「勉強」という行為の権威性についてー勉強はそんなに良いことかー
生まれてこの方、勉強しなさいと言われ続けてきたように思う。
小学生だろうが大学生だろうが社会人だろうが、勉強という行為からはなかなか自由になれない。
大学までは、受験を始めとした学校の勉強をしなければならないし、
社会人になったら、業務の勉強はもちろん、勉強によって教養も身につけねばならないらしい。
基本的に、勉強はわりと無条件に良いことだと考えられている。
「受験勉強」的なものが、頭でっかちを生み出すという批判はあるにせよ、広義の勉強は、人間として常に行うことが奨励される行為の一つだ。
しかし、勉強はそんなに良いものなのだろうか。
初めに行っておくと、僕は勉強がわりと好きな方だと思う。
だが、自分の専門分野の勉強を深めたところで、モテるわけではない。
初対面の女性に、自分の専門分野について滔々と語れば、ほぼ100%引かれるだろう。
モテなどどうでもよい!勉強することで広い視野を持つのが大事だという人もいる。
しかし、広い視野と批判的精神を育みすぎた挙句、物事の全てにネガの側面があると知り、何かを批判するだけになったり、何も決断を下せなくなったりする。
世の中には、「勉強が嫌い!」と言い切る人が一定数いる。
そういう人たちも、勉強などしなくとも幸せそうである。
勉強は無条件に肯定されている点からいっても、一種の権威と化していると思う。
誰も、勉強という言葉に抗うことはできないのだ。
「勉強」という言葉は時に特定の人に拒否反応を引き起こすが、似たような言葉に「読書」がある。
高校生くらいまでは、読書が好きだと言うと聞いてもいないのに「私は読書が嫌い!」という主張が返ってくることがあった(さすがに東大に入ってからそういうことはあまりないが)。
先日、電車で座っていると、正面に立っていた女子小学生二人組の会話が興味深かったので思い出して、記してみる。
小学生A「私が今読んでる本すごく面白いから続きが早くよみたいんだよね。。」
小学生B「へー。私は読書嫌い」
A「え、なんで?」
B「なんか字が多いし、途中から読めなくなる。字が消える。漫画の方がいい」
A「え、消えるわけないじゃん(笑)。読書楽しいよ。長い時間楽しめるし、面白い本に出合ってないだけなんじゃない?」
B「絶対読まない。漫画の方がいい」
A「そっか。まあ。漫画の方が楽しいもんね。」
自分も何度も同じような会話をしたように思う。
読書をするだけで、まじめで固い人のように思われることがあった。
なぜ、「読書」や「勉強」は社会の中で権威を獲得し、一定の人に嫌われるのだろう。
月並みな答えだが、結局それはどちらも一部の人にとって自発的に「する」ことではなく、「させられる」ことだったからだろう。
好きなことを中断してさせられるのが「読書」や「勉強」だった。
一部の人は、その現実に適応し、楽しむ術を覚えていったのだろう。
僕もまたそういう人間の一人である。
しかし、「勉強」や「読書」が権威となっている現状には違和感を覚える。
勉強したからといって自分という存在が無条件に、良いものになるわけではない。
そんな違和感に答えてくれた本があった。
千葉雅也の『勉強の哲学』である。
千葉いわく、人間という存在は言語に規定されており、同じ言語をしゃべっていても言葉の用法は自分が属するコミュニティに規定される。
高校の友達と大学の友達、職場の友人とは会話の雰囲気が違うという場合が多いと思うが、そういう場面をイメージしてもらえればわかりやすい。
それが、いわゆる「ノリ」である。
勉強とは、既存の「ノリ」から離れ、新たな言葉を身に着けることである。
「ノリ」から外れることは、ある意味で「キモくなる」ことだと千葉は言う。
今までゲームしかしてこなかったテニスサークルの飲み会で、最近学んだ哲学について滔々と語れば浮くのは当然だろう。
周囲が「お前どうした?」という反応になり、冗談として場を納めようとするのは目に見えている(偶然同じことを学んだ人が積極的に話してくる可能性は無くはないが)。
新しいノリを身に着けることは、新たな視点を持つというのとほぼ同義だと考えてよい。
しかし、新たな視点を持ったところで何が起きるのだろう。
短期的には、今まで没入していたコミュニティの会話を妙に客観的に見てしまい、ノリ切れなくなってしまう。
その状態だけ取ってみれば、勉強を「楽しい」とか「幸せ」とか「有益」なものと強弁することはできまい。
ある意味、この短期的な「キモい」状態すら肯定しようとしているのが既存のアカデミズムであるようにも思う。
政権が高等教育への補助を削減しようとするとき、特に矢面に立たされる文系の学者は哲学や歴史学に有用性を力説する。
その多くが、哲学や歴史学がまわりまわって国のためになること、あるいは「役に立たないことで役に立つのだ」という主張である。
こういう自分たちの権威性をさらけ出すような発言を目にするたびに違和感があった。
それが明らかな詭弁だからだ。
勉強、あるいは「学問」は短期的には役に立たないものだと思う。
また、長期的に役に立つのかどうかも分からない。
結局、役に立たない可能性だってある。
役に立ったかどうか、検証する術などないだろう。
ある意味、勉強を生業にしてきた人の傲慢さが、多くの人にとって勉強を抑圧的で権威的なものに感じさせ、つまらないものにしたのではないか。
勉強をするということは、言葉の扱いに長けるということだから、自由に言葉を操り、勉強の価値を説くことができる。
しかし、パズルのように言葉を組み合わせ、それらしい説得を為したところで、反論できなくとも勉強の権威性を感じ、勉強から進んで距離を取る人は増えるばかりだ。
だから、「勉強をやめよう!」と言いたいのではない。
勉強の成果が世の中を動かしてきたのも事実だ。
理系の研究は非常にわかりやすく世の中を変えてきたが、文系も同様である。
現代の基盤である民主主義や人権といった発想も、思考を止めることのなかった先人たちが生み出した成果である。
かつて、世界を覆った共産主義も同様だ。
共産主義は、多くの悲惨な結果を生んだけれども、その生みの親であるマルクスは、近代化の中で虐げられる労働者を救うために共産主義を練り上げた。
結果として、現代の資本主義社会は共産主義的な考えを一部取り入れ、発展してきた。
誰もが、「勉強」の成果の上で暮らしている。
勉強し続けることは、常に新しいノリを生き、常にマイノリティとなることである。
それは、サイードが『知識人とは何か』で述べたのと同じようなことだと言えるかもしれない。
マイノリティになるということは、「世間」というノリに乗ることができなくなることであり、大きなノリに身を任せ、楽に生きていくことができず、かといってその苦悩を理解してもらうこともできないまま生きていくということである。
数多くいるマイノリティの多くが忘れ去られていく中で、ごくまれに世の中のムーブメントを生み出すことがあるということでしかない。
何が言いたいかと言えば、勉強という行為の権威性が少しでも薄らいでいけばいいということだ。
勉強は「させられる」行為ではなく「する」行為であるべきだ。
勉強している人が偉いわけではない。
学問、ビジネス、スポーツ、アート、肉体労働といった行為の間に優劣はない。
誰もが気軽に勉強にアクセスでき、気軽に離れることのできる世界であればと思う。
スニーカー試論 ー靴とアイデンティティー
今、僕の靴箱には約20足の靴がある。
そのうち、1足を除き、全てがスニーカーである。
除かれた1足というのは、就活用の革靴だ。
最近、スニーカーブームが再燃しているとよく言われるけれども、自分の大学に限ればそんな雰囲気は、微塵も感じられない。
僕もスニーカーが好きになって日が浅いし、知っていることもごくわずかなのだけれども、「スニーカーヘッズ(スニーカー愛好者のこと)」とそれを取り巻くストリートファッションの現状を僕なりに解釈し、紹介してみたい。
スニーカーが生まれた歴史から語り始めても良いが、それよりも売れるスニーカーについて話してみよう。
僕は勝手に売れるスニーカーを3種類に分類している。
一つ目が、コラボスニーカー
二つ目が、有名人が履いたスニーカー
三つめが、とにかく目立つスニーカー
もちろん、この3つは重なり合うこともある(コラボのスニーカーを有名人が履いて爆発的に売れ出すこともあるということだ)。
まず一つ目のコラボスニーカーについて。
ファッションブランド同士のコラボレーションは近年盛んになっている。
コラボアイテムの多くは、生産数が少なく、プレミアになることが多い。
また、コラボにはスニーカーを作るノウハウのないファッションブランドが、ナイキやアディダスのテクノロジーを活用して、ブランド価値を高めるとともに、トータルコーディネートを完成させるという意図もある。
最も、人気のコラボの一つがナイキと伝説的ストリートブランド「Supreme」のコラボだろうか。
この画像のスニーカーは、ナイキのジョーダンブランドとSupremeがコラボしたものだが、価格は3倍以上に跳ね上がり、10万円近くで売られている。
コラボの原型となったAir Jordan5は、もとから人気のあるモデルなのだが、それが人気のブランドとコラボしたことでプレミア商品となってしまった。
「Supreme」ってなんやねん、という人のために解説しておくと、「Supreme」とは今、世界で最も人気の高いストリートブランドである。
スケートボーダーがニューヨークで開いたセレクトショップを起源に持ち、ルイ・ヴィトンやカルバン・クラインといったハイブランドの商品をあからさまにパクったり、該当の広告の上に勝手に「Supreme」のステッカーを貼る過激なプロモーションで一気に話題となった。
このブランドがどれくらい人気かと言うと、2016年末の秋冬新コレクションのリリース時には、2秒でオンライン上の商品が完売し、たった1日で約10億のページビューが記録された。
このモデル以外にも、ナイキと「Supreme」は定期的にコラボしているが、どれも即完売必至だ。
スニーカーヘッズの間で苛烈な競争を引き起こすのは、ブランド同士のコラボだけではない。
大物デザイナーやアーティストがスポーツブランドとコラボすることで生まれるモデルもある。
ごく最近発売された超大型コラボレーションとして挙げられるのが、ナイキとKawsのコラボだ。
Kawsは、バンクシーと並び、いま世界で最も金を生むアーティストの一人に挙げられる人物で、バツ印の目を持つキャラクターがトレードマークだ。
目がバッテン「KAWS(カウズ)」って知ってる?コンテンポラリー・アーティストKAWSの腕時計 - 時計怪獣 WatchMonster|腕時計情報メディア
Supremeと同じように、ミッキーやスポンジボブといったキャラクターの目をバッテンに変える完全にアウトなペインティングで人気に火がついた。
そして、上の画像が、Kawsとナイキのコラボモデルである。
正直、僕もどこら辺がかっこいいのかよくわからない。
もちろんベースとなったAir Jordan4はかっこいいし、人気の高いモデルである。
僕も真っ赤な奴を一つ持っている。
しかし、こんな一見地味な灰色の靴が(失礼!)オンライン上では20万近くの値段で取引されているのである(元値はおそらく4万円)。
ブランドというものは、不可解である。
スニーカーなんて言ってしまえば、全て色違いにすぎないにもかかわらず、マニアは何百足と収集するのである。
ただ、そのブランドが持つイメージを纏いたいというのがスニーカーヘッズたちの欲望なのだろう。
ストリートファッションには、「いかに反抗的か」という視点が求められる。
ハイブランドを始めとした既存のカルチャーに中指を立て、時に訴えられるほどの抵抗をしたブランドが、カウンターカルチャーの担い手となる。
その意味では、スニーカーブームは消費によってアイデンティティを形成する現代人の分かりやすい例であるともいえる。
今回は、試しにコラボスニーカーについて語ってみた。
気が向けば、他の2つの「売れるスニーカー」の要素と現代社会に関わりについて書いてみたい。
思い出し、確認するということ
卒業シーズンが終わり、新年度が始まった。
大学に残る僕は多くの仲間を見送った。
割と長い時間を過ごした友人も、多少面識がある程度の人も互いに門出を祝う雰囲気は切ないけれど、やはり楽しかった。
この4年間、特定のコミュニティにあまり属することなくふらふらと動いてきた。
それは、一応、僕が常に新しい刺激を求めてきたからだ。
いうなれば、特定のコミュニティのなかで人間関係を完結させることは、なれ合いだと思ってきた。
初対面の人から刺激を受けるのはもちろん楽しい。
自分にない知識や視点で話が進むから、もっといろんな人に会ってみたいと思うようになる。
逆にずっと同じ人と話していても、話題は尽きるし、ただ時間を過ごすだけになってしまう気がしていた。
僕はそれを堕落だと思っていた。
しかし、卒業シーズンになり、自分が大学生活を共に過ごした人たちと過去の思い出を語りある時、「新たな刺激」とはまた別の楽しさみたいなものを感じた。
それは、「確認する幸せ」とでも言えようか。
「こんなこともあった」といって過去を思い出し、お互いの記憶に残っているという事実を確認すること。
それは、自分と友人が確かに同じ時間を過ごしたことの確認であり、同じようにその過去の出来事がお互いにとって重要だったという事実を確かめる行為でもある。
未知のものに触れる楽しみは、スリルに近いものがあり、恐怖と紙一重だ。
一方、「確認する幸せ」は、安心感がある一方で、二度と同じことはないのだという切なさを孕んでいる。
どちらも純粋にポジティブな経験ではありえない。
それは僕がひねくれいているだけかもしれないし、常にポジとネガのうち、ネガの部分を否応にでも見てしまう損な性格なのかもしれない。
とにかく、何が言いたいかと言うと「確認する幸せ」みたいなものも大事に抱きしめていかなきゃ、ということだ。
僕以外、全員そんなことは分かっているのかもしれないが、つんつんしている人も多いように思う。
色んな付き合いを、その場限りの楽しみではなく、自分にとって大切なものにしていきたい。
東京ナショナリズム
僕は、東京が好きだ。
田舎に住んでいたから、まだ都会を新鮮に感じられているのかもしれない。
これだけ、様々な情報があふれ、物理的な移動も便利になった世の中であっても、いまだに地方では「東京は怖い場所」であり続けている。
東京の人は冷たく、すぐに騙そうとしてくるし、しょっちゅう犯罪が起きている。
そんなイメージが地方では、再生産され続けている。
そんな悪評に東京は、どう反応してきたのか。
僕の記憶の限りでは、特に何の反論もなく、巨大なわりに無個性な街としてたたずんでいたような気がする。
しかし、最近、東京の自己主張が強いと感じる。
大ヒットした映画『君の名は』は、地方と東京を対比させ、明確に東京をポジティブに描いた作品だった。
今までなら、地方の「人の暖かさ」みたいなものが強調され、東京はネガティブな表現で描かれていたところだろう。
ヒットソングにも、やたら東京が出てくる。
三代目J Soul Brothersの「Welcome to Tokyo」
MAN WITH A MISSIONの「Dead End in Tokyo」
あと、最近ブレイク中のSuchmosの代表曲「Stay Tune」には、特に脈絡もなく「東京 Friday Night」という言葉が現れる。
リンクを押して、それぞれのPVを見てもらえれば分かると思うが、色調がどれも似通っている。
そして舞台は全て夜の東京。
三代目 J Soul BrothersとMAN WITH A MISSIONは、海外展開を意識しているからか、海外から見た「ニッポン」的なイメージ、具体的にはサイバーパンク的なカットが多めに盛り込まれている。
歌詞もなんとなく同じようなメッセージだ。
とりあえず「東京には夢がある」といったところか。
(Suchmosはたぶんバンドの方向性として「気取ってるやつみんな吹き飛べ」みたいな感じなので少し違うけども)
これらの映像に投影されているイメージは、僕らが暮らす日常の「東京」ではなく、観光客の視点を内面化した「TOKYO」だ。
スカスカな理由付けをすれば、東京オリンピックの存在は間違いなく大きいだろう。
しかし、仮にオリンピックが日本の別の都市で開催されたとして、都市ソングが生まれただろうか。
例え大阪でも怪しいと僕は思う。
オリンピックほど大きなイベントが、日本という小さな国土の国で開かれるのだから、「ニッポン」ソングが増えてもよさそうだ。(ニッポンソングといえば、2014年に発売された椎名林檎の「nippon」だろうか)
しかし、現実にはそうなっていない。
たぶん、僕らはもはや「日本」という単位で夢を見ることができなくなっているのかもしれない。
少なくとも東京で暮らす人間は、東京でしか夢を見ることができない、と思い始めているのかもしれない。
地方出身者として否定したいところだが、反論するのは難しい。
「しばらく人口増加が見込まれるのは東京くらい」という事実が色々と物語っている。
地方を盛り上げようと頑張っている人は沢山いるし、そういう人たちの試行錯誤は本当に価値あるものだと思う。
でも、これから地方が、東京のように、とまではいかずとも再び活気を取り戻し再発展する将来像は見えてこない。
もはや、日本という国そのものが衰えつつある中、僕らは最後の夢を「TOKYO」に託すしかなくなっているのかもしれない。
先ほど取り上げた歌たちには、「東京は他に類を見ない都市」という思想がぼんやりと反映されているような気がする。
欧米の都市とは決定的に異なるアジア的な都市でありながら、欧米と同等かそれ以上の発展を遂げた都市というの自己規定だろうか。
現に、東京を訪れる観光客は急増している。
しかし、必ずしも東京が世界の中で突出しているとは言えない。
観光客の増加は、東京に限らず、世界規模で起きている(テロがあった都市は減ったかもしれないが)
僕は行ったことがないから何とも言えないが、TOKYO的な統一感のない雑多な雰囲気は中国や韓国の大都市にも存在するだろう。
もちろん違いを探そうと思えば、そんなものはいくらでも出てくるのだ。
しかし、東京に暮らしているはずのクリエイター達が、外部から見た東京を表現しようとするのはなぜなのか。
まあ、彼らにとってはネオンの光で満たされ、みんながクラブで踊る光景こそが東京的なものなのかもしれない。
いや、やっぱりそんなの東京の日常ではないだろう。
今も昔も東京は、人でごった返し、無計画に雑多なビル群が林立する「洗練」とは程遠い街ではないか。
この東京愛とでもいうべきものを、僕は勝手に「東京ナショナリズム」と呼んでいる。
「東京って都市だから、ナショナルじゃないじゃん!」という突っ込みはもっともだが、都市愛を表現するための新たな単語を作るほど僕の考えは論理的に強くないし、東京への愛とかつての「愛国心」みたいなものはほぼ同じ感情だと思うので、あえてナショナリズムと呼ばせてもらう。
この「東京ナショナリズム」が、自分たちの目を曇らせやしないか心配だ。
世界には素晴らしい場所がたくさんあって、東京だけが特別ではない。
全て特別だ。
自分で「いかに東京がすごいか」なんてことを発信しなくても、外から訪れる「観光客」は勝手に東京の面白い側面を発見してくれる。
過剰な自意識が、東京の良さを殺してしまうかもしれない。
どう転がっても、東京オリンピックの後「東京ナショナリズム」は死ぬだろう。
厳密にいえば、東京の人口減少が始まる2025年あたりか。
その後のことを考えると怖い。
けども、まあ、今日から社会に飛び立つフレッシャーズたちがなんとかしてくれるだろう。
新社会人に幸あれ!!!(終わり方が雑)
null
最近の自分は、ピリオドを打つ理由を探している気がする。
ただ、生かされている。
死んでいないだけ。
レールに乗っかり続けようとするのはしんどい。
かといって、レールから外れた先に何があるのだろう。
結局、レールから外れるというレールではないか。
「レールから外れた」というプライドと、そんな馬鹿を馬鹿みたいに尊敬する馬鹿からのわずかな称賛を支えに生きていくのは嫌だ。
プライドなんてものもない。
ただ、他人を馬鹿にして、上に立とうとする意欲があるだけ。
残念ながら、自分のそういう部分を嫌うだけの良心もわりと残っている。
気を張っていないと、どこまでも落ちていきそうな気もする。
ただ、なんのために気を張るのかは分からない。
大きな目的とか、そんなものがあるんじゃない。
ただ、落ちないようにしているだけ。
落ちないように頑張るのもわりと疲れる営みだ。
かといって、目的とか意義を信じて、前へ進むのも難しい。
簡単に目的や意図を信じ切れるはずがない。
簡単に、「他人の笑顔のために」とか「誰かの幸せのために」なんて言えない。
自分のやったことが本当に他人を幸せにしているのかなんて分からない。
誰かがどこかで不幸になるかもしれない。
そもそも、自分の実存すら曖昧にしか感じられない人間に、「他人の幸せ」なんて言葉を発する権利があるのか。
自分がいなくても世界が回っていくことを日々痛感する。
そもそも、「世界にとって不可欠な人」なんてこの世には未だかつて存在しなかったわけだが、
それでもその事実を改めて突き付けられるのは結構きつい。
誰が生きようと死のうと世界は回ってきたし、これからも回る。
他者にとって不可欠な人間になれないのなら、自分にとって自分が絶対的な存在になるしかない。
すなわち、圧倒的な自己肯定感。
そんなものがあればこんな文章は書いていないだろう。
どこかで起業して、3時間睡眠で高速PDCAを回し、一秒一秒圧倒的成長を遂げているだろう。
今の世の中に、自分のような優柔不断な人間の居場所はない。
全てが、すさまじいスピードで回っていて、あらゆることが意味があるとかないとかいう評価を受ける。
「意味がある」とか「意味がない」とかいうのは、言ってしまえば今後、価値を生むか生まないかに関する裁定だ。
ほとんどの価値は、金銭へと還元できる。
休学して行った留学での様々な体験について、「卒業が一年遅れたけど有意義な経験だね」なんていう他人の評価は、「一年卒業が遅れても、留学中の経験を生かせれば、君の生涯年収にはプラスに働くよ」と同義だというのはシニカルすぎるだろうか。
自分の行動は全て市場価値を高めるための活動だったような気がしてくる。
逆に言えば、それだけなんでも市場価値に還元される世の中だということだ。
自分の価値なんて測れるはずがないと思う。
その考えを自己肯定感につなげられないのなら、自己否定に向かうしかない。
自分に付けられた値段を受け入れるか、誰に批判されようとも自分を疑わない強さを持つのか、誰かに批判されたり低い値段を付けられる前に予め自分の全てを否定するのか。
このどれかの態度をとることになる。
評価を付けられることにも評価を付けられないことにも耐えられない。
他人が他人を評価できるはずがないと思いながら、評価抜きで自立しても良いと思えるほどの価値を自分に感じない。
今は、そういう発想に目を瞑り、ごまかしながら生きている。
いつまでごまかせるのかは分からないし、ずっとごまかしていける気もする。
努力とは、何もない自分が生きていく理由を増やすためのものだと思う。
他人に還元できる能力を磨くために努力し、それを市場価値という形で確認し、再び努力する。
だから、努力を怠ってきた人間が自分に価値を感じられず、空っぽになるのは当然なのだ。
そんな空虚さに耐えきれなくなるのも時間の問題だ。
もう少しだけ、自分にチャンスを与えてみることとしよう。
メディアについて思うこと -某新聞社でのインターンと最近の情勢から-
先日、とある新聞社のインターンシップに参加させてもらった。
正直、あまりメディアは志望していないのだけど、いろいろあって機会を頂いた。
僕が気になっていたのは、インターンの内容ではなく、巨大なメディアとジャー成純の中身だ。
どんな社員(記者)がいて、どういう考えで会社が動いているのか。
それを知りたかった。
特に新聞は、オールドメディアの代表格として、散々に叩かれることが多い。
個人としては、「嫌われすぎだろ…」と思うこともあれば、「どうしてこんなこと書いちゃうんだろう」と感じることもある。
保守的な思想をもつ人が、もはや報道の内容に関係なく新聞社を非難していることにも否定的だし、一方で、時に新聞の側が特定の政治思想に肩入れしすぎているのではないかと感じることもある。
また、各新聞社が保守とリベラル(右派と左派)どちらに属するのかに関しても、なんとなく世間で共通の了解があって、そのバイアスに基づいて新聞社に関する議論が行われることも多い。
そういう思想的偏向のようなものは実際にあるのか。
現場の記者は何を考えて記事を書いているのか。
世間が持つイメージをどう考えているのか。
以上の問題意識で、インターンに参加した。
まず、会社全体としてなんらかの思想的な指針はあるのか、という点だが、
記者さんいわく「ない」とのことだった。
まあ、そんな「社訓」みたいなものが存在するのであればとっくに世の中に出回っているだろう。
左派と呼ばれる新聞にも右翼の記者はいるし、その逆もしかりということだった。
もちろんインターンの中で特定の思想を刷り込まれることもない。
一方で、非常に気になったのが、新聞社の役割には確固たる自分の考えを持っている人が多かったことだ。
権力の監視、弱者の救済、民主主義の基盤となる。
そういう使命感を持っている方が本当に多かった。
実感でしかないが、みな建前ではなく、本気でその使命感を軸に仕事をしていた。
一言で言えば、非常に「マジメ」という印象を受けた。
それは、インターンの参加者も同じだった。
みな、なんらかの使命感を持っている。
イマドキ、就活において本気で使命感を持っている人がどれくらいいるだろう。
感銘を受けた一方で、このマジメさが空回りしているのが、今のジャーナリズムのおかれた厳しい状態を引き起こしているのでは、とも思った。
彼らは、権力を監視によって権力の暴走を防ぐこと、弱者の状況を広く人々に知らしめることで行政を動かすこと、といった使命感を持っている。
しかし、彼らがよって立つ基盤が揺らいでいるとしたら?
権力を監視する必要なんてないと考える人。
弱者の状況なんて知りたくない、
或いは、弱者のことを取り上げるといいながら自分たちのことは取り上げないじゃないかと怒る人。
そういう人が増えつつあるとしたら?
そんな想像は、彼らの中でなされていないか、非現実的だと思われているような気がした。
しかし、現実には、ジャーナリズムが自らの存在意義の基盤に位置付ける「民主主義」という制度そのものが欠陥を露呈しつつある。
その課題を突き付けたのは、言うまでもなくトランプだ。
トランプ大統領の誕生は、間違いなく民主主義の欠陥だ。
多数決は、マイノリティを抑圧する方向に作用する。
アメリカ国民の半数は、理性的な決断を下す「リーダー」ではなく、自分達の主張を代弁する強力な「王」を選んだ。
「王」が代弁する主張によって、不利益を被る層がいたとしても知ったことではない。
仮に、自分たちの主権が制限されても、「王」がうまくやってくれるのならそれでいい。
民主主義は、その主権者によって否定されつつある。
民主主義が否定されるということは、民主主義を基盤に持つジャーナリズムも否定されるということだ。
メディアによる「王」の否定は、「王」を選んだ自分たちへの否定へとつながる。
ジャーナリズムが守ろうとしてきた「国民」は、権力を支持する側に立とうとしている。
ジャーナリズムの側は、自らが守ろうとしてきた人々に攻撃される状況を受け入れられない。
そのフラストレーションは権力へと向かう。
その過程で、ジャーナリストたちの持つ強い使命感が、時には過剰に思えるほど強い論調を生むのかもしれない。
ジャーナリズムの役割は人々を「反権力」の名の下に連帯させるという方向から、「親権力派」と「反権力派」に意図せず分断させる方向に転じ始めた。
いまや権力の側が、SNSを通じてメディアと同じかそれ以上の発信力を持ちつつあることも、この傾向に拍車をかけるだろう。
人種や宗教に対する差別を助長するような思想はもちろん問題だが、分断が深まりつつある状況にあっても民主主義を盲信し、トランプ支持者を罵ることしかできないリベラルにも深刻な問題がある。
ジャーナリズムが抱える問題は、インターネットの普及で紙の新聞やテレビを見る人が減ることではない。
ジャーナリズムの根幹が否定されつつあることが問題なのだ。
そういう意味で、今のジャーナリズムの将来性は危ういと思う。
この状況が記者さんの努力とか経営努力みたいなものでどうにかできるレベルなのかは分からない。
できるだけ早くこの状況を変えようもがけば、それはジャーナリズムによる権力への過剰な(時には客観的証拠にも欠ける)攻撃やリベラルを名乗る人々による過激なデモという手段をとることになるだろう。
それは自分たちの立つ基盤を自ら破壊する自爆に他ならない。
しかし、少なくともアメリカではそういう方向に進んでいるような気もする。
かといって、差別が許されてはならないし、困難な状況にある人を切り捨て、自分だけが助かることを求めるような主張は慎まれるべきだと思う。
分断が深化する状況をすぐには止められないだろう。
もしかしたら、何らかの大きな痛手を負わなければ人間は学べないのかもしれない。
それでも、「どうにもならない」とか「これが人間だ」と言い切ることが、知性的と言われてはならない。
「人類の未来」という途方もなく深遠かつ滑稽なテーマに、本気で取り組み続けなければならないのだと思う。
少なくとも、エリートと呼ばれる人達だけは…。
言葉を置き去りにして
自分は、強く言葉に束縛された人間だと思う。
何をするにしても言葉にしてみないと気が済まない。
「脳内会話」で済むこともあれば、口にだしたり書いてみたりしないと落ち着かないことも多い。
どこかへ行くときも「よし、大学へ行こう」と、頭のなかで言葉にしている。
一方で、言葉にした瞬間、伝えたい内容は自分にとって唯一特別なものから、他人も理解できるありふれたものに変わってしまう。
街頭でちょうどいいタイミングでティッシュをもらっても、
一浪して第一志望の大学に受かっても
同じ「うれしい」という言葉になってしまう。
いかに自分が今までの人生の中で、その瞬間を特別なものに感じたか伝えようとすれば、「うれしい」に至った状況や様子をどんどん付け足していくわけだが、言葉は長くなっていく。
心の底から湧きあがる感情は、一瞬のできごとで、
それを説明するための言葉の長ったらしさには段々幻滅を覚えていく。
特別な感情を伝えるためには、特別な語彙があるわけだが、
語彙の希少さが上がるほど、他人には理解してもらえなくなる可能性が上がる。
こうして、自分にとって唯一特別な感覚は、言葉にした瞬間に色を失う。
一方で、現代はあらゆる事象を言葉にし、あらゆる情報を言葉で得ようとする時代だと思う。
動画や画像でのコミュニケーションが流行っていると言われているけれど、
授業からSNSまで、情報伝達の基本は言葉だし、
映像や画像の中にも言葉がたくさん含まれている。
純粋に映像や音声だけのコミュニケーションは少ない。
絶対数は増えているにしても、それを圧倒的に上回るスピードでテキストや音声による言語コミュニケーションが氾濫しつつある。
だから、頭の中は常に言葉であふれてしまう。
特に他人に伝える必要がないことでさえ、脳内で言葉にしてしまう。
この癖は、自分という世界に一人しかいない存在を考えるときに結構深刻な問題を引き起こすのではないかと思う。
自分という存在は、今も昔もここにいる自分ひとりだけで、自分の感情や思考を100%他人と共有することはできない(できたとしても、確認する術がない)。
だからこそ、どのような状況で何を感じ、その後どのように行動しようと、勝手なわけだが、体験を安易に言葉にすると、その体験は誰にでも理解可能な汎用品になってしまう。
汎用品としての自分に存在意義を感じるのは難しい。
この世界の中で、特別でもなんでもない自分など存在しなくても良いような気がする。
言葉は一つの枠のようなものだ。
枠があるからこそ、たくさんの人に理解してもらえる。
一方で、本当に独創的なものは枠に収まらないはずだ。
言葉では説明できない何か。
あるいは、新しい言葉・枠を作って説明せざるをえないような何か。
本当は、誰の胸にもそういう感覚があるのではないか。
全てを他人に分かるように説明しなければならないというプレッシャー、あるいは自分の全てを他人に理解してほしいという実現不可能な欲望のせいで、自分だけの特別な体験や感情が、ネット上に無数に転がっているようなストーリー、誰かが既に生きてしまっているストーリーに成り下がってしまっているのではないか。
例え、言葉にした時に、似たような感情・体験・人生がデータベース上に存在していようと、その感情・体験・人生は今、この場で確かな実感を持って生きている自分だけのものだ。
逆に言えば、自分が感じたことくらいしか、確かなものなんて存在しない。
お互いが100%完全に理解することなんてできないのだから、他人に何かを伝えるための言葉は常に不完全で頼りないツールだ。
もちろん、言葉はいらないとか、感情は歌や踊りで表現しろ!なんてことを言っているのではない。
ただ、本来、自分の体験はあらゆる表現ツールを置き去りにすべきなのだ。
いかなる手段を使ったとしても、伝えきれるものではないし、もはや伝わらなくてもいい。
それでも、自分の中に湧きおこった何かを外に出さずにはいられない。
言葉が世の中に氾濫すればするほど、意識に浸透した言葉は感情を飼いならす。
湧き上がる衝動を言葉が蓋をする。
そんな時代だからこそ、言葉という檻を打ち破り、言葉を置き去りにした表現のできる人間が必要とされている。
どこかで聞いたことがあるような、誰にでも「分かる」と言われてしまうようなありふれた言葉、説明を超えて、
底から湧きあがるような「叫び」を。