「○○はダメだ!」という思考停止
身の回りにある矛盾について考えると怒りを感じるに至ったりする。
サークルにいそしんで、学問に対して真摯でないように見える大学生を目にすると
「大学生なのになぜあそんでばかりなんだ」「大学は学問をするところだぞ」
「海外の学生は寝る間も惜しんで勉強しているらしい」「こんなんだから日本もよわくなりつつあるんだ」
「今の学生はダメだ!」
これは一つの例だけど、入学してすぐはこんな怒りにも似た思いを抱えていたこともあった。
この話だけでなく、「○○はダメだ!」という思いにいたることはよくある。
なんでこういう話をだしたかというと
最近、「○○はダメだ!」とだけ唱えるのは“思考停止”なんじゃないか
という思いを強くしたからだ。
別の言い方をすると、「○○はダメだ!」という主張が価値を持つ局面はあまりないのではないか、と思う。
「○○はダメだ!」という感情は即ち「否定」だ。
この回では論理的否定ではなく感情的否定に注目していきたい。
「○○はダメだ!」という否定の意見表明をしてしまう場面は多々ある。
自分と意見の合わない人を見つけたとき。
世の中の矛盾が自分や他の人にとって不利益をもたらすとき。
否定する対象は個人であったり国であったり
あるいは漠然とした概念であったりする。
では、なぜこういう否定的な感情が生まれるのだろう。
ある特定の個人や集団に対して否定の感情を持つ場合は
「俺はこいつらとは違う」というアイデンティティ形成の手段となっている可能性がある。
アイデンティティを極端に簡単に要約すれば「他人と違う」ということであり、
その感覚を得る最も容易な方法は「他者の否定」だ。
最初に述べた僕の体験談はまさにこれに該当する。
他人と一緒にされるのは嫌なのだが、自己を確立するための努力もしたくない。
そういう人のための安易な自己確立手段が「否定」なのである。
もちろん否定の全てがアイデンティティ形成のためにあるわけではない。
本当に現実に対して問題意識を感じ、何かを変えたいという場合もその現実をとりあえず「否定」する
でも、その問題をどう解決していいのかわからない場合、そのどうしようもない思いを否定の感情としてぶつけてしまう。
この状況は、自分が不快であることを言葉によって伝えられずに大声で泣く幼児に似ている。
もちろん、全ての人が目の前の問題に対して合理的な解決策を考案できるほどの思考力や知識を持ち合わせているわけではない。
しかし、どうしていいか分からないからと言って否定の感情をまき散らすのは
思考停止としかいいようがない。
感情的否定の良くない点はなんといっても議論の可能性を殺してしまう点にある。
論理的考察を経た否定はその論理の欠陥が発見されれば、意見が変わる可能性がある(まあそれは理想に過ぎないわけだが…)。
しかし、感情的否定はまさにその主体に湧き起った感情であるので論理的な説得が通用しない。
感情的否定の主体の持つ認識が間違っていたとしても、それを訂正することはできない。
一見、論理的に何かを否定していてもその発議の出発点が「怒り」などの感情であった場合、最終的に「いや、とにかくそれは違う」という主張となり、説得の努力は徒労になってしまう。
議論の可能性を断ち切る感情的否定は、目の前の問題をなんとか解決させようという努力を無に帰してしまう。
いってしまえば「どうしようもない」のである。
もっと難しい言葉で言えば、感情に固執する人間は「動物的」であり
「動物的」な人間に対処するにはこちらも「動物的」になるしかない。
「動物的対処」とは力による対処に他ならない。
感情的否定が何かをかえる局面もある。
感情的否定は誰もが持つことのできるものなので共通文脈となりやすい。
デモや革命は感情的否定を動員しなければ成功しない。
いろいろ書き散らしたが、何が言いたいかといえば
「○○はダメだ!」と言うなら、その問題に関して議論する余地があなたにあるのか。
その余地がないなら問題に対して真摯であるとは言えないし、
逆にそういう感情的な否定に論理的に相手をしても無駄だということだ。