境界
いたるところで境界線が引かれつつある。
「グローバル化」と呼ばれる現象が良くも悪くも国境なんて消し去ってくれると思っていたのに、
人々は国境線を再び強く引こうとしている。
それは、かつてのような領土の拡張、線の変更ではない。
今ある線を濃くするために上から思いっきりなぞっているかのようだ。
自分は何人なのか、自分のルーツはどこにあるのか、どういう条件に当てはまれば自分は共同体の一員として認められるのか。
他の国や人種との違いを探し、自分の境界を確定したいという欲求に駆られている。
世の中にあるものは大抵、役に立つか立たないかという区別をされ
役に立ちそうになくても役に立つかのようにふるまうことが求められる。
共同体の中ではすぐにどういう“キャラ”なのか峻別され、
別のキャラになろうとしたり、誰かに評されたキャラを自分語りの中心に据えたりする。
アカデミズムの世界は著しく専門化し、今や引かれた境界線のあまりの複雑さにめまいがしそうだ。
境界を引くこと、レッテルを貼ること、一言で言いきってしまうこと。
そんな行為が知的な行為であるかのようになっている。
目前で起きていることを理解したい、説明したいという欲求。
理解できている、説明できると見えるように振る舞いたいという欲求。
知らない分からないという状態への不快感と、知的な怠惰さが相まって
人や出来事を手持ちの言葉に放り込み、分類することでそういう欲求を満たそうとしてしまう。
バッサリと言い切ってしまうことで、短期的には自分が知的であるという快楽を得ることはできるだろう。
できるだけ多くのレッテル、既存のタグを自分に貼り付けることで自分やその他の事象を確定していくのはとても楽だろう。
しかし、それでは境界線の外から出ることはできない。
自分を理解するために使っていた言葉が、いつのまにか自分を縛り付ける言葉へと変わってしまう。
「理解」がただの「分類」へと成り下がってしまう。
境界線はあくまで道具、即ち「補助線」であるべきだ。
言葉は「補助線」だ。
自分の手で何度も消され何度も引き直されるべきだ。
誰かが引いた線を、不動のものとして受け取る必要はない。
自分が見た世界は、自分で線を引き自分の言葉で語られるべきだ。
(その過程で何度も他者の言葉を借りるにしても…)
薄れかかっていた境界が再び強くなりつつあるこの時代にあっても、
境界を時には乗り越え、時にはぼやかし、時には引き直すこと。
何度でも自分の認識と言葉を練り直し、線・言葉を更新していくこと。
目の前の情報を分類しているうちに人生を終えてしまわぬように。
消費
なにかもやもやしていることあって、それがなんだかわからない。
いや、自分が何でもやもやしているのかはわかっている。
しかし、どうそのもやもやを解消していいのかがわからない。
あらゆるものが消費されていく。
誰かが精魂込めて作ったものもつまみ食いされ、不味いと言われる。
いや、「まあ、おいしい」とだけ言って次のものに手を出すのも同じ。
真剣に不味いと言ったほうが何倍もまし。
全てのものが、「できるだけ多くの人に」というスローガンを採用している。
その結果、世界にはびこるのは子猫とポルノ。
それが人間なのか?
人間という存在は他の動物と違うのではなかったか?
自らの頭で考え、決断する。
それが短期的な利益を生まないものだとしても。
何かを口にした瞬間に、その言葉を基にデータベースの中から似たような類型の人間を見せられ
「君はこういうタイプの人間か」とレッテルを貼られる。
僕がほしいのはレッテルや性格診断じゃない。
どうすれば、この世で一人の、未だかつてこの星に現れたこともなく今後も現れないであろう自分になれるか。
その答え。
答えを他人に求める時点できっと間違っている。
一生は積み重ねだから、僕の人生がいかに唯一無二であるかはある程度長く生きてみないとわからない。
全ての人間が有名人になれるわけではないから、みんなどこかのレベルで自己承認欲求に歯止めをかけなければいけないのは分かってる。
「わきまえる」というやつだ。
しかし、僕の欲望は際限なく広がっていく。
どこまでも認められたい。
どこまでも愛されたい。
自分が誰かを認めたり愛したりすることもないまま、欲求だけが肥大していく。
こうして僕も何かを消費するだけの存在として一人前になっていく。
としごろ
この年になると少しずつ人生の輪郭が明確になってくる。
小さい頃は「なんにでもなれる」と大人に言われるし、実際なんでもなれると思っていた。
でも、年を取るにつれ少しずつあきらめなければいけないことが増えていく。
ほとんどの人は、どこかの企業に就職して、中には学問を続けたり、起業したり、フリーでやっていく人もいるだろう。
自分がこの先なにをやって生きていくのかはまだ検討もつかない。
でも、そろそろ何かを決めないといけないというプレッシャーは日に日に強くなる。
僕はひねくれた人間だ。
誰かが良いとか正しいとか言ったものを、素直に受け取ろうとしない。
いつも「ほんとに?」と思ってしまう。
少し前までは、それが知的な態度だと思っていた。
みんなが良いというもの、誰かが敷いたレールに乗ってしまう人とは違うと思っていた。
でも、そうやっていろんなものを疑って、否定してみて何が残るのだろうと最近思うようになった。
ひょっとして僕は、ある特定のカテゴリーの人をそれらしい理屈をつけて否定してみることで、
その人たちの上に立った気分に浸っていただけなんじゃないだろうか。
それで頑張ろうとしても、やはり違和感は拭われない。
最近たどり着いた今のところの結論は、
僕はレッテルを貼られたり、何かに分類されてしまうのが嫌なのだ。
「東大生」とか「がり勉」とか「意識高い」とか「くずな学生」とか。
とにかく何らかのレッテルを貼られて、棚に整頓されてしまわれて、それで「こういう人間にはこういう風に対処しよう」と決められるのが嫌なのだ。
あらゆる分類を拒否するような人間になりたいと強く思う。
真面目なやるかと思えばふざけたやつで、ふざけたやつかと思えば真面目なやつで、
次に何をしでかすのか全く分からないような人間。
僕にタグをつけて整理してしまおうとする試みを軽々とすり抜けていく人間。
僕はあくまで「僕」として認識されたい。
こういう僕の理想を何と呼べばいいのか分からないし、これをみて「じゃあ君はこの職業に就けばいいよ」と言われたいわけではない、というかそういうのがまさに嫌なのだけど、とにかく漠然としている。
どう生きていくかを考えるとき、多くの場合いくつかの選択肢が浮かぶ。
しかしそもそも「選ぶ」という行為は、そこにあらかじめ選択肢が用意されていることが前提となる。。
その選択肢はどこから湧いて出てくるのだろうか。
多くは、常識とか周りの人とかを見ているうちに無意識のうちに生成され現れるものだろうと思う。
「企業で働きたくない」といえば、「起業」とか「フリーランス」という選択肢が湧いて出てきて、そのどれかから一つ選んで頑張らなければいけない。
というのが、典型的なライフコースの捉え方だと思う。
でも、その考え方は窮屈だと思う。
もちろん、自分でお金を稼いで生きていく方法をリストアップすればそれは何通りものパターンに集約されてしまうだろう。
しかし、何かを選んでしまった時点である種の類型にはめられてしまうことになる。
どうにかして与えられた選択肢の中から「選ぶ」という発想ではなく、自分が「創り上げる」という発想に持っていけないだろうか。
考え方が違うだけじゃんと言われれば、何も言い返せないけれど
僕は勝手に「選ぶ」ことと「創る」ことの違いを見出している。
「創り上げる」ということは、もちろんみんなが自分の好きなように起業すればいいということではない。
ただ、「選ぶ」というのは誰かから与えられることが前提にある。
自分は斜め右に進みたいのに、右と左にしか道がなかった場合、ほとんどの人は右の道に進むだろう。
なぜならそれが自分の目指す方向に「近い」から。
同じではない。
選択肢が自分の理想と完全に一致している場合も稀にあるけど、多くの場合、全ての理想がかなうわけではない。
はじめは、自分の目指す方向にいつか向かおうと思っても、多少の方向性の違いに目を瞑って妥協しているうちに、いつしかそれに慣れてしまうのではないか。
ただ、道の上を歩くだけの人間になってしまうのが怖い。
本当は「創る」という”選択肢”、つまり「選ばない」という選択肢があるにもかかわらず、
急かされ、危機感を煽られるととにかく目の前に見えている選択肢から選ぼうとしてしまう。
「道を創る」という考え方をすれば、今に集中できるのではないだろうか。
「選ぶ」ということしか頭にないと、「選ばないと進めない」という意識が働くし、その結果いろんな可能性を見過ごすことになる。
自分の歩んできた道を振り返ってきたときに、「これは自分で創った道だ」と言えるようになりたい(何度も言うけど、それはかならずしもアントレプレナーになることを意味しない)。
もっと大きな言葉を吐けば、自分を他人が見て、目の前で見せられたカードだけが選択肢じゃないんだ、と思うような生き方をしたい。
ふわふわしてて伝わらないだろうけど、
自分でも何を言ってるのかわからないけど、
こういうことを思うのは自分だけかもしれないけど
とにかくこんな感じなのである。
コトバノゲンカイ
言葉とはつくづく難しい道具だと思う。
僕たちが他人に何かを伝えようとする場合、使える方法はいろいろあるけれど
最も正確に伝達できて、かつ常に使えるのは言葉くらいのものだろう。
言葉がなければ今の人間の発展はなかったはずだ。
試しにそれぞれ共通の言語を持たない人たちがコミュニケーションを試みる様を想像してみる。(お互い英語を一切知らない日本人とロシア人とかを想像してみるといい)
お互いどれだけ高い知能を持って入れも、使える手段はせいぜいボディランゲージくらいで、伝えられる内容といえば「トイレに行きたい」とか「腹が減った」ぐらいのものだろう。
これだけでは人間の組織化や経済の発展は望めない。
というわけで今の人類は言葉を当たり前のように使い生活している。
読み書きができない人間はまだ地球上に多くいるが、体系的な言語そのものを持たない(「うー」とか「あー」だけで意思疎通を図るような)民族は存在しない。
音声や動画を伝えるメディアが発明されて僕らの言葉の使用頻度が下がったかといえば、そんな意見に賛同する人もいないだろう。
とにかく僕らは言葉に重度に依存している。
だからこそ、言葉は万能な道具だと思い込んでしまう。
或いは、言葉で説明できないことに対して無関心になってしまう。
僕は、言葉の役割は下の図で示したように、心で感じたことを切り取るものだと思っている。
図のように思っていることの多くを切り取れる人は言葉の使い方がうまい人で、
多くの人は本当にわずかな部分しか切り取ることができない。
言葉は木でできた四角い枠のようなもので、後からその枠を丸にしたりすることはできない。
(ほとんどの場合)「きれい」という言葉で汚さを表すことができないように。
思ったことを正確に言い表そうとすればするほど、言葉は長ったらしくなる。
現に僕は一つのことを説明するためにこうしてだらだら文章を書き綴っている。
その最たる例は学術論文だろう。
結論だけを読めば、「AはBだ」としか言っていないのにそこに至るまで壮大な言葉の羅列がなされることになる。
小説なんかも、ある感情の動きなどを説明するためだけに膨大な言葉を用い、一冊の本になる。
そもそも小説が何を描こうとしているかは「感情の動き」だの「説明」だのというつまらない言葉だけで表せるものではないし、それこそ何冊でも本が書けてしまう。
現代のように凄まじい言葉の氾濫を目にしていると、人間は言葉で表せないものはないと過信しているのではないかという気がしてくる。
言葉の限界に無自覚な人間は、言葉を尽くしてできる限り正確に自分の見たこと感じたことを表現するよう努力するよりも、安易な言葉で手短に説明しようとする。
そういう人間の前では、どんな景色も「きれい」だけで表されてしまうし、
「どれだけきれいか」を丁寧に説明されても、聞く側の頭の中では「きれい」で処理されてしまう。
長い説明からその言葉が表しているものを想像する力は失われてしまう。
感情の起伏を「楽しい」とか「悲しい」とか「つまらない」とか、そういう便利な言葉だけで表現し自分の思いを伝える努力を怠り、「楽しい」という言葉から1パターンだけの「楽しい」しか想像できなくなると、自分が苦しい思いをすることになる。
心の中のもやもやしたものを表現する術を持たなければそのもやもやは解消されず、それはいつかネガティブな感情に変わる。
表現する術は言葉でなくてもいい。
言葉で表すことができないものがありそのことからくる文字通り「言い知れぬ」フラストレーションがあるからこそ、人は言葉があるにも関わらず絵を描き、踊り、歌う。
それが芸術という非合理的な存在の一つの側面だと思う。
言葉には限界があるという自覚、限界を知ったうえで言葉を尽くして何かを伝えようとする努力、そして言葉以外のもので表現されうることがあるという理解、言葉の背後への想像力。
これらを持てない人間は、言葉という記号から記号以上の意味を見いだせない機械と同じだ。
思い通りにならず、他人に完璧に伝えることもできない「感情」へのリスペクトを、どれだけ合理的な世の中になっても忘れないようにしたい。
はかり
デンマークに来て3か月とちょっと。
日に日に短くなる日照時間とレポート提出の残り時間の中で憂鬱感を深めている僕だが、久しぶりに文章を書いてみる。
こっちに来て刺激を受けたことはいろいろあるが、その中でも最も驚いたのは
デンマーク人の労働時間だ。
僕は10階に住んでいるので向かいのオフィスビルの様子が完全に丸見えなのだが、
基本的に17時にはビルから人が消える。
というか、これを書きながら窓からビルを見ると16時にも関わらず昼間の4分の1くらいしか人がいない。
電車が最も混むのは16時頃なので、みんなその時間に退勤するのだろう。
ちなみに、僕の部屋から見えるオフィスビルはかなり有名なグローバル企業が中心に入居しているビルなので恐らく仕事がなくて暇なわけではない(と思う)
大学のオフィスは月水金の12時~15時しか空いていない。
本当に他の時間は何をやってるんだという感じだが、それでも世の中回っている。
デンマークに来る前から思っていたけど、日本人みたいに頑張って仕事をしなくても世の中ちゃんと回っていく。
そして、給料はそんなに高くないけど時間はたくさんある、みたいなライフスタイルで幸せを感じられる人はたくさんいるはずだと思う。
「東大生は悟りから遠い人が多いですね」MBA僧侶・松本紹圭氏が語る! | UmeeT
上の記事でお坊さんが「東大生は目の前にニンジンをぶら下げて頑張る馬みたいだ」と言っているけど、日本人のある層はみんなこういう感じだと思う。
ネットメディアには学生起業家やエリート会社員の英雄譚ばかりが取り上げられるし、
国家は「一億総活躍」とか言うし、
自分も何か頑張らなきゃ!という気持ちを煽られる。
努力を煽られる、というよりは理想とされる姿が画一化しているのかもしれない。
僕らが大学から社会へ出るまでの過程は、自分の望む社会的イメージ獲得のための闘争のようなものだ。
社会的イメージという言葉を簡単にすれば、他人から尊敬される仕事、ということになろうか。
しかし、個人的にはここで使われる尊敬という言葉は「羨望」とか「嫉妬」といった方がしっくりくる気がする。
他人から嫉妬されるような地位、自分を見た他人が劣等感を感じるような地位。
なんでこうなるかというと、多くの人が同じ物差しで価値を計る状況があるからだと思う。
基本的には世の中、上には上がいるので同じ物差しで人の成功度合いを計ると常に自分は誰かの下になってしまう。
しかし、それではこの世で幸せなのはビルゲイツやザッカ―バーグだけという話になってしまう。
それぞれが違う尺度を持ち、他人の物差しにはとやかく言わないという状況を作らないと
どれだけ身を削って頑張っても上には上がいて、いつも劣等感を感じることになる。
学校で教えられるべきは、上に登る方法ではなく、自分の物差しの作り方だろう。
僕が大学に入ったころは、何となく「意識の高い人」は批判される傾向にあったのだけど
紀里谷和明監督インタビュー「日本は末期だ。頑張る学生が笑われている。」 | co-media
こんな記事も最近よく見かけるようになった。
僕のここまでの書き方だとバリバリ働く人批判のように見えるかもしれないけど、
バリバリやりたい人はバリバリやって世の中を思う存分引っ張って思う存分稼いでくれ
ということであって特定の態度を批判するものではない。
さっきの物差しの話に戻ると、自分で作った価値観に忠実に生きていくにはその価値観への信頼が必要で、結局その信頼とは自己愛・自信になるのだと思う。
自己愛や自信というのはうぬぼれで、みんなが「自分大好き俺はなんだってできる状態」になればみんなバンドマンやパイロットや野球選手を目指すじゃないかそれじゃ世の中回らないじゃないかという類の意見はナンセンスだ。
それは自己愛・自信という言葉から「俺にできないことはねえ」的な力強く威圧的でヤンキーっぽいイメージを勝手に想起しているだけで、別の自己愛の持ち方はいくらでも種類があるはずだ。
しかし、「自分のことを愛しましょう!!」と言ってしまうと少々胡散臭い感じになるし何か違う気がする。
自分の物差しを信頼するということは、裏を返せば自分の価値基準に満たない部分を全部ぶっ壊して基準に適合する物を作る覚悟を持つということでもある。
今の自分の全てを正しいと思うのは自己愛ではない。
なんで労働時間の話からこんな話になったのかは不明だが
「俺は俺で勝手にやるので君も勝手にやってくれ、本当に困ったら助けてあげるから」
という感じの態度を持つことが大事なのかなーと。
大学は天国、社会に出てからは地獄。みたいな考え方が変わればいいなと思う。
留学に大和魂って必要ですか?
留学に行く、となると「日本のことを勉強していったほうが良い」と言われる。
確かに実際に留学を始めてみると日本のことについて聞かれる。
結局、僕は大して日本のことを勉強しなかった。
日本のことって何だろう、と考えているうちに海外に出てしまった。
やっぱり一番聞かれることが多いのは日本のアニメや漫画について。
ドイツでは「ワンピース読んでた」と言ってしまったばかりに
「まじか!!じゃあ、ルフィのギアフォースについてどう思う!?」と聞かれ、あまりの連載の長さに辟易して途中で読むのをやめた僕は困ってしまった。
(質問された時はオクトーバーフェストの会場で、聞いてきた彼は別の友達に絡まれたので答えずに済んだ。)
海外に出るにあたって日本の何を勉強すればいいのだろう。
能や歌舞伎、茶道について一通り習ってから海外に出れば良いのだろうか。
それともドラゴンボールとワンピースを全巻読めばいいのだろうか。
でも、日本の伝統芸能って生活に結びついているとは言えないし、
アニメや漫画も興味がないから見てなかっただけなのに
なぜ海外に行くために馴染みのないものに手を出さないといけないのだろう。
それって不自然じゃないか、と僕はずっと思っていた。
少し話は変わるけど、
僕は常々、「大和魂」みたいなものを疑問に思っている。
それはべつにそういう言葉が「戦争を想起させる!」というような政治的理由からではない。
今まで、日本人に囲まれ自分を相対化して見る機会のなかった人間が「日本人の心」とか言っても
それは自分の持つ限られた情報、あるいはメディアによって恣意的に流された情報から構築された日本のイメージとの海外のイメージを比較して形作られるものにすぎない。
日本人が「大和魂」とか「日本人の心」というものを抱いて海外で生活したりビジネスをしよう
というのは、「僕はこういう人間でーす!!」という主張を振りまいているようにしか見えない。
日本的なものとして「おもてなし」とよく言われるけど、海外の人におもてなしの精神がないとは思えない。
海外だってお金を払えばちゃんとしたサービスを受けられるし、彼らは彼らなりのサービス精神を持って動いている。
(とあるサイトによれば日本のおもてなしは対価を求めずに期待以上のサービスを提供することだそうだが、それって単純に働く人のやる気を搾取して賃金以上のサービスを提供させてるだけの気もする…)
歌舞伎からアニメといった日本の文化やおもてなしのような日本的精神を学んでも
それは結局だれかの受け売りでしかないと思う。
付け焼き刃の知識はすぐにボロが出る。
海外の友達に日本文化について聞かれて、知らなかったのなら一緒に調べればいいんじゃないか。
「歌舞伎とか能とか一般的ではないよ」と言えばいいし、「日本人全員がワンピース読んでるわけじゃないよ」と言えばいいんじゃないだろうか。
それはそれで正しい日本の姿だ。
広告会社の陰謀だ!!とまでは言わないにしても、自分以外の誰かが作り上げたぎこちない日本のイメージを
慌てて身につける必要はないと思う。
日本で流通している「海外の人が日本に持つイメージ」と「日本人が日本人に持つイメージ」は、自分で自分を外から見たことがない以上、あくまで二次情報から作り上げられた虚構の世界でしかない。
自分で作り上げた虚構の世界を相手に押し付けたって、それを理解してくれるはずがない。
皮肉だけれど、日本的なものという意識を日常の中で形成できないのが日本の特徴のような気がする。
多くの国は色んな人種の人が街を歩いているし、ヨーロッパなんかは国が地続きだから
常に外国人と接触している。
そんな場所では自分の国に対する意識が強く生まれ、自分の国を相対化する意識が生まれやすいのだと思う。
海外から帰ってきて、日本のことを学ぶことに意欲的になる人を見かけるが、僕はそれがけっこう正しい姿だと思う。
自分のくらす国がどう見られているかをリアルに感じ、他者が自分について持つイメージをより詳しく知りたいと思うのは当然のように思う。
なにより、日本でも海外でも「大和魂」なんてものを持つよりはまず「人として何が正しいか」という発想を持った方がいい。
あえて名前をつけずとも、ゲストが来たら温かく迎えるのは当たり前だし、困っている人がいたら助けるのは同じだ(その迎え方や助け方の違いで誤解は生まれるかもしれないけれど)。
自分が人として正しいと思うことをして、もしそれが誤解を生んだなら説明すればいい。
そして謝って次から別のやり方をすればいいだけじゃないのか。
人として誠実に向き合えば相手は「あの日本人はいいやつだ」となると思う。
あえて海外に出てきたのは自分の中の何かを守るためじゃない。
逆に何かを変えたいと思い、未知なるものを求めて旅立つ人が多いと思う。
だったら、さっさと大和魂なんて捨てて新しい環境に溶け込めばいい。
誰かが「大和魂」と呼んだつまらないプライドを壊して壊して壊して、
それでも壊せないものを見つけたなら、それが本当の大和魂だろう。
放置の倫理 ー多様性を保証するには?ー
最近、下記のような記事が大きな反響を呼んでいる。
実態は、「炎上した」のほうが正しい。
まあこのタイトルを見れば「いやいや、高校生のうちに恋愛したいでしょ!」とか「こういう教育が精神的に貧しくて社会で使えない東大生を育てるんだ!」みたいな反論が湧くことは予想できるし、実際になされた反論もそのようなものだった。
ここで考えたいのは、この母親の言っていることが正しいかどうかではない。
そもそも一個人の意見が正しいか否かというのは、勝手に情報の受け取り手が判断すればいいことだ。
ましてや東大理三を目指す子供の親なんてものすごく少ないのだからほとんどの人にとってどうでもいい情報ではないのか。
にもかかわらず、なぜこの記事は炎上したのか。
それは多くの人がSNSというツールを使う中で、あえて自分の意見を述べることを選択しているからだ。
逆に言えば、例え気に入らない意見があったとしても「放置する」という選択肢を取らない人が一定数いるということをこの炎上案件は示している。
この傾向はSNS特有の炎上につきものだ。
嫌なら見なければいいのに、わざわざ嫌いな芸能人のブログに誹謗中傷を書き込んだりする人がいるのも一つの例だ。
なぜわざわざ人を攻撃するのか、という疑問は今回は置いておいて
このような炎上が多様性や自由にどう影響するのか考えたい。
なんらかの言動が炎上した場合、その当事者は謝罪や発言の撤回を求められることになる。
騒ぎになれば炎上された本人、そしてそれを見ていた人々が萎縮する。
その結果、自由に行動することは難しくなり、結局人から何も言われないようなことしかできなくなる。
ここで、僕が言いたいのは「炎上が自由を奪う」という陳腐な意見ではなく、
『多様性や自由を担保するのは「放置」だ』ということだ。
当たり前のことだが、この世界には自分と意見の違う人間がたくさんいる。
極論を言えば、人間は一人一人異なる存在なので全員違う意見を持っていることになる。
では、そのような世界で多様性を保証するとはどういうことなのか。
「相手のことを理解しようと試み、他者を尊重すること」というイメージを持つかもしれないが、
それは必ずしも正しくない。
自分と違う人間の気持ちを理解したりさらにそれを尊重したりできるのはそれこそ聖人だけだと思う。
むしろ、他人の気持ちがわかるなんていうのは傲慢ですらあると思う。
例えば、多様性の問題としてセクシュアルマイノリティーがよく取り上げられるが、
僕はその人たちの気持ちを完璧に理解した上で尊重することなんてできない。
でも、「共感できない」は「認めない」ではないということを覚えておいてもらいたい。
「君たちのこと理解はできないけど、君たちが生きたいようにいきればいいんじゃない?」という心の持ち方は可能だ。
「あんたも勝手に生きていいから、俺も勝手に生きさせてくれ」という態度
つまり、「放置」だ。
自分とは全く違う意見を持っている人がいようと、他人の権利を侵さない限り相手の嗜好や考えに干渉しない。
多様性や自由を守るのはこういう態度だ。
しかし、自分と意見が違う人間を徹底的に攻撃しなければ気が済まない類の人間がいる。
そのような人たちからの攻撃からは、守られなければならない。
自分の権利が侵害されていないにもかかわらず、他人の権利を侵すのは過剰防衛だ。
多様性を求める態度は思想的にリベラルと呼ばれるものだと思うが、
日本のリベラルはあくまで「保守に対するリベラル」といった印象が強い。
安保法案に関する運動では、「デモに賛成しないのであれば反安倍政権の人でも攻撃する」という光景が見られた。
多様性を認めないその態度はリベラルには程遠い。
最初の記事に戻れば、「そういう意見の人もいる」というだけのことなのに
まるで自分が攻撃されているように感じたり、もっとタチが悪いのはある意見によって傷つく人々を”勝手に”想定して、その人たちが声をあげたわけでもないのに勝手に正義感を振りかざし他者を攻撃する人たちがいる。
本当に些細なことでも放置できない人がいるとい例として記事を挙げた。
勝手に生きたい人たちが声を上げるのは、勝手に生きることが許されなくなる状況だ。
「放置」とはいかなる状況においても相手に干渉しない、ということではない。
困っている人がいて、それを実際に目にしたなら助けなければならない。
それは「哀れみ」という言葉で表現されるべき感覚だ。
道端に倒れている人がいたらどれだけ嫌いなやつでも一応助けるみたいな感じだろうか。
LGBIの問題や難民の問題が具体例だ。
自由や平等の観念の基盤には人種や国籍、性別といった観点の前に「人間」という概念が存在する。
日本語の「人として」というやつだ。
人の生き方や考えを画一化しようとする試みはどこかで破綻するというのは歴史の教訓である。
だからこそ、ここ数百年の間に人間は多様性を認める方向に進んできた。
多様性を認めつつそれぞれの権利を守り義務を課していくにはできるだけ大きな括りが必要だ。
思想信条や国籍で括れば、その括りから漏れた人たちが必ず反発する。
そこで編み出されたのが「人間」という括りだ(奴隷のように人間であるにもかかわらず人間とされなかった場合もあるけれど)。
週刊誌の記事からとんでもなく大きなところに飛躍してしまったけれど、
まとめとしては「放置こそ多様性」ということで。