言葉を置き去りにして
自分は、強く言葉に束縛された人間だと思う。
何をするにしても言葉にしてみないと気が済まない。
「脳内会話」で済むこともあれば、口にだしたり書いてみたりしないと落ち着かないことも多い。
どこかへ行くときも「よし、大学へ行こう」と、頭のなかで言葉にしている。
一方で、言葉にした瞬間、伝えたい内容は自分にとって唯一特別なものから、他人も理解できるありふれたものに変わってしまう。
街頭でちょうどいいタイミングでティッシュをもらっても、
一浪して第一志望の大学に受かっても
同じ「うれしい」という言葉になってしまう。
いかに自分が今までの人生の中で、その瞬間を特別なものに感じたか伝えようとすれば、「うれしい」に至った状況や様子をどんどん付け足していくわけだが、言葉は長くなっていく。
心の底から湧きあがる感情は、一瞬のできごとで、
それを説明するための言葉の長ったらしさには段々幻滅を覚えていく。
特別な感情を伝えるためには、特別な語彙があるわけだが、
語彙の希少さが上がるほど、他人には理解してもらえなくなる可能性が上がる。
こうして、自分にとって唯一特別な感覚は、言葉にした瞬間に色を失う。
一方で、現代はあらゆる事象を言葉にし、あらゆる情報を言葉で得ようとする時代だと思う。
動画や画像でのコミュニケーションが流行っていると言われているけれど、
授業からSNSまで、情報伝達の基本は言葉だし、
映像や画像の中にも言葉がたくさん含まれている。
純粋に映像や音声だけのコミュニケーションは少ない。
絶対数は増えているにしても、それを圧倒的に上回るスピードでテキストや音声による言語コミュニケーションが氾濫しつつある。
だから、頭の中は常に言葉であふれてしまう。
特に他人に伝える必要がないことでさえ、脳内で言葉にしてしまう。
この癖は、自分という世界に一人しかいない存在を考えるときに結構深刻な問題を引き起こすのではないかと思う。
自分という存在は、今も昔もここにいる自分ひとりだけで、自分の感情や思考を100%他人と共有することはできない(できたとしても、確認する術がない)。
だからこそ、どのような状況で何を感じ、その後どのように行動しようと、勝手なわけだが、体験を安易に言葉にすると、その体験は誰にでも理解可能な汎用品になってしまう。
汎用品としての自分に存在意義を感じるのは難しい。
この世界の中で、特別でもなんでもない自分など存在しなくても良いような気がする。
言葉は一つの枠のようなものだ。
枠があるからこそ、たくさんの人に理解してもらえる。
一方で、本当に独創的なものは枠に収まらないはずだ。
言葉では説明できない何か。
あるいは、新しい言葉・枠を作って説明せざるをえないような何か。
本当は、誰の胸にもそういう感覚があるのではないか。
全てを他人に分かるように説明しなければならないというプレッシャー、あるいは自分の全てを他人に理解してほしいという実現不可能な欲望のせいで、自分だけの特別な体験や感情が、ネット上に無数に転がっているようなストーリー、誰かが既に生きてしまっているストーリーに成り下がってしまっているのではないか。
例え、言葉にした時に、似たような感情・体験・人生がデータベース上に存在していようと、その感情・体験・人生は今、この場で確かな実感を持って生きている自分だけのものだ。
逆に言えば、自分が感じたことくらいしか、確かなものなんて存在しない。
お互いが100%完全に理解することなんてできないのだから、他人に何かを伝えるための言葉は常に不完全で頼りないツールだ。
もちろん、言葉はいらないとか、感情は歌や踊りで表現しろ!なんてことを言っているのではない。
ただ、本来、自分の体験はあらゆる表現ツールを置き去りにすべきなのだ。
いかなる手段を使ったとしても、伝えきれるものではないし、もはや伝わらなくてもいい。
それでも、自分の中に湧きおこった何かを外に出さずにはいられない。
言葉が世の中に氾濫すればするほど、意識に浸透した言葉は感情を飼いならす。
湧き上がる衝動を言葉が蓋をする。
そんな時代だからこそ、言葉という檻を打ち破り、言葉を置き去りにした表現のできる人間が必要とされている。
どこかで聞いたことがあるような、誰にでも「分かる」と言われてしまうようなありふれた言葉、説明を超えて、
底から湧きあがるような「叫び」を。