みんなで決めることは別に良いことじゃない。
僕はこの前のエントリーで、安保に関するデモを批判した。
そのことに関して一つ補足しておきたいのだが、僕はデモそのものを止めろと言いたかったわけではない。
柄谷行人が言うようにデモが起きれば、それはこの国がデモをできる国になるということを意味する。
デモもできない国というのはけっこう異常な国だ。
僕が言いたかったことは、デモをやるだけで満足するな、ということに尽きる。
デモというのは選挙の外の枠組みだ。
公式に認められた政治参加の枠組みではないし、時として暴力的な運動となり法律の枠も越えてしまう。
だからといって、デモは悪だ!と断じることには違和感がある。
「民主主義で決めたことを踏みにじるデモは悪だ!」という意見は嫌いだ。
この意見の根底には「みんなで決めたことは正しい」という誤った認識がある。
(ここでの「正しい」は「良い結果をもたらす」と解釈しよう)
単刀直入にいっていまえば、みんなで決めたことが正しいとは限らない。
というか、基本的にあまり正しくない。
その最たる例は、先の大戦だろう。
選挙権が制限されていたとはいえ、あれだって一応「みんなで決めたこと」だ。
いくらバラマキと言われ、国庫が危なくなるとしても給付金をだすことを公約にすれば支持率は上がるだろうし、
どれだけパフォーマンスだといわれたところで、芸能人が選挙に出れば当選する。
「大衆が昔に比べて馬鹿になった」といわれることが最近多いが、そんなことはない。
大衆というものはいつだってそんなものだ。
そのポピュリズムを排除するために導入した陶片追放(選挙)でさえ、誤った情報に踊らされた大衆がアテネの功労者を追放したりした。
言わずもがな、人間はずっとこんなことを繰り返している。
そして僕もたぶんそんな大衆の中の一人だ。
民主主義というのはあくまで皆が納得するためのもので、必ずしも正しい答えを導き出すためのものではないと僕は思う。
みんなで決めて、「みんなで責任を負おうよ」という考え方ではないか。
理論上は、人はその失敗から学びより良い選択をできるようになるはずである。
しかし、人間という生き物自体が進化しているわけではないから学びを怠れば
人は同じ過ちを繰り返すことになる。
そして、人の命はせいぜい100年。
自分の学んだことの全てを伝えられるわけではない。
学んだとしても、その知識から得られた教訓が瞬間的に湧き上がる感情(嫉妬とか怒りとか)に勝てるとは限らない。
人間とは本当に”だめな”生き物なのだと思う。
そうはいっても人間に生まれてしまったものはしょうがないし、
僕はそういうどうしようもなくダメな一面が好きでもある。
芸術なんかはそういうどうしようもない一面の発露と考えても良いだろう。
僕らは生きていく上で、人間の普遍的な一面と向き合い続けなければならない。
民主主義もきっと長い間練られ続けてきたそういう思考の一つの答えだ。
なんらかの判断を下せば、必ず誰かが不利益を被る。
だから、ある判断が正しいかどうかはなかなか判断できないし、不満が噴出する。
ならば、判断が正しいかはわからないけど、一番不満が少なくなり、不満を感じたとしても
納得はできるような制度を構築しようというのが民主主義ではないか。
うまくいけば皆のおかげ、失敗すればみんなのせい。
あくまで民主主義も不完全な制度だ。
だからこそデモが存在してもいいと僕は思う。
今あるルールに固執していると、見えてこないものもある。