逸脱者たちへ
またテロが起こってしまった。
たくさんの悲しみと憎しみが渦巻くのを目の当たりにしても、何もできない無力感が襲う。
パリの時と同様、多くの人が連帯を表明した。
「私たちはベルギーとともにある」
「テロには屈しない」
無差別的な犯罪が起きたとき、誰しもが「自分が被害者だったかもしれない」あるいは「これから被害者になるかもしれない」と想像する。
だから、何も言わずにはいられない。
日常を生き続けられるよう自分を奮い立たせるために「友情」や「連帯」、「不屈」といった言葉を並べ、街に繰り出すのだ。
しかし、その「連帯」にはどれだけの人間が含まれているのだろう。
「結束」は「敵対」とコインの裏表だ。
戦うべき敵がいるからこそ結束する。
しかし、僕らは誰と戦うのだろう。
過激派だろうか。
それは、正しいように見えて、実は重大な誤りを含んでいるように思う。
多少なりとも良識がある人なら、「西洋vsイスラム」という見方はしない。
多くのムスリムはテロなど起こさないからだ。
では、過激派とは何なのか。
確かにここ最近のテロはすべてイスラム過激派が関与している。
それでは、過激派を名乗る人・組織を全滅すれば世界は平和になるのだろうか。
僕はそうは思わない。
いつの時代もテロは存在した。
地域の独立や、圧政からの解放、新たなる理想を掲げ暴力的な手段に訴える人間は常に存在する。
1970年代には世界中で左翼グループがテロ事件を起こした。
日本でオウムがテロを起こしたのは20年ほど前だ。
もちろん時代ごとにその内実は異なるかもしれない。
現代のテロには組織的というより、ある思想に感化された個人、あるいは非常に小さなグループが事件を起こすという特徴がある。
一方で、テロを助長する思想は時代ごとに違うにしても、その根本にあるものは同じなのではないかと思う。
現代社会の主要な要素の一つに人権がある。
人は生まれながらにしてある種の社会的な権利を有しているという思想である。
この考え方では、個人は世界に一つしかない尊重されるべき存在である。
しかし、現実はどうだろう。
自分は本当に代替不可能な人間なのだろうか。
自分より優秀な人はいくらでもいて、自分がいなくても社会も仕事も回っていく。
資本主義の世界では、自分という存在に給料という形で値段がつけられる。
誰もが自分の価値をリアルに知ることになる。
自分は世界にただ一人の人間ではないのか、尊重されるべきではないのか。
そんな問いは常に現代人の頭をよぎる。
多くの人は、ある時点で折り合いをつけて生きていく。
しかし、生まれながらにしてある種の偏見や差別など理不尽の中で生きていたとしたら。
そういう理由から、自分の中に生じる違和感に折り合いをつけることができないとしたら。
傍目には普通の生活を送っているように見えても、心の中では疎外を感じているとしたら。
自分という存在の価値や意義を確かに感じるために、何らかの思想にすがるのは人の常だ。
それがイスラム過激主義だろうと新興宗教だろうと環境保護だろうと同じこと。
その中でも暴力とそこから引き起こされる恐怖は他者に自分の力を知らしめる最も安易な手段だ。
過激な行動の支柱となる思想がどういうものであろうと、最終的に行き着く先は暴力だ。
自分の存在を正当化するための手段として暴力を用いるのは明らかに怠惰で、身勝手な思考だ。
誰も殺さなくても努力すれば誰かに認められることはできる。
その点において、テロリズムに走る人たちを許すことは絶対にできない。
しかし、彼らが抱えているような疎外感や不安を感じる人間は決して少なくない。
それは、大なり小なり誰の心にも存在する。
たまたま自分は周囲の環境に恵まれただけではないのか。
自分が少しでも違う境遇の中にいたら、同じような思想に走ったのではないか。
そういう想像、そして恐怖は常に僕の中にある。
自分が被害者になるかもしれないという想像をする人は多いが、
自分が加害者になるかもしれない、あるいはなりえたかもしれないと想像する人はどれくらいいるのだろう。
僕の場合、そんな想像から生まれる感情は同情ではなく、恐怖だ。
同情など間違ってもしないけれど、自分が何らかの思想に救いを求め、ルールを逸脱することがありえたかもしれない。
今、自分がいわゆる「まとも」な人間として生きていられるのは単なる偶然なのではないか。
犯罪者になりえたかもしれないという想像なんてとんでもないと思うかもしれない。
しかし、その想像力は重要であるように思う。
テロリストを人間ではないある種の悪魔のように見立て、ただ排除するだけでは何も解決しない。
どんな状況でも疎外感・違和感を感じる人間はいる。
疎外感を感じる人間がいれば存在を認めてやり、
違和感を感じる人間がいればそれを正しい方向に昇華させる術を共に考えなければならない。
悲惨な出来事を目にしたとき、何かしなければいけないと思うのは普通のことだ。
しかし、あまりに多くの情報にさらされる現代に生きる我々は、どんな悲惨なことも自分に直接関係ない限り簡単に忘れてしまう。
いや、忘れるのではない。
飽きるのだ。
SNS上に氾濫するインスタントな連帯の表明は、新たな疎外を生むだろう。
なぜ遠い国の死者には祈り、身近な苦しみには目を向けてくれないのか。
なぜ豊かな人間の少数の死には涙するのに、貧しい国での多くの死には無関心なのか。
そんな疑念、不信感は強い負の感情へと変わっていく。
そうこうしているうちに人々の関心は新たな方向に向かっていく。
テロの度に拡散されるようになったポップなイラスト、キャッチコピーは、あと何度かすれば飽きられるだろう。
そして新たな形の「哀悼の意」が流行るのだ。
人々の関心が偏るのは仕方のないことだと思う。
どこにあるのかすらよくわからないような国で1000人死ぬのと、自分と同じような生活レベルの国で30人死ぬのとでは感じるものが違うのはしょうがない。
しかし、哀悼の意がネット上で拡散された途端に、その拡散度合いが人の命の価値を否が応でも見せつけてしまう。
貧しい国で起きたテロにも哀悼の意を表すればいいという話ではない。
氾濫する投稿が、不平等や疎外感といった人間がはるか昔から抱える負の側面と向き合う覚悟と思慮を持っているようには、僕は見えない。
ただ、自分を揺さぶる感情に従って衝動的に意思表明をすればいいのかもしれない。
ひょっとすると世界を救うのはSNS上で表明される「愛」なのかもしれない。
しかし、僕はそんなに素直にはなれない。
僕もまた、違和感と疎外感を抱える逸脱者なのだろう。