざるをえないような疎外の感覚の表現を駆逐し
「万人のためのアート」、つまり一種の福祉のようなものになろうとしている。
そのような価値観の中では、グロテスクなものをグロテスクなまま提示してはいけないし、アートはすべての人にとってアクセス可能なものでなければならない。
ルイジアナ美術館の試みが成功であったことは、会場にあふれる人々の笑顔や「楽しい」という言葉が証明している。
この展示に対して批判的な意見を持ったわけではない。
しかし、疎外を感じる人の居場所は残されるのだろうか
<たぶん続く>