なすの日記

思考を散歩させるための場所

このブログ

どうもブログを始めてから45本もの記事を上げてきたらしい。

ふと合計記事数が目に入って、こんなに書いたのか、と思ってしまった。

たまに何かを書きたい衝動に駆られて、でもフェイスブックのタイムラインに長々と持論を書き連ねるのも恥ずかしかったのでブログを作ってみたい人だけ見ればいいやと思って始めた。

「みたい人だけ」と言ったけれど、最初は僕がだらだら書いている事なんて誰も読まないと思っていた。

ところが、知り合いから「ブログ読んでる」とか言われることがそれなりにあった。

正直、内心で「あ、けっこうみんな暇なんだな」と思っている。

このブログはけっこう長いから。

そして、そういう人が一生に一回しかない人生の数分を自分のブログを読むことに割いていると思うと、「もっと他に有意義なことがあるはずだよ!!」と叫びたくなったりもする。

ちなみに僕は他人のブログはあまり読まない。

だって長いじゃないっすか…

せっかく読んでもらっているのに完全に嫌な奴なわけだが、「読んでる」なんて言われたらどうしても嬉しくなってしまうのも事実だ。

そんな自分が嫌いになるというのも毎度のことだ。

 

一番嫌になるのは、書いた記事をSNSでシェアするときだ。

これが何人かのTLに流れるのか、

自分の備忘録とか言っといてやっぱり他人にみて欲しいんだな、

やだなー、おまえそんな奴なのかー

と、毎回逡巡する。

現に、シェアしてないやつもある。

でもやっぱり見て欲しいと思う欲求を捨てられない。

まだまだ修行が足りないようだ。

 

そんな自意識の牢屋から出ようとしない僕であるが、

書いててよかったこともいくつかある。

それは、書いてるうちにアドレナリン的なものが出て自分が頭に描いていなかった考えが浮かんでくること。

自分が書いている文章が、頭という海の底から新たなガラクタを引き上げてくるような感覚。

それは端的に言って気分がいい。

サッカーでゴールを決めたりしたときのような感覚だ。

僕は間違いなく喋るより書いた方がうまく自分を表現できる、というと大袈裟で書き言葉を使っている方がストレスが少ないというだけなのだが、ちゃんと発散していないと頭の中が渋滞してしまう。

汚い言い方をすれば、何かを書くということは僕にとって排泄なのである。

しかし、自浄していくためにも排泄は必要だ。

そんな排泄物を見せられる方はたまったものではないが…

 

このブログはきっとこの先もダラダラと更新を重ねていくはずだ。

何かおおきな目的のためにかくのではなく、特に向上心もない。

広大なインターネットというゴミの海の中でただ漂流し続ける。

ただ漂流していればいいものを、たまに目立とうとしてみたりする

そうして今日も一抹の恥ずかしさとともに僕はシェアボタンを押すのである。

ゴジラ(1954)を見て

久しぶりにゴジラを見た。

1954年の最初のやつだ。

敗戦から10年後、日本人に未だ焼きついていた戦争の記憶を呼び起こすような作品である。

もちろん僕は戦争を経験してはいないし、戦争を扱った映画を見尽くしたわけではない。

(というか普段あまり映画そのものを見ない)

でも、焼け野原になっていく東京や途中で挿入される死を覚悟した親子の会話、そして多くの遺児と共に映し出される病院の描写は戦争のイメージを喚起せずにはいられない。

黒瀬陽平によれば椹木野衣は、このゴジラを日本人が戦争の記憶を無意識化で継承するための古典として最も”マシ”なものだと言った。

 

しかし、ゴジラという空想上の怪獣を用いて戦争、あるいは原爆を表現したのはなぜか。

それは日本人にとって戦争もまた地震津波、そして怪獣の襲来と同様の一種の「災害」だったからだ。

突如、空から飛行機が飛んできて爆弾を落とし今まで人の形をしていた存在が焼け焦げていく。

そこに、人によって殺される戦争というリアリティは感じ得なかったのではないか。

その点、地上戦が行われた沖縄は特殊である。

災害の国でもある日本は、あらゆる犠牲者、つまり「もっと生きられたはずの命を途中で絶たれた人々」をまとめて「慰霊」という形で弔ってきた。

その中で、人災と天災の区別はうやむやになっていく。

その構造は東日本大震災の時も同じであった。

津波地震による被害と原子力発電所の問題はどこか一つの問題のように処理され、

どちらも天災として処理される傾向にある。

しかし、後者には明らかに人災の側面がありそもそも原子力というテクノロジー自体に内在する危険が引き起こした問題であるという点から、誰かに責任が生じることは疑いようもない。

その責任とは、東電のトップが辞めることであったり補償を完遂するというだけの意味ではない。

テクノロジーの限界を露呈した事件を引き起こした国として、どのような未来を世界に示していくのか、という問題だ。

この種の「理想を示す」という行為は日本の不得意とするところでもある。

かつて、日本は「大東亜共栄圏」という理想を掲げアジアに進出したものの、利権の獲得と表裏一体であったことや事の進め方があまりに性急で乱暴だったことから失敗に終わった。

差異たる例は、満州国の建設だろう。

民族共和をかかげ、立憲民主政の形をとりながらほとんどの権力を日本人に集中させた国家は、あらゆる民族の指示を得られぬまま瓦解した。

 

話が逸れた。

今回、ゴジラを見返してみて最も印象的だったのはゴジラ対策として巨大な高圧電線を海岸に張り巡らし、沿岸から人々を退避させた上でゴジラを撃退しようとするシーンだ。

その光景は、三陸沿岸に建設されている巨大な堤防、そして人々の高台移転と重なる。

祈りでは何も現状を変えられない事に気付いた人類であるがしかし、凄まじい速さで発展させてきた科学技術をもってしても巨大な災いへの対処はなんとも心もとない。

極端に言えば、祈りというごまかしによって解決せずとも心の平安を得ていた時代から、ごまかしに気付いたものの自然を征服するだけの技術を手にしたわけでもないという時代を僕は生きている。

 

また別の機会に書こうと思っているけれど、今ぼくのいるデンマークには地震がない。

少なくともいまここにいる間は地震で死ぬ事はないのだ。

逆に、日本人なら誰もが経験済みであると思うが、地震の最中は本当に死を意識する。

後で確認してみると震度3程度の揺れだったとしても、自分のいる建物の崩壊、津波への恐怖で心がつぶれそうになる。

そういう意識を持ち得ない社会とは大きく違うのだろうなと思う。

 

 

境界

いたるところで境界線が引かれつつある。

グローバル化」と呼ばれる現象が良くも悪くも国境なんて消し去ってくれると思っていたのに、

人々は国境線を再び強く引こうとしている。

それは、かつてのような領土の拡張、線の変更ではない。

今ある線を濃くするために上から思いっきりなぞっているかのようだ。

自分は何人なのか、自分のルーツはどこにあるのか、どういう条件に当てはまれば自分は共同体の一員として認められるのか。

他の国や人種との違いを探し、自分の境界を確定したいという欲求に駆られている。

 

世の中にあるものは大抵、役に立つか立たないかという区別をされ

役に立ちそうになくても役に立つかのようにふるまうことが求められる。

 

共同体の中ではすぐにどういう“キャラ”なのか峻別され、

別のキャラになろうとしたり、誰かに評されたキャラを自分語りの中心に据えたりする。

 

アカデミズムの世界は著しく専門化し、今や引かれた境界線のあまりの複雑さにめまいがしそうだ。

 

境界を引くこと、レッテルを貼ること、一言で言いきってしまうこと。

そんな行為が知的な行為であるかのようになっている。

 

目前で起きていることを理解したい、説明したいという欲求。

理解できている、説明できると見えるように振る舞いたいという欲求。

知らない分からないという状態への不快感と、知的な怠惰さが相まって

人や出来事を手持ちの言葉に放り込み、分類することでそういう欲求を満たそうとしてしまう。

バッサリと言い切ってしまうことで、短期的には自分が知的であるという快楽を得ることはできるだろう。

できるだけ多くのレッテル、既存のタグを自分に貼り付けることで自分やその他の事象を確定していくのはとても楽だろう。

 

しかし、それでは境界線の外から出ることはできない。

自分を理解するために使っていた言葉が、いつのまにか自分を縛り付ける言葉へと変わってしまう。

「理解」がただの「分類」へと成り下がってしまう。

 

境界線はあくまで道具、即ち「補助線」であるべきだ。

言葉は「補助線」だ。

自分の手で何度も消され何度も引き直されるべきだ。

誰かが引いた線を、不動のものとして受け取る必要はない。

自分が見た世界は、自分で線を引き自分の言葉で語られるべきだ。

(その過程で何度も他者の言葉を借りるにしても…)

 

薄れかかっていた境界が再び強くなりつつあるこの時代にあっても、

境界を時には乗り越え、時にはぼやかし、時には引き直すこと。

何度でも自分の認識と言葉を練り直し、線・言葉を更新していくこと。

目の前の情報を分類しているうちに人生を終えてしまわぬように。

消費

なにかもやもやしていることあって、それがなんだかわからない。

いや、自分が何でもやもやしているのかはわかっている。

しかし、どうそのもやもやを解消していいのかがわからない。

 

あらゆるものが消費されていく。

誰かが精魂込めて作ったものもつまみ食いされ、不味いと言われる。

いや、「まあ、おいしい」とだけ言って次のものに手を出すのも同じ。

真剣に不味いと言ったほうが何倍もまし。

全てのものが、「できるだけ多くの人に」というスローガンを採用している。

その結果、世界にはびこるのは子猫とポルノ。

それが人間なのか?

人間という存在は他の動物と違うのではなかったか?

自らの頭で考え、決断する。

それが短期的な利益を生まないものだとしても。

何かを口にした瞬間に、その言葉を基にデータベースの中から似たような類型の人間を見せられ

「君はこういうタイプの人間か」とレッテルを貼られる。

僕がほしいのはレッテルや性格診断じゃない。

どうすれば、この世で一人の、未だかつてこの星に現れたこともなく今後も現れないであろう自分になれるか。

その答え。

答えを他人に求める時点できっと間違っている。

一生は積み重ねだから、僕の人生がいかに唯一無二であるかはある程度長く生きてみないとわからない。

全ての人間が有名人になれるわけではないから、みんなどこかのレベルで自己承認欲求に歯止めをかけなければいけないのは分かってる。

「わきまえる」というやつだ。

しかし、僕の欲望は際限なく広がっていく。

どこまでも認められたい。

どこまでも愛されたい。

自分が誰かを認めたり愛したりすることもないまま、欲求だけが肥大していく。

こうして僕も何かを消費するだけの存在として一人前になっていく。

としごろ

この年になると少しずつ人生の輪郭が明確になってくる。

小さい頃は「なんにでもなれる」と大人に言われるし、実際なんでもなれると思っていた。

でも、年を取るにつれ少しずつあきらめなければいけないことが増えていく。

ほとんどの人は、どこかの企業に就職して、中には学問を続けたり、起業したり、フリーでやっていく人もいるだろう。

自分がこの先なにをやって生きていくのかはまだ検討もつかない。

でも、そろそろ何かを決めないといけないというプレッシャーは日に日に強くなる。

 

僕はひねくれた人間だ。

誰かが良いとか正しいとか言ったものを、素直に受け取ろうとしない。

いつも「ほんとに?」と思ってしまう。

少し前までは、それが知的な態度だと思っていた。

みんなが良いというもの、誰かが敷いたレールに乗ってしまう人とは違うと思っていた。

でも、そうやっていろんなものを疑って、否定してみて何が残るのだろうと最近思うようになった。

ひょっとして僕は、ある特定のカテゴリーの人をそれらしい理屈をつけて否定してみることで、

その人たちの上に立った気分に浸っていただけなんじゃないだろうか。

それで頑張ろうとしても、やはり違和感は拭われない。

 

最近たどり着いた今のところの結論は、

僕はレッテルを貼られたり、何かに分類されてしまうのが嫌なのだ。

「東大生」とか「がり勉」とか「意識高い」とか「くずな学生」とか。

とにかく何らかのレッテルを貼られて、棚に整頓されてしまわれて、それで「こういう人間にはこういう風に対処しよう」と決められるのが嫌なのだ。

 

あらゆる分類を拒否するような人間になりたいと強く思う。

真面目なやるかと思えばふざけたやつで、ふざけたやつかと思えば真面目なやつで、

次に何をしでかすのか全く分からないような人間。

僕にタグをつけて整理してしまおうとする試みを軽々とすり抜けていく人間。

僕はあくまで「僕」として認識されたい。

 

こういう僕の理想を何と呼べばいいのか分からないし、これをみて「じゃあ君はこの職業に就けばいいよ」と言われたいわけではない、というかそういうのがまさに嫌なのだけど、とにかく漠然としている。

 

どう生きていくかを考えるとき、多くの場合いくつかの選択肢が浮かぶ。

しかしそもそも「選ぶ」という行為は、そこにあらかじめ選択肢が用意されていることが前提となる。。

その選択肢はどこから湧いて出てくるのだろうか。

多くは、常識とか周りの人とかを見ているうちに無意識のうちに生成され現れるものだろうと思う。

「企業で働きたくない」といえば、「起業」とか「フリーランス」という選択肢が湧いて出てきて、そのどれかから一つ選んで頑張らなければいけない。

というのが、典型的なライフコースの捉え方だと思う。

でも、その考え方は窮屈だと思う。

もちろん、自分でお金を稼いで生きていく方法をリストアップすればそれは何通りものパターンに集約されてしまうだろう。

しかし、何かを選んでしまった時点である種の類型にはめられてしまうことになる。

 

どうにかして与えられた選択肢の中から「選ぶ」という発想ではなく、自分が「創り上げる」という発想に持っていけないだろうか。

考え方が違うだけじゃんと言われれば、何も言い返せないけれど

僕は勝手に「選ぶ」ことと「創る」ことの違いを見出している。

「創り上げる」ということは、もちろんみんなが自分の好きなように起業すればいいということではない。

ただ、「選ぶ」というのは誰かから与えられることが前提にある。

自分は斜め右に進みたいのに、右と左にしか道がなかった場合、ほとんどの人は右の道に進むだろう。

なぜならそれが自分の目指す方向に「近い」から。

同じではない。

選択肢が自分の理想と完全に一致している場合も稀にあるけど、多くの場合、全ての理想がかなうわけではない。

はじめは、自分の目指す方向にいつか向かおうと思っても、多少の方向性の違いに目を瞑って妥協しているうちに、いつしかそれに慣れてしまうのではないか。

 

ただ、道の上を歩くだけの人間になってしまうのが怖い。

本当は「創る」という”選択肢”、つまり「選ばない」という選択肢があるにもかかわらず、

急かされ、危機感を煽られるととにかく目の前に見えている選択肢から選ぼうとしてしまう。

「道を創る」という考え方をすれば、今に集中できるのではないだろうか。

「選ぶ」ということしか頭にないと、「選ばないと進めない」という意識が働くし、その結果いろんな可能性を見過ごすことになる。

 

自分の歩んできた道を振り返ってきたときに、「これは自分で創った道だ」と言えるようになりたい(何度も言うけど、それはかならずしもアントレプレナーになることを意味しない)。

もっと大きな言葉を吐けば、自分を他人が見て、目の前で見せられたカードだけが選択肢じゃないんだ、と思うような生き方をしたい。

 

ふわふわしてて伝わらないだろうけど、

自分でも何を言ってるのかわからないけど、

こういうことを思うのは自分だけかもしれないけど

とにかくこんな感じなのである。

 

コトバノゲンカイ

言葉とはつくづく難しい道具だと思う。

僕たちが他人に何かを伝えようとする場合、使える方法はいろいろあるけれど

最も正確に伝達できて、かつ常に使えるのは言葉くらいのものだろう。

言葉がなければ今の人間の発展はなかったはずだ。

試しにそれぞれ共通の言語を持たない人たちがコミュニケーションを試みる様を想像してみる。(お互い英語を一切知らない日本人とロシア人とかを想像してみるといい)

お互いどれだけ高い知能を持って入れも、使える手段はせいぜいボディランゲージくらいで、伝えられる内容といえば「トイレに行きたい」とか「腹が減った」ぐらいのものだろう。

これだけでは人間の組織化や経済の発展は望めない。

というわけで今の人類は言葉を当たり前のように使い生活している。

読み書きができない人間はまだ地球上に多くいるが、体系的な言語そのものを持たない(「うー」とか「あー」だけで意思疎通を図るような)民族は存在しない。

 

音声や動画を伝えるメディアが発明されて僕らの言葉の使用頻度が下がったかといえば、そんな意見に賛同する人もいないだろう。

とにかく僕らは言葉に重度に依存している。

だからこそ、言葉は万能な道具だと思い込んでしまう。

 

 

或いは、言葉で説明できないことに対して無関心になってしまう。

 

 

僕は、言葉の役割は下の図で示したように、心で感じたことを切り取るものだと思っている。

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図のように思っていることの多くを切り取れる人は言葉の使い方がうまい人で、

多くの人は本当にわずかな部分しか切り取ることができない。

言葉は木でできた四角い枠のようなもので、後からその枠を丸にしたりすることはできない。

(ほとんどの場合)「きれい」という言葉で汚さを表すことができないように。

思ったことを正確に言い表そうとすればするほど、言葉は長ったらしくなる。

現に僕は一つのことを説明するためにこうしてだらだら文章を書き綴っている。

その最たる例は学術論文だろう。

結論だけを読めば、「AはBだ」としか言っていないのにそこに至るまで壮大な言葉の羅列がなされることになる。

小説なんかも、ある感情の動きなどを説明するためだけに膨大な言葉を用い、一冊の本になる。

そもそも小説が何を描こうとしているかは「感情の動き」だの「説明」だのというつまらない言葉だけで表せるものではないし、それこそ何冊でも本が書けてしまう。

 

現代のように凄まじい言葉の氾濫を目にしていると、人間は言葉で表せないものはないと過信しているのではないかという気がしてくる。

言葉の限界に無自覚な人間は、言葉を尽くしてできる限り正確に自分の見たこと感じたことを表現するよう努力するよりも、安易な言葉で手短に説明しようとする。

そういう人間の前では、どんな景色も「きれい」だけで表されてしまうし、

「どれだけきれいか」を丁寧に説明されても、聞く側の頭の中では「きれい」で処理されてしまう。

長い説明からその言葉が表しているものを想像する力は失われてしまう。

感情の起伏を「楽しい」とか「悲しい」とか「つまらない」とか、そういう便利な言葉だけで表現し自分の思いを伝える努力を怠り、「楽しい」という言葉から1パターンだけの「楽しい」しか想像できなくなると、自分が苦しい思いをすることになる。

 

心の中のもやもやしたものを表現する術を持たなければそのもやもやは解消されず、それはいつかネガティブな感情に変わる。

表現する術は言葉でなくてもいい。

言葉で表すことができないものがありそのことからくる文字通り「言い知れぬ」フラストレーションがあるからこそ、人は言葉があるにも関わらず絵を描き、踊り、歌う。

それが芸術という非合理的な存在の一つの側面だと思う。

言葉には限界があるという自覚、限界を知ったうえで言葉を尽くして何かを伝えようとする努力、そして言葉以外のもので表現されうることがあるという理解、言葉の背後への想像力。

これらを持てない人間は、言葉という記号から記号以上の意味を見いだせない機械と同じだ。

 

思い通りにならず、他人に完璧に伝えることもできない「感情」へのリスペクトを、どれだけ合理的な世の中になっても忘れないようにしたい。

 

 

はかり

デンマークに来て3か月とちょっと。

日に日に短くなる日照時間とレポート提出の残り時間の中で憂鬱感を深めている僕だが、久しぶりに文章を書いてみる。

 

こっちに来て刺激を受けたことはいろいろあるが、その中でも最も驚いたのは

デンマーク人の労働時間だ。

僕は10階に住んでいるので向かいのオフィスビルの様子が完全に丸見えなのだが、

基本的に17時にはビルから人が消える。

というか、これを書きながら窓からビルを見ると16時にも関わらず昼間の4分の1くらいしか人がいない。

電車が最も混むのは16時頃なので、みんなその時間に退勤するのだろう。

ちなみに、僕の部屋から見えるオフィスビルはかなり有名なグローバル企業が中心に入居しているビルなので恐らく仕事がなくて暇なわけではない(と思う)

 

大学のオフィスは月水金の12時~15時しか空いていない。

本当に他の時間は何をやってるんだという感じだが、それでも世の中回っている。

 

デンマークに来る前から思っていたけど、日本人みたいに頑張って仕事をしなくても世の中ちゃんと回っていく。

そして、給料はそんなに高くないけど時間はたくさんある、みたいなライフスタイルで幸せを感じられる人はたくさんいるはずだと思う。

 

「東大生は悟りから遠い人が多いですね」MBA僧侶・松本紹圭氏が語る! | UmeeT

 

上の記事でお坊さんが「東大生は目の前にニンジンをぶら下げて頑張る馬みたいだ」と言っているけど、日本人のある層はみんなこういう感じだと思う。

ネットメディアには学生起業家やエリート会社員の英雄譚ばかりが取り上げられるし、

国家は「一億総活躍」とか言うし、

自分も何か頑張らなきゃ!という気持ちを煽られる。

努力を煽られる、というよりは理想とされる姿が画一化しているのかもしれない。

 

僕らが大学から社会へ出るまでの過程は、自分の望む社会的イメージ獲得のための闘争のようなものだ。

社会的イメージという言葉を簡単にすれば、他人から尊敬される仕事、ということになろうか。

しかし、個人的にはここで使われる尊敬という言葉は「羨望」とか「嫉妬」といった方がしっくりくる気がする。

他人から嫉妬されるような地位、自分を見た他人が劣等感を感じるような地位。

なんでこうなるかというと、多くの人が同じ物差しで価値を計る状況があるからだと思う。

基本的には世の中、上には上がいるので同じ物差しで人の成功度合いを計ると常に自分は誰かの下になってしまう。

しかし、それではこの世で幸せなのはビルゲイツやザッカ―バーグだけという話になってしまう。

それぞれが違う尺度を持ち、他人の物差しにはとやかく言わないという状況を作らないと

どれだけ身を削って頑張っても上には上がいて、いつも劣等感を感じることになる。

学校で教えられるべきは、上に登る方法ではなく、自分の物差しの作り方だろう。

 

僕が大学に入ったころは、何となく「意識の高い人」は批判される傾向にあったのだけど

紀里谷和明監督インタビュー「日本は末期だ。頑張る学生が笑われている。」 | co-media

こんな記事も最近よく見かけるようになった。

 

僕のここまでの書き方だとバリバリ働く人批判のように見えるかもしれないけど、

バリバリやりたい人はバリバリやって世の中を思う存分引っ張って思う存分稼いでくれ

ということであって特定の態度を批判するものではない。

 

さっきの物差しの話に戻ると、自分で作った価値観に忠実に生きていくにはその価値観への信頼が必要で、結局その信頼とは自己愛・自信になるのだと思う。

自己愛や自信というのはうぬぼれで、みんなが「自分大好き俺はなんだってできる状態」になればみんなバンドマンやパイロットや野球選手を目指すじゃないかそれじゃ世の中回らないじゃないかという類の意見はナンセンスだ。

それは自己愛・自信という言葉から「俺にできないことはねえ」的な力強く威圧的でヤンキーっぽいイメージを勝手に想起しているだけで、別の自己愛の持ち方はいくらでも種類があるはずだ。

 

しかし、「自分のことを愛しましょう!!」と言ってしまうと少々胡散臭い感じになるし何か違う気がする。

自分の物差しを信頼するということは、裏を返せば自分の価値基準に満たない部分を全部ぶっ壊して基準に適合する物を作る覚悟を持つということでもある。

今の自分の全てを正しいと思うのは自己愛ではない。

 

なんで労働時間の話からこんな話になったのかは不明だが

「俺は俺で勝手にやるので君も勝手にやってくれ、本当に困ったら助けてあげるから」

という感じの態度を持つことが大事なのかなーと。

大学は天国、社会に出てからは地獄。みたいな考え方が変わればいいなと思う。