境界
いたるところで境界線が引かれつつある。
「グローバル化」と呼ばれる現象が良くも悪くも国境なんて消し去ってくれると思っていたのに、
人々は国境線を再び強く引こうとしている。
それは、かつてのような領土の拡張、線の変更ではない。
今ある線を濃くするために上から思いっきりなぞっているかのようだ。
自分は何人なのか、自分のルーツはどこにあるのか、どういう条件に当てはまれば自分は共同体の一員として認められるのか。
他の国や人種との違いを探し、自分の境界を確定したいという欲求に駆られている。
世の中にあるものは大抵、役に立つか立たないかという区別をされ
役に立ちそうになくても役に立つかのようにふるまうことが求められる。
共同体の中ではすぐにどういう“キャラ”なのか峻別され、
別のキャラになろうとしたり、誰かに評されたキャラを自分語りの中心に据えたりする。
アカデミズムの世界は著しく専門化し、今や引かれた境界線のあまりの複雑さにめまいがしそうだ。
境界を引くこと、レッテルを貼ること、一言で言いきってしまうこと。
そんな行為が知的な行為であるかのようになっている。
目前で起きていることを理解したい、説明したいという欲求。
理解できている、説明できると見えるように振る舞いたいという欲求。
知らない分からないという状態への不快感と、知的な怠惰さが相まって
人や出来事を手持ちの言葉に放り込み、分類することでそういう欲求を満たそうとしてしまう。
バッサリと言い切ってしまうことで、短期的には自分が知的であるという快楽を得ることはできるだろう。
できるだけ多くのレッテル、既存のタグを自分に貼り付けることで自分やその他の事象を確定していくのはとても楽だろう。
しかし、それでは境界線の外から出ることはできない。
自分を理解するために使っていた言葉が、いつのまにか自分を縛り付ける言葉へと変わってしまう。
「理解」がただの「分類」へと成り下がってしまう。
境界線はあくまで道具、即ち「補助線」であるべきだ。
言葉は「補助線」だ。
自分の手で何度も消され何度も引き直されるべきだ。
誰かが引いた線を、不動のものとして受け取る必要はない。
自分が見た世界は、自分で線を引き自分の言葉で語られるべきだ。
(その過程で何度も他者の言葉を借りるにしても…)
薄れかかっていた境界が再び強くなりつつあるこの時代にあっても、
境界を時には乗り越え、時にはぼやかし、時には引き直すこと。
何度でも自分の認識と言葉を練り直し、線・言葉を更新していくこと。
目の前の情報を分類しているうちに人生を終えてしまわぬように。