なすの日記

思考を散歩させるための場所

偶然性の中で

意図したことが、意図した通りになる時もあれば、意図しない結果に終わる時もある。

どちらにしても、意図ってなんなのだろうと思う。

こうありたい。

こうすべきだ。

こっちの方が良い。

何らかのベクトルを持って、前に進もうとするけれど、それが実現するかは分からない。

「自分の努力が足りないのかもしれない。」

「認識が甘かったのかもしれない。」

「あとこれだけ頑張れば次は大丈夫。」

きっとこんな調子で死ぬまで意図をもって頑張るんだろう。

明るい未来を描き、その実現のために前進し続けるのだろう。

それは幸せな人生だ。

たくさんの人に出会って、たくさん成果を残して、文句のつけようの無い人生だ。

 

しかし、時には思い通りにいかないときもある。

それが、単なる運の悪さというより自分の怠惰さや甘さが原因の失敗だという場合もこの先たくさんあるだろう。

自分の将来像を描いたり、その実現のためにすべきことを並べたり、過去を反省してみたり。

 

そんな無限に続くかに思われるカイゼンの連続に、疲弊してしまう瞬間があると最近気づいた。

もっと良い人間になりたいし、成長したいというのは偽りのない心情だ。

そのためのやる気が無限に湧いてくる人も中にはいる。

でも、僕は違う。

意図を持っては失っての繰り返し。

自分の過去の中から、前に進むための材料というか燃料みたいなもの(まあ、モチベーションか)を必死で探してみるものの、その探すという行為自体が疲れるのだ。

 

しかし、前に向かうベクトルみたいなものを自分の中に感じられないとき、ひどく自分が無価値でどうしようもない空っぽのように感じられてならない。

みんな、前に進んでいる。

何かを目指している。

良くなっている。

それなのに自分は。

一生甘えて暮らしたいわけでも、楽をしたいわけでもない。

ただ、いつどんな瞬間も向上心を求める自分には辟易する。

一方で、そこで頑張れない自分を見せつけられるのも苦しい。

 

ずっと、「どうしたいの?」と他人にも自分にも問われ続けている。

心の中の汚い押入れをまさぐって、苦し紛れに意志を取り出す。

いつの間にか、取り出したものを奇麗にして他人や自分に見せる技術が身についた。

それが、本当にきれいなものなのか、本当は汚いものを取り繕っただけなのかもわからない。

全部が嘘なわけではないし、全部が真実でもない。

嘘が真実になることもあれば、その逆もある。

口にだしたこと、文字にしたこと、行動したこと。

その全てを本当だとか、あるいは、嘘だとか言い切って信じ切ってしまいたい暴力的な衝動も、奥底にあるような気がするけれど、それは分かっていても覗いちゃいけない。

 

ちょっと話は変わる。

こんなに意図とか夢とか目標とかが大切にされるようになったのは、人間が沢山のルールを築き上げて、偶然という要素を可能な限り排除してきたからだと思う。

人間は、偶然に耐えられない。

次の瞬間、地震が起きて自分や愛する人が死んでしまうことや、他人の気分で自分の運命が変わってしまうことに耐えられない。

しかし、自然は全て偶然からなるものだ。

そこに、石が落ちていたり木が生えていたり雨が降ったり大地震が起きたりすることに、メカニズムはあっても意図はない。

動物だって、会話したことはないからわからないけど、たぶん全て意図を持った行動というよりは反応しているに過ぎない。

人間もそうだと言われれば言い返せないけど、少なくとも自分では意志を持っていると思い込んでいるし、意図が実現できなければ気に入らない。

自分以外の存在が、何の意図もなくただそこに存在し、ただ事が起きるという現実が受け入れられない。

偶然なんて理不尽は許されないのだ。

全てのことは、意思と努力によって達成可能であり、実現できなかったならば、何かが足りなかったということ。

全てが自分の責任になる。

だからこそ、もっと良くなれるのだ(「良い」にも色々あるが)。

 

でも、本当にそうかな。

たぶん違う。

生れ落ちる場所を子供は選べないし、親も子供を選べない。

全部偶然。

人間は、他者から隔絶した状態で人間として存在することはできないわけだが、そのコミュニケーションツールである言葉は悲しいくらい不完全だ。

たぶんどれだけ頑張っても伝えたいことの1%くらいしか伝わらない。

だいたい100%伝わったとしても、それは確認しようのないことだ。

たぶん、僕が書いたこの文章もタンポポの種みたいに、どこにどういう形で芽を出すのか、あるいは出さないのかも分からない。

他の表現ツールも同じ。

結局、人間も偶然性の中にあるのだ。

意図なんてものは、伝えようとして外に出した瞬間に、圧倒的な誤配の可能性に晒され続ける。

そんな不安定な現実を直視すれば、気が狂ってしまいそうになる。

何一つ確実でない現実から離れる手段を、それぞれの人間は一つだけ持っていて一度だけ使うことができるけれど、できれば使いたくないし使ってほしくもない。

 

ただ、その不確実な現実を受け入れられる姿勢を持った人間を想定したとき、そこに強さを感じるのは僕だけだろうか。

頼りない現実と頼りない自分に甘えてはいけないけれど、甘えなかったところでどうにかなるほど甘くないときもある(めんどくさい表現!)。

ある種の大きな諦念と、「それでも」といってたまには前を向く姿勢。

持とうと思って持つのではなく、そこに存在していて、たまに誰かが思い出させてくれるくらいがちょうどいい。