ただなんとなく、ただわけもなく
僕は「意味」という言葉が苦手だ。
「何で?」という質問は多くの場合、意味を問うていると思うのだけど
この質問をされるのもするのもあまり得意ではない。
得意ではないと言ってみたところで、今の社会で「意味」を問わずに生きていくことなど不可能だし、「意味などない!」といわれてしまっては何もできない。
「意味」というのは誰かに何かを説明するために存在するものともいえる。
他人と共に何か一つの作業をする際、絶対的な上下関係の中にあったりしない限り
なぜそれをしなければいけないのかを説明してやらなければ動けない。
他人と共に暮らすうえで「意味」を考え、それを言葉で説明するのは必須のスキルなのだ。
「他人」といったが、この他人には「自分という他人」も含まれる。
自分に大きな自信を持っていて常に感じたままに動く人もいない訳ではないが、多くの人は自分に対しても自分の取ろうとする行動の意味を説明しなければ気が済まない。
その点、意味という言葉は「理由」という言葉の類義語でもある。
しかし、「意味」や「理由」が言葉によって説明されるためのものであるならば、
この二つは、感覚の後に生まれてくる副次的なものでしかない。
つまり、先に感覚として「こうしたい」というのがあって、それを人に説明するために意味や理由が生まれてくるのではないか。
「〇〇したい」(「〇〇したくない」でもいいけれど)という感覚が先にある限り、意味や理由は最終的に「よって〇〇する」という結論に達する。
乱暴に言えば、意味や理由は結論ありきで後から導かれるもので、要するにどうにでもなってしまうものなのかもしれない。
意味や理由は必然的に言葉という形をとって現れる。
他人に通じる言葉という条件をかければ、自分のやりたいことの意味や理由を説明するために使える言葉はそうそう多くない。
使える言葉がそうそう多くないということは、その言葉たちによって説明できる意味や理由というのもそうそう多くはならない。
人間はひとりひとり違う人生を歩み、みな違う感覚を持って暮らしている。
一方で、言葉はできるだけ多くの人(少なくとも同じ共同体、文化圏に属する人)の間で意思疎通ができるよう、個人個人の差異を切り捨てたところに成立するものだ。
例えば夕日を見て湧き起こる感情を他者と共有するために「きれいだ」という言葉がある。
でも実際は、夕日を見た時に湧き上がる感情は人によって違うはずで、同じ夕日をみて泣く人、笑う人、呆然とする人がいる。
最大公約数的な性格をもつ言葉という道具で、自分を説明しつくすのは新たな言葉を生み出さない限り不可能なのだ(そして、新たな言葉を生み出してもそれが他人に通じなければそれは言葉とは言わない)。
少し話がそれたが、意味や理由というのは他人を動かすために必要なものという意識は忘れるべきではないだろう。
ただの道具であるはずの言葉によって自分を説明し尽せると誤解すると、「言葉で説明できる」程度の人間にしかなれない。
しかし、どこで何をするにも意味や理由を問われるのが現代だ。
他人と一緒に行動する上で意味や理由は欠かせないものであるのは分かっているけれど、
どこにいってもそれを問われるのには疲れてしまう。
もう少し、「ただなんとなく」「ただわけもなく」という答えが許容される場所が増えるといいなと思う