なすの日記

思考を散歩させるための場所

コトバノゲンカイ

言葉とはつくづく難しい道具だと思う。

僕たちが他人に何かを伝えようとする場合、使える方法はいろいろあるけれど

最も正確に伝達できて、かつ常に使えるのは言葉くらいのものだろう。

言葉がなければ今の人間の発展はなかったはずだ。

試しにそれぞれ共通の言語を持たない人たちがコミュニケーションを試みる様を想像してみる。(お互い英語を一切知らない日本人とロシア人とかを想像してみるといい)

お互いどれだけ高い知能を持って入れも、使える手段はせいぜいボディランゲージくらいで、伝えられる内容といえば「トイレに行きたい」とか「腹が減った」ぐらいのものだろう。

これだけでは人間の組織化や経済の発展は望めない。

というわけで今の人類は言葉を当たり前のように使い生活している。

読み書きができない人間はまだ地球上に多くいるが、体系的な言語そのものを持たない(「うー」とか「あー」だけで意思疎通を図るような)民族は存在しない。

 

音声や動画を伝えるメディアが発明されて僕らの言葉の使用頻度が下がったかといえば、そんな意見に賛同する人もいないだろう。

とにかく僕らは言葉に重度に依存している。

だからこそ、言葉は万能な道具だと思い込んでしまう。

 

 

或いは、言葉で説明できないことに対して無関心になってしまう。

 

 

僕は、言葉の役割は下の図で示したように、心で感じたことを切り取るものだと思っている。

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図のように思っていることの多くを切り取れる人は言葉の使い方がうまい人で、

多くの人は本当にわずかな部分しか切り取ることができない。

言葉は木でできた四角い枠のようなもので、後からその枠を丸にしたりすることはできない。

(ほとんどの場合)「きれい」という言葉で汚さを表すことができないように。

思ったことを正確に言い表そうとすればするほど、言葉は長ったらしくなる。

現に僕は一つのことを説明するためにこうしてだらだら文章を書き綴っている。

その最たる例は学術論文だろう。

結論だけを読めば、「AはBだ」としか言っていないのにそこに至るまで壮大な言葉の羅列がなされることになる。

小説なんかも、ある感情の動きなどを説明するためだけに膨大な言葉を用い、一冊の本になる。

そもそも小説が何を描こうとしているかは「感情の動き」だの「説明」だのというつまらない言葉だけで表せるものではないし、それこそ何冊でも本が書けてしまう。

 

現代のように凄まじい言葉の氾濫を目にしていると、人間は言葉で表せないものはないと過信しているのではないかという気がしてくる。

言葉の限界に無自覚な人間は、言葉を尽くしてできる限り正確に自分の見たこと感じたことを表現するよう努力するよりも、安易な言葉で手短に説明しようとする。

そういう人間の前では、どんな景色も「きれい」だけで表されてしまうし、

「どれだけきれいか」を丁寧に説明されても、聞く側の頭の中では「きれい」で処理されてしまう。

長い説明からその言葉が表しているものを想像する力は失われてしまう。

感情の起伏を「楽しい」とか「悲しい」とか「つまらない」とか、そういう便利な言葉だけで表現し自分の思いを伝える努力を怠り、「楽しい」という言葉から1パターンだけの「楽しい」しか想像できなくなると、自分が苦しい思いをすることになる。

 

心の中のもやもやしたものを表現する術を持たなければそのもやもやは解消されず、それはいつかネガティブな感情に変わる。

表現する術は言葉でなくてもいい。

言葉で表すことができないものがありそのことからくる文字通り「言い知れぬ」フラストレーションがあるからこそ、人は言葉があるにも関わらず絵を描き、踊り、歌う。

それが芸術という非合理的な存在の一つの側面だと思う。

言葉には限界があるという自覚、限界を知ったうえで言葉を尽くして何かを伝えようとする努力、そして言葉以外のもので表現されうることがあるという理解、言葉の背後への想像力。

これらを持てない人間は、言葉という記号から記号以上の意味を見いだせない機械と同じだ。

 

思い通りにならず、他人に完璧に伝えることもできない「感情」へのリスペクトを、どれだけ合理的な世の中になっても忘れないようにしたい。

 

 

はかり

デンマークに来て3か月とちょっと。

日に日に短くなる日照時間とレポート提出の残り時間の中で憂鬱感を深めている僕だが、久しぶりに文章を書いてみる。

 

こっちに来て刺激を受けたことはいろいろあるが、その中でも最も驚いたのは

デンマーク人の労働時間だ。

僕は10階に住んでいるので向かいのオフィスビルの様子が完全に丸見えなのだが、

基本的に17時にはビルから人が消える。

というか、これを書きながら窓からビルを見ると16時にも関わらず昼間の4分の1くらいしか人がいない。

電車が最も混むのは16時頃なので、みんなその時間に退勤するのだろう。

ちなみに、僕の部屋から見えるオフィスビルはかなり有名なグローバル企業が中心に入居しているビルなので恐らく仕事がなくて暇なわけではない(と思う)

 

大学のオフィスは月水金の12時~15時しか空いていない。

本当に他の時間は何をやってるんだという感じだが、それでも世の中回っている。

 

デンマークに来る前から思っていたけど、日本人みたいに頑張って仕事をしなくても世の中ちゃんと回っていく。

そして、給料はそんなに高くないけど時間はたくさんある、みたいなライフスタイルで幸せを感じられる人はたくさんいるはずだと思う。

 

「東大生は悟りから遠い人が多いですね」MBA僧侶・松本紹圭氏が語る! | UmeeT

 

上の記事でお坊さんが「東大生は目の前にニンジンをぶら下げて頑張る馬みたいだ」と言っているけど、日本人のある層はみんなこういう感じだと思う。

ネットメディアには学生起業家やエリート会社員の英雄譚ばかりが取り上げられるし、

国家は「一億総活躍」とか言うし、

自分も何か頑張らなきゃ!という気持ちを煽られる。

努力を煽られる、というよりは理想とされる姿が画一化しているのかもしれない。

 

僕らが大学から社会へ出るまでの過程は、自分の望む社会的イメージ獲得のための闘争のようなものだ。

社会的イメージという言葉を簡単にすれば、他人から尊敬される仕事、ということになろうか。

しかし、個人的にはここで使われる尊敬という言葉は「羨望」とか「嫉妬」といった方がしっくりくる気がする。

他人から嫉妬されるような地位、自分を見た他人が劣等感を感じるような地位。

なんでこうなるかというと、多くの人が同じ物差しで価値を計る状況があるからだと思う。

基本的には世の中、上には上がいるので同じ物差しで人の成功度合いを計ると常に自分は誰かの下になってしまう。

しかし、それではこの世で幸せなのはビルゲイツやザッカ―バーグだけという話になってしまう。

それぞれが違う尺度を持ち、他人の物差しにはとやかく言わないという状況を作らないと

どれだけ身を削って頑張っても上には上がいて、いつも劣等感を感じることになる。

学校で教えられるべきは、上に登る方法ではなく、自分の物差しの作り方だろう。

 

僕が大学に入ったころは、何となく「意識の高い人」は批判される傾向にあったのだけど

紀里谷和明監督インタビュー「日本は末期だ。頑張る学生が笑われている。」 | co-media

こんな記事も最近よく見かけるようになった。

 

僕のここまでの書き方だとバリバリ働く人批判のように見えるかもしれないけど、

バリバリやりたい人はバリバリやって世の中を思う存分引っ張って思う存分稼いでくれ

ということであって特定の態度を批判するものではない。

 

さっきの物差しの話に戻ると、自分で作った価値観に忠実に生きていくにはその価値観への信頼が必要で、結局その信頼とは自己愛・自信になるのだと思う。

自己愛や自信というのはうぬぼれで、みんなが「自分大好き俺はなんだってできる状態」になればみんなバンドマンやパイロットや野球選手を目指すじゃないかそれじゃ世の中回らないじゃないかという類の意見はナンセンスだ。

それは自己愛・自信という言葉から「俺にできないことはねえ」的な力強く威圧的でヤンキーっぽいイメージを勝手に想起しているだけで、別の自己愛の持ち方はいくらでも種類があるはずだ。

 

しかし、「自分のことを愛しましょう!!」と言ってしまうと少々胡散臭い感じになるし何か違う気がする。

自分の物差しを信頼するということは、裏を返せば自分の価値基準に満たない部分を全部ぶっ壊して基準に適合する物を作る覚悟を持つということでもある。

今の自分の全てを正しいと思うのは自己愛ではない。

 

なんで労働時間の話からこんな話になったのかは不明だが

「俺は俺で勝手にやるので君も勝手にやってくれ、本当に困ったら助けてあげるから」

という感じの態度を持つことが大事なのかなーと。

大学は天国、社会に出てからは地獄。みたいな考え方が変わればいいなと思う。

 

留学に大和魂って必要ですか?

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留学に行く、となると「日本のことを勉強していったほうが良い」と言われる。

確かに実際に留学を始めてみると日本のことについて聞かれる。

結局、僕は大して日本のことを勉強しなかった。

日本のことって何だろう、と考えているうちに海外に出てしまった。

やっぱり一番聞かれることが多いのは日本のアニメや漫画について。

ドイツでは「ワンピース読んでた」と言ってしまったばかりに

「まじか!!じゃあ、ルフィのギアフォースについてどう思う!?」と聞かれ、あまりの連載の長さに辟易して途中で読むのをやめた僕は困ってしまった。

(質問された時はオクトーバーフェストの会場で、聞いてきた彼は別の友達に絡まれたので答えずに済んだ。)

海外に出るにあたって日本の何を勉強すればいいのだろう。

能や歌舞伎、茶道について一通り習ってから海外に出れば良いのだろうか。

それともドラゴンボールとワンピースを全巻読めばいいのだろうか。

でも、日本の伝統芸能って生活に結びついているとは言えないし、

アニメや漫画も興味がないから見てなかっただけなのに

なぜ海外に行くために馴染みのないものに手を出さないといけないのだろう。

それって不自然じゃないか、と僕はずっと思っていた。

 

 

少し話は変わるけど、

僕は常々、「大和魂」みたいなものを疑問に思っている。

それはべつにそういう言葉が「戦争を想起させる!」というような政治的理由からではない。

今まで、日本人に囲まれ自分を相対化して見る機会のなかった人間が「日本人の心」とか言っても

それは自分の持つ限られた情報、あるいはメディアによって恣意的に流された情報から構築された日本のイメージとの海外のイメージを比較して形作られるものにすぎない。

日本人が「大和魂」とか「日本人の心」というものを抱いて海外で生活したりビジネスをしよう

というのは、「僕はこういう人間でーす!!」という主張を振りまいているようにしか見えない。

 

日本的なものとして「おもてなし」とよく言われるけど、海外の人におもてなしの精神がないとは思えない。

海外だってお金を払えばちゃんとしたサービスを受けられるし、彼らは彼らなりのサービス精神を持って動いている。

とあるサイトによれば日本のおもてなしは対価を求めずに期待以上のサービスを提供することだそうだが、それって単純に働く人のやる気を搾取して賃金以上のサービスを提供させてるだけの気もする…)

 

歌舞伎からアニメといった日本の文化やおもてなしのような日本的精神を学んでも

それは結局だれかの受け売りでしかないと思う。

付け焼き刃の知識はすぐにボロが出る。

海外の友達に日本文化について聞かれて、知らなかったのなら一緒に調べればいいんじゃないか。

「歌舞伎とか能とか一般的ではないよ」と言えばいいし、「日本人全員がワンピース読んでるわけじゃないよ」と言えばいいんじゃないだろうか。

それはそれで正しい日本の姿だ。

広告会社の陰謀だ!!とまでは言わないにしても、自分以外の誰かが作り上げたぎこちない日本のイメージを

慌てて身につける必要はないと思う。

日本で流通している「海外の人が日本に持つイメージ」と「日本人が日本人に持つイメージ」は、自分で自分を外から見たことがない以上、あくまで二次情報から作り上げられた虚構の世界でしかない。

自分で作り上げた虚構の世界を相手に押し付けたって、それを理解してくれるはずがない。

皮肉だけれど、日本的なものという意識を日常の中で形成できないのが日本の特徴のような気がする。

多くの国は色んな人種の人が街を歩いているし、ヨーロッパなんかは国が地続きだから

常に外国人と接触している。

そんな場所では自分の国に対する意識が強く生まれ、自分の国を相対化する意識が生まれやすいのだと思う。

 

海外から帰ってきて、日本のことを学ぶことに意欲的になる人を見かけるが、僕はそれがけっこう正しい姿だと思う。

自分のくらす国がどう見られているかをリアルに感じ、他者が自分について持つイメージをより詳しく知りたいと思うのは当然のように思う。

 

 

なにより、日本でも海外でも「大和魂」なんてものを持つよりはまず「人として何が正しいか」という発想を持った方がいい。

あえて名前をつけずとも、ゲストが来たら温かく迎えるのは当たり前だし、困っている人がいたら助けるのは同じだ(その迎え方や助け方の違いで誤解は生まれるかもしれないけれど)。

自分が人として正しいと思うことをして、もしそれが誤解を生んだなら説明すればいい。

そして謝って次から別のやり方をすればいいだけじゃないのか。

人として誠実に向き合えば相手は「あの日本人はいいやつだ」となると思う。

 

あえて海外に出てきたのは自分の中の何かを守るためじゃない。

逆に何かを変えたいと思い、未知なるものを求めて旅立つ人が多いと思う。

だったら、さっさと大和魂なんて捨てて新しい環境に溶け込めばいい。

誰かが「大和魂」と呼んだつまらないプライドを壊して壊して壊して、

それでも壊せないものを見つけたなら、それが本当の大和魂だろう。

 

 

放置の倫理 ー多様性を保証するには?ー

最近、下記のような記事が大きな反響を呼んでいる。

dot.asahi.com

実態は、「炎上した」のほうが正しい。

まあこのタイトルを見れば「いやいや、高校生のうちに恋愛したいでしょ!」とか「こういう教育が精神的に貧しくて社会で使えない東大生を育てるんだ!」みたいな反論が湧くことは予想できるし、実際になされた反論もそのようなものだった。

ここで考えたいのは、この母親の言っていることが正しいかどうかではない。

そもそも一個人の意見が正しいか否かというのは、勝手に情報の受け取り手が判断すればいいことだ。

ましてや東大理三を目指す子供の親なんてものすごく少ないのだからほとんどの人にとってどうでもいい情報ではないのか。

にもかかわらず、なぜこの記事は炎上したのか。

それは多くの人がSNSというツールを使う中で、あえて自分の意見を述べることを選択しているからだ。

逆に言えば、例え気に入らない意見があったとしても「放置する」という選択肢を取らない人が一定数いるということをこの炎上案件は示している。

この傾向はSNS特有の炎上につきものだ。

嫌なら見なければいいのに、わざわざ嫌いな芸能人のブログに誹謗中傷を書き込んだりする人がいるのも一つの例だ。

 

なぜわざわざ人を攻撃するのか、という疑問は今回は置いておいて

このような炎上が多様性や自由にどう影響するのか考えたい。

なんらかの言動が炎上した場合、その当事者は謝罪や発言の撤回を求められることになる。

騒ぎになれば炎上された本人、そしてそれを見ていた人々が萎縮する。

その結果、自由に行動することは難しくなり、結局人から何も言われないようなことしかできなくなる。

ここで、僕が言いたいのは「炎上が自由を奪う」という陳腐な意見ではなく、

多様性や自由を担保するのは「放置」だ』ということだ。

 

当たり前のことだが、この世界には自分と意見の違う人間がたくさんいる。

極論を言えば、人間は一人一人異なる存在なので全員違う意見を持っていることになる。

では、そのような世界で多様性を保証するとはどういうことなのか。

「相手のことを理解しようと試み、他者を尊重すること」というイメージを持つかもしれないが、

それは必ずしも正しくない。

自分と違う人間の気持ちを理解したりさらにそれを尊重したりできるのはそれこそ聖人だけだと思う。

むしろ、他人の気持ちがわかるなんていうのは傲慢ですらあると思う。

例えば、多様性の問題としてセクシュアルマイノリティーがよく取り上げられるが、

僕はその人たちの気持ちを完璧に理解した上で尊重することなんてできない。

でも、「共感できない」は「認めない」ではないということを覚えておいてもらいたい。

「君たちのこと理解はできないけど、君たちが生きたいようにいきればいいんじゃない?」という心の持ち方は可能だ。

「あんたも勝手に生きていいから、俺も勝手に生きさせてくれ」という態度

つまり、「放置」だ。

自分とは全く違う意見を持っている人がいようと、他人の権利を侵さない限り相手の嗜好や考えに干渉しない。

多様性や自由を守るのはこういう態度だ。

 

しかし、自分と意見が違う人間を徹底的に攻撃しなければ気が済まない類の人間がいる。

そのような人たちからの攻撃からは、守られなければならない。

自分の権利が侵害されていないにもかかわらず、他人の権利を侵すのは過剰防衛だ。

 

多様性を求める態度は思想的にリベラルと呼ばれるものだと思うが、

日本のリベラルはあくまで「保守に対するリベラル」といった印象が強い。

安保法案に関する運動では、「デモに賛成しないのであれば反安倍政権の人でも攻撃する」という光景が見られた。

多様性を認めないその態度はリベラルには程遠い。

 

最初の記事に戻れば、「そういう意見の人もいる」というだけのことなのに

まるで自分が攻撃されているように感じたり、もっとタチが悪いのはある意見によって傷つく人々を”勝手に”想定して、その人たちが声をあげたわけでもないのに勝手に正義感を振りかざし他者を攻撃する人たちがいる。

本当に些細なことでも放置できない人がいるとい例として記事を挙げた。

 

 

勝手に生きたい人たちが声を上げるのは、勝手に生きることが許されなくなる状況だ。

「放置」とはいかなる状況においても相手に干渉しない、ということではない。

困っている人がいて、それを実際に目にしたなら助けなければならない。

それは「哀れみ」という言葉で表現されるべき感覚だ。

道端に倒れている人がいたらどれだけ嫌いなやつでも一応助けるみたいな感じだろうか。

LGBIの問題や難民の問題が具体例だ。

自由や平等の観念の基盤には人種や国籍、性別といった観点の前に「人間」という概念が存在する。

日本語の「人として」というやつだ。

人の生き方や考えを画一化しようとする試みはどこかで破綻するというのは歴史の教訓である。

だからこそ、ここ数百年の間に人間は多様性を認める方向に進んできた。

多様性を認めつつそれぞれの権利を守り義務を課していくにはできるだけ大きな括りが必要だ。

思想信条や国籍で括れば、その括りから漏れた人たちが必ず反発する。

そこで編み出されたのが「人間」という括りだ(奴隷のように人間であるにもかかわらず人間とされなかった場合もあるけれど)。

 

週刊誌の記事からとんでもなく大きなところに飛躍してしまったけれど、

まとめとしては「放置こそ多様性」ということで。

 

お金の話

お金は時間を買うためのものだ。

「買う」という言葉を使うとややこしくなるから

お金は時間を短縮するものだ

といったほうが良いかもしれない。

お金を持っていれば持っているほど時間を自分の自由にできる時間が増える。

普段徒歩で行く場所までお金を払ってタクシーでいけば、早く着くし車中で作業ができる。

 

もし人間の寿命が無限ならば、お金は生まれなかっただろう(もっともそんな仮定はほとんど無意味だけれど)。

難解な哲学的思想も時間さえかければ自分でも到達できるかもしれない。

かっこいい服も時間さえかければ自分で作れるかもしれない。

でも、人間には寿命があっていろんなものを生きているうちに欲しいと願う。

お金をかけて本を買うことで他人が時間をかけて編み出した思想にアクセスできる。

お金をかけて服を買うことで他人が時間をかけて作った服を一瞬で自分のものにできる。

このエントリーの結論は乱暴に言えば、お金って大事だよねっていう話。

 

大学の授業が午前中で終わって午後は暇になってしまった時、あなたならどうするだろうか。

選択肢は無数にあるけれど、ほとんどの場合お金がなければ大学に残るか家に帰るしかない。

「そういう時間も大切だ!」と言われればそれまでかもしれないが

自分がすでに持っているリソースだけを使って時間を豊かにするのはけっこう難しい。

家にあるのは本、ゲーム、テレビ、パソコン…

どうしてもそういうものに触れたい日はあるしそれはそれでいいと思うけど

基本的には「やることがなくて」「ひまつぶしのために」テレビやらパソコンやらに触れることになるのがオチだ。

でも、お金があれば自分の手持ちの時間の使い方は全く別の可能性を持つことになる。

まず電車で定期圏外へ移動できる。

美術館に行くのも良いし、イベントに参加して知らない人と会うこともできるだろう。

あまりに当たり前のことを書いてしまって自分でもびっくりしているけれど

もっと大きな空き時間、長期休暇なんかでもそれは同じだ。

たった1週間の休みでもお金があれば海外にだっていける。

お金がなければ家でじっとしているしかない。

好き嫌いの問題はあっても、どっちが自分にとって有益かは一目瞭然だ。

 

ここまで書いてなんとなくわかったもらえたと思うけれど

お金は所有するものを増やすためのものではない。

いや、そのために使うのは別にいいんだけどそうじゃない見方もできるんじゃない?という話。

 

その一方で、お金をもらうためには時間が必要だ。

何かのために時間を割いて、自分の持っているものを相手に提供する必要がある。

自分の持っているものの価値が高いほど、短時間でお金を稼ぐことができる。

ところが、価値の高いものを生み出す能力を磨くにはまた時間が必要になる。

伝統工芸はその好例だろう。

一度お金が手に入るとそのお金を使ってお金を生み出すことができる。

「投資」というやつだ。

イデアが種で、お金は肥料みたいなもんだろうか。

 

でも、先に書いたように価値の高いものを生みだす能力を手に入れるには時間が必要で、その時間を短縮するのにもお金が必要だ(学校に通うのにはお金がかかるでしょ)。

だから結局同じ時間の使い方をしていると、多く元手を持っているやつが早く能力を手に入れる。

言い方を変えれば、元手相応の能力しか手に入らない。

逆に言えば、元手が少なくても人と違う時間の使い方をすれば価値を生み出せる可能性が高まる。

「人と同じ時間の使い方」を具体的に言い換えると「楽な方」、つまりほっとくと人間そうなるよねっていう方向になるだろうか(例えば一番楽なのは寝ること)。

 

 

少し話は変わるけれど、もう一つお金には面倒くさい性質があって

お金をあげる側ともらう側にはほとんどの場合、上下関係が生じてしまう。

もちろんあげる方が上、もらう方が下になる。

だからお金をくれる会社の言うことはできるだけ聞かなければならない。

反抗すればお金がもらえなくなるだけだ。(もちろん自分の能力が会社にお金をもたらしていて代替不可能なら事情は変わるけど、それは実質的にその社員がお金を会社に与える側に立っているということなので事情は変わらない。)

奨学金補助金の類は、その点が難しい。

僕自身、留学に際して奨学金をもらっているけれど、その奨学金をもらっている時点でお金を与える側(僕の場合は国)の意向に逆らうことはできない。

組織が大きくなるほど組織内で働く人は責任を取りたくないので、お金の提供に関するルールは厳しくなるし、その結果生まれるものは凡庸なものばかりだ。

かといって、お金がなければ物事が進まない

(僕の場合なら、奨学金をもらわなければ留学できなかったかもしれないが、文科省が絶対に許さないようなぶっ飛んだ時間の使い方をすればそれを補えた可能性もある)。

 

気づけばこのエントリーはなんだか自分の考えを自分のために整理したメモになってしまったけれども、

「お金で買えない幸せがある」という言葉は、正しいかもしれないけれど何かやりたいことがあるなら、それを言い訳にしてはいけないと思う。。

不惑

勉強していると不思議な気持ちになることがある。

自分は何かをやるために勉強しているのではなく、何かをやらないでおくために勉強してるんじゃないかと。

歳をとっていろんな知識や経験を積むうちに、そういう積み上げたものが

自分の言い訳のために使われていくの自覚したときは悲しい気持ちになる。

そんなつもりで僕は勉強してきたんじゃない。

そんなことのために膨大な時間を勉強に捧げてきたわけじゃない。

具体的にやりたいことがあるわけじゃない。

ただ、もっと良い暮らしをしたい。

それと、世の中がもっと良くなればいい。

それだけ。

でも、そのために具体的に何をすればいいのかわからない。

そりゃ目標が具体的じゃないんだから当たり前だ。

いつか自分は成功すると思いながら、時は過ぎていく。

何かをあきらめたような顔をして、誰からも褒められるような人生を送る自分の姿が眼に浮かぶ。

そういう言葉も、たくさんの「幸福な」大人をバカにしているようで心の中ですら呟けない。

頑張って働いて、家族を作って、それで十分なはずなのにそう思えない。

かといって、がむしゃらに走り出すこともできない僕は臆病者だ。

あらゆる思考力が、やらない理由を作り出すことに使われている気がする。

誰にも負けたくないけど努力はしたくなくて、そういうゆがんだ感情は空っぽのプライドを生んでしまった。

何を言われても全て分かっているかのような反応をしていれば、負けたことにはならない。

そんなことをしても何もならないのに。

たくさんの人をバカにして否定して、壮大な理想を掲げておけば自分が上に立てる。

そういう自分に気づいた時の絶望感たるや。

 

でも、僕は誰にも管理されたくないし消費もされたくない。

みんな、何を考えて生きているのだろう。

どこまで納得し、どこまで許容して、どこから許せなくなるのだろう。

 

ダメな留学経験者にならないために

留学に行く前、友達にこんなことを言われた。

「留学から帰ってきた人は、いろんなことに首を突っ込んでかき回すイメージがあるから、なすくんはそうならないでね」と。

留学といえば基本的に良いイメージを持たれるが、言われてみれば確かに「うざい留学経験者」というのは結構存在する。

例えば、とにかく日本を外国を比べるとか、帰国したらノリが外人になってるとか。

まあ、ほとんどのことは留学にいって舞い上がってるのだから周囲の人も寛容に見守ってほしいと思う。

しかし、何かにつけて外国の事例を持ち出して「これだから日本は~」みたいな発想だけを身につけてしまっては留学も逆効果になりかねない。

僕自身、まだ留学を始めてたった3週間だが、色んな事があまりに違うのですぐに日本と比べてしまう。

 

そこで、「だめな留学経験者」にならないために意識すべきことを考えてみた。

1 なんでもその国の特徴だと思わない。

 留学先ではすべてが新鮮である。文化や政治といった大きなことから買い物の仕方、乾杯の仕方のような小さなことまであらゆることが違う。

逆に言えば、少し変わったことがあると全てその国のせいにしてしまう可能性がある。

この前、デンマークで僕とは別の寮に住んでいる人が「シェアキッチンはみんな食器とか洗わないから使いたくないんだよねー」といっていた。

これは僕も感じていて、馬鹿な僕は「あー、外人って適当だからキッチンきれいにしないんだなー」と思ってしまった。

しかし、よく考えてみれば僕が日本で住んでいた寮でもキッチンはきれいとは言えなかった。

国民性の問題ではない、とは言い切れないが、「キッチン汚い問題」は日本人か外人かという問題ではなく、単にあらゆる共有スペースが抱えている問題なのである。

僕も含め、留学生は自分が「違う」と思ったことをその国の特徴として捉えてしまい、そして日本に帰って他人に話し、それは拡散していく。

「日本と違う!」と思っても、実は単純に会ったのが変なやつだったりその外国においてもレアなアクシデントだったりするわけだ。

それを「その国の特徴(例えば、僕ならデンマークの特徴)」と捉える前に、少し考えた方がいい。

 

2 海外において良いことが日本にとっても良いことだと思わない。

 

デンマークは自転車大国だ。自転車専用道路があり地下鉄もあるが基本的にはどこでも自転車で移動する。

自転車専用道路があるので歩行者や車にぶつかるといった危険はほとんどなく(みんな速すぎて怖いという問題はあるが)、交通費もかからないので「疲れる」こと以外はとても楽だ。

だから、なんとなく「日本も自転車専用道つくればいいのに」と思ってしまう。

もちろん、あるにこしたことはないのだが、日本は坂が多すぎるのでたぶんあってもデンマークほど自転車に乗らない。

ちょっとレベルの低すぎる例えだったけれど、要するに国の慣習みたいなのはその国の人達にとって合理的だったから残っているわけで、必ずしも比べられるものではない。

日本の制度に物申す前に少し考えるようにしたい。

 

3 ほとんどの留学生は留学先の国の悪い面を見る前に帰国する。

 これはもうタイトル通り。僕はデンマークという国が大好きで、滞在3週間にしてすでに住みたいと思っているのだけど、まだこの国の悪い面というのはぴんと来ていない。

この前会った日本語ペラペラのデンマーク人が「俺の叔父は一度も働いたことがないけどこの国は保障が手厚いからそれでも暮らせてしまう」とぶちぎれていた。

これも、一人の意見でしかないけれどきっと住んでいるといろんな悪い面が見えてしまうのだろう。

デンマークは実は結構保守的な国で、移民を追い返している。

世論を「移民受け入れ反対」に持っていくための広告を政府主導でうつらしい。

たぶん、デンマークで生まれていたら「なんでこの国は。。。」と思っていただろう。

1年という時間だけではその国の全てを知ることはできない。

ましてや、学生である。

学生生活なんてどこの国でやったって基本的に楽しいに決まっている。

 

4 お互い良いところがある。お互い悪いところがある。それだけ。

 これはどちらかというと留学経験のない人に向けたものかもしれない。

日本人が外国に行くといろんなものがかっこよく見える。

それは逆もしかり。

外国人が日本に行くといろんなものが"cool"に見えるはずだ。

特定の分野では優劣があるかもしれないが、全体で見ればお互い「良い面・悪い面」がある、ということでしかない。

相手の優れている面を見たからといって劣等感を感じる必要もないし、

相手の劣っている面を見たからといって優越感を感じるのも間違いだ。

なにをどうあがいても自分が日本人であることからは逃れられないのだから、

そのことに関して変なプライドとか劣等感を抱えてしまうのは厄介だ。

 

まだたった3週間しか留学してないのにまるで帰国したかのような内容で書いてしまった。

また、気づいたことがあれば更新したい。