僕らの世代
あなたにとって仕事とは何だろうか。
お金を稼ぐための手段か、はたまた自己実現の手段か。
2016年になった今でも、仕事はつらいものだというイメージは変わっていないのかもしれない。
同期が就活するのをみて強くそう感じる。
実際、社会に出て働くということがどの程度過酷なのか僕にはまだわからない。
おそらく、働いたら働いたで楽しいことも沢山あるだろう。
それでも、「仕事とは自分の中の何かを犠牲にするもの」であり続けているのではないか。
少なくとも、仕事を探す際には、自分の何を犠牲にできるのか問われている。
あるいは、学生のほうが、仕事を得るために何かを犠牲にすべきだという考えにとらわれて、先回りしているのかもしてない。
なぜ、僕たちは人生の節目で憂鬱にならねばならないのだろう。
学生という守られる一方でたくさんの制限のついた立場から、自分の力で未来を切り開く新たなステージに移行するのだから、その船出をもっと高揚感に満ちたものにできないのだろうか。
考えてみれば、どこを見渡しても不安に満ちている。
おそらく、日本では、あらゆる選択が「不安」を原動力としてなされているのではないか。
あるいは、世界も同じ状況なのかもしれない。
良い大学に行けないかもしれないという不安
良い就職先を見つけられないかもしれないという不安
昇進できないかもしてないという不安
家族を養育出来なくなるかもしてないという不安
とめどない不安に憑りつかれるように、人生の選択を下さざるを得ない状況があるのではないか。
いや、人生の選択だけではない。
ささいな選択にも、不安が関わっている。
資格をとったほうがいい
英語をやったほうがいい
陳腐な表現を借りれば、「したい」ではなく「したほうがいい」「しないとやばい」で全てが回っていく。
僕たちが、ものを考えるスピードよりも圧倒的に早いスピードで世界が回り、選択を迫られる。
自分が何をやりたくて、何に興味があって、何を愛していて、何を美しいと感じて、何を悲しいと感じるのか、
そんなことを考える時間をない。
そんなことを考える時間は無駄だ。
どれだけ天気が良くても、どれだけ美しい景色を発見しても、気になる小道を見つけても、学校や会社に向かい、社会の歯車とならねばならない。
歯車となる感覚こそが幸福であると教え込まれてきたのが今までの時代だったのかもしれない。
それは、多くの人が力を合わせ何か一つのことを成し遂げるためだと言われれば必ずしも悪いことではない。
しかし、幸か不幸か僕らの世代は、自由や個性を尊重することが大切だという価値観を浴びて育ってきた。
それは、既存の価値観を混ざり合い、なりたい自分と現実の自分との間にギャップを生み、そのことが常に僕らの世代を疲弊させてきた。
これからを生きるのは僕らの世代だ。
既存の価値観に安易に迎合すれば、なにも変わらない。
大人に、そして老人になった僕らは、新たな世代に対して同じ仕打ちをするだろう。
そうなってはならない。
今の社会に安全圏から文句を言うだけではだめだ。
僕らはすぐに年を取り、違和感に鈍感になり、いろんなことをあきらめるようになり、従順になってしまう。
いつしか当事者ではなくなってしまう。
そうなる前に、自ら声をあげ、行動に移さなければならない。
どれだけ逆風が吹こうと、自分たちの世代としての態度・姿勢を示さなければ、後の世代も同じ苦しみを味わうことになるだろう。
堂々と、不安に満ちた今の社会を拒絶し、幸福を追求する姿勢をはっきりと肯定するべきではないか。
陰で文句を言うでもなく、世の中を一気にひっくり返そうとするでもなく、
ただ、現実を変えるための努力を積み重ねたい。