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最近の自分は、ピリオドを打つ理由を探している気がする。
ただ、生かされている。
死んでいないだけ。
レールに乗っかり続けようとするのはしんどい。
かといって、レールから外れた先に何があるのだろう。
結局、レールから外れるというレールではないか。
「レールから外れた」というプライドと、そんな馬鹿を馬鹿みたいに尊敬する馬鹿からのわずかな称賛を支えに生きていくのは嫌だ。
プライドなんてものもない。
ただ、他人を馬鹿にして、上に立とうとする意欲があるだけ。
残念ながら、自分のそういう部分を嫌うだけの良心もわりと残っている。
気を張っていないと、どこまでも落ちていきそうな気もする。
ただ、なんのために気を張るのかは分からない。
大きな目的とか、そんなものがあるんじゃない。
ただ、落ちないようにしているだけ。
落ちないように頑張るのもわりと疲れる営みだ。
かといって、目的とか意義を信じて、前へ進むのも難しい。
簡単に目的や意図を信じ切れるはずがない。
簡単に、「他人の笑顔のために」とか「誰かの幸せのために」なんて言えない。
自分のやったことが本当に他人を幸せにしているのかなんて分からない。
誰かがどこかで不幸になるかもしれない。
そもそも、自分の実存すら曖昧にしか感じられない人間に、「他人の幸せ」なんて言葉を発する権利があるのか。
自分がいなくても世界が回っていくことを日々痛感する。
そもそも、「世界にとって不可欠な人」なんてこの世には未だかつて存在しなかったわけだが、
それでもその事実を改めて突き付けられるのは結構きつい。
誰が生きようと死のうと世界は回ってきたし、これからも回る。
他者にとって不可欠な人間になれないのなら、自分にとって自分が絶対的な存在になるしかない。
すなわち、圧倒的な自己肯定感。
そんなものがあればこんな文章は書いていないだろう。
どこかで起業して、3時間睡眠で高速PDCAを回し、一秒一秒圧倒的成長を遂げているだろう。
今の世の中に、自分のような優柔不断な人間の居場所はない。
全てが、すさまじいスピードで回っていて、あらゆることが意味があるとかないとかいう評価を受ける。
「意味がある」とか「意味がない」とかいうのは、言ってしまえば今後、価値を生むか生まないかに関する裁定だ。
ほとんどの価値は、金銭へと還元できる。
休学して行った留学での様々な体験について、「卒業が一年遅れたけど有意義な経験だね」なんていう他人の評価は、「一年卒業が遅れても、留学中の経験を生かせれば、君の生涯年収にはプラスに働くよ」と同義だというのはシニカルすぎるだろうか。
自分の行動は全て市場価値を高めるための活動だったような気がしてくる。
逆に言えば、それだけなんでも市場価値に還元される世の中だということだ。
自分の価値なんて測れるはずがないと思う。
その考えを自己肯定感につなげられないのなら、自己否定に向かうしかない。
自分に付けられた値段を受け入れるか、誰に批判されようとも自分を疑わない強さを持つのか、誰かに批判されたり低い値段を付けられる前に予め自分の全てを否定するのか。
このどれかの態度をとることになる。
評価を付けられることにも評価を付けられないことにも耐えられない。
他人が他人を評価できるはずがないと思いながら、評価抜きで自立しても良いと思えるほどの価値を自分に感じない。
今は、そういう発想に目を瞑り、ごまかしながら生きている。
いつまでごまかせるのかは分からないし、ずっとごまかしていける気もする。
努力とは、何もない自分が生きていく理由を増やすためのものだと思う。
他人に還元できる能力を磨くために努力し、それを市場価値という形で確認し、再び努力する。
だから、努力を怠ってきた人間が自分に価値を感じられず、空っぽになるのは当然なのだ。
そんな空虚さに耐えきれなくなるのも時間の問題だ。
もう少しだけ、自分にチャンスを与えてみることとしよう。