なすの日記

思考を散歩させるための場所

ジブンゴト

「何がしたいの?」「どうなりたいの?」

僕はこの質問を数えきれないほどされてきた。

人が、生まれ持った条件から自由になればなるほど

自由意志の重要性は大きくなっていく。

他人に何かを強制させられないから、相手の意志を聞かないと物事が始まらない。

「何がしたいの?」

と聞かれて、滔々と自分の理想を答えられる人もいる。

そういう人が正直うらやましい。

僕は、その質問をされると毎回答えに窮している。

 

たぶん、やりたいことがないわけではない。

自分の中に何らかの意志がなければ、受験勉強や就職活動をやるということにはならななかったはずだ。

 野心はあるけど、そのエネルギーを何にぶつければいいのか分からないまま、

僕の20代前半は過ぎていったように思う。

エネルギーは存在しているはずなのに、自分が空っぽだという感覚が

ずっと付きまとっていた。

社会人になって、25歳になって、自分の残り時間を考えたとき、

そろそろ何とかしないとヤバいなと思い始めた。

 

思い返せば、大学に入ってから今まで中途半端なことばかりだった。

チャレンジはするし、外面はやりきったように見えるけれど、

自分として何かを主体的にやりきったという感覚がある取り組みはあまりない。

振り返ってみたことは、どれも「ジブンゴト」になっていないということだった。

 

何かを「ジブンゴト」にするのは実はすごく難しいことだと思う。

もちろん、自分ができてこなかったからというのもあるけど、

つまるところ自分の人生を「ジブンゴト」化できている人ってすごく少ないと思う。

別に、ジブンゴトにしなくても世の中は成立していく。

ほとんどのことは、自分がやらなくてもいいことばかりだ。

結局、何だって「どうでもいい」「くだらない」と言えてしまう。

 

一方で、何かに首を突っ込まないと自分の存在意義も生まれない。

本来、首を突っ込む必要のないことに首を突っ込んで、

自分がやらねばと思い込んで、初めて情熱は生まれるし、他人から必要とされる。

 

じゃあ、ジブンゴトにしようと思っても、すぐにできるもんじゃないけど、

乗り遅れているのを承知で今から頑張らないとと単純に思う。

 

 

学生最後の二か月が思った以上に息苦しいという話。

 卒業2か月前の大学生は、他のどの時期よりも慌ただしいかもしれない。最後の試験や卒論を終えて、やらなければならないことは無いけれど、「最後の学生期間」という言葉を呪文のように唱えながら、今までやってなかったようなことをやり始める。

 

 一番オーソドックスな過ごし方は、卒業旅行に行くことだろうか。「社会人になったら行く時間がないから」という理由で、結構な長期間、行きたいと思っていた場所に行く。「若いうちに」と言って体力が必要な途上国や遠い国(南米とか)に行くパターンも多い。

 

 「平日の昼間」というのもキーワードの一つかもしれない。平日の昼間からお酒が飲めるのは今だけだとか、昼間で寝れるのは今だけだとか、一日中YouTubeを見ながら過ごせるのは今だけだとか。約4年(かそれ以上)の日々を大学生として過ごしていながら、最後の数か月になって急に新しいことにチャレンジし始めるのは我ながら滑稽にも見える。

 

 社会人になって時間が無くなると言って旅行しなくなるくらいなら、旅行に対する思いなんてそれほど強くないのかもしれないとか、別に平日に一日ぶっ通しでYouTubeを見たからと言ってその時間を後から思い返したときに大切だったと思えるのだろうかとか、色んなことを考える。本当に自由な時間が欲しいとよく思うけど、与えられたら与えられたで、困ってしまう人が実は多いのかもしれない。

 

 そもそも、たった2~3か月という期間の中になぜこれほどまでに色んなことを詰めこもうとしてしまうのだろうか。なんとなく死に支度をしているみたいであまり楽しめないような気もしてくる。楽しむことを強制されている感じ。短い間に想い出を残さなければ、その後一生想い出などできないと言われているような感覚すら覚える。ただ、楽しく過ごしたいだけなのに楽しむのって難しい。そんなこと気にせず驀進できる人もいるのだろうけど。

 

 「楽しい」とか「楽しむ」って本当にいろんな場所でよく聞く言葉であり感情だけど、実際自分がどんな状況で何をすれば楽しめるのか知っている人は多くないように思う。昔、楽しいと感じたことを今やってみても楽しく感じなかったりする。期待しすぎるとあまり楽しめなかったり、逆に全く期待していないシチュエーションで楽しいという感情を覚えたりする。

 

 どこで聞いたか忘れたけれど、「楽しいと思える瞬間は、後で今日のこのことを思い出すだろうと感じる瞬間だ」と聞いたことがある。確かに友達と思い出話をするのは本当に楽しい。たぶん、年を重ねるにつれてその傾向は強くなっていくだろう。一人で何かをして、一人で思い出すのもいいけど、同じ思い出を友達と思いだせることができればもっと「楽しい」と感じられるのはあまりに「リア充」すぎだろうか。逆に言えば、友人と経験したことは結構なんでもないことでも想い出になったりする。だから、卒業してからもたくさんは想い出はできるだろうし(というかできてもらわないと悲しい)、それが「学生」とか「社会人」というタグによって優劣が決まったりするものでもないと思う。後から振り返って、「今になってはできない」ということはあるかもしれないけど。

 

 

 学生最後の2か月みたいな気合の入った「楽しむ」も悪くないけど、もっと肩ひじを張らない「楽しむ」も増えればいいなと思う。

とりとめのないこと

上手くいけば僕の学生生活は、あと数か月で終わる。

 

少なくとも僕のファーストキャリアを既に決まっていて、その仕事はある程度、今後の僕の人生を規定していくことになるだろう。

年齢もあと少しで25になる。

誰が「四半世紀」とかいう余計な長さを感じさせる表現を考えたのか知らないが、年を取ったのだという感慨はある。

世間的にはまだまだ若者で、これからなんでもできるという扱いなのだろうけど、

個人的には、そろそろ自分に折り合いをつけていく場面が増えるんだろうと思う。

 

一生は短くて、その間にできることはほんのわずかで、取り返しのつかいないことが多すぎる。

ほとんどのことは、別の何かで取り返せても、どうしようもないことが増えていく。

同世代はほとんどみんな就職していて、結婚する人もどんどん増えていく。

後戻りしようのない決断を、次々と下していく。

レールに乗ろうとも外れようとも思わないけど、そういう決断が下せることに、とても驚きを感じる。

僕は、まだ子供だ。

未だに抽象的なことばかりを考えている。

だから、目の前に転がっていた幸せのような何かを踏んづけて道の先ばかりを見ている。

 

この先働き始めたら、歯を食いしばってお金を稼いで、少しずつ増えていくお給料に比例して、着るものと食べるものと住むところのレベルを上げていく以外に何かすることがあるんだろうか。

僕は、地方から出てきた田舎者として、東京を埋め尽くす記号を消費しているし、これからもそうしつづけるだろう。

どこまでいっても上がある。

値段が上がればそれは、「よりおしゃれ」で「よりおいしく」て「より良い環境」なのだ。

東京で生まれ育っていない僕は、自分の中の欠落感を東京に求めていたのだろう。

そして、それは僕に限ったことではない。

無限に「上」を見せてくれる街で、死ぬまで「上」を見続ける。

それは「夢」と呼ばれているが、じっと見つめるとなんだかよくわからない。

美術館に置かれているという理由だけで芸術として認識され、パシャパシャ写真を撮られている現代アートみたいなものだ。

なんだかよくわからないものに突き動かされている。

それは、欲望ですらないと感じる時もある。

そこに虚しさがあるのは確かだ。

その虚しさを、東京も学歴もテクノロジーも埋めてはくれない。

 

来年の今頃はもうそんなことを忘れて、どうやって数字を作るかということしか考えられなくなっているかもしれない。

それはそれでかまわない。

だから、この虚しさは死にゆく青い自分の断末魔みたいなものなのかもしれない。

この文章を見た未来の自分に「若かった」なんて思われると想像すると本当に癪だ。

来年の自分が少しでも生き生きしていることを願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ私たちは高校生の涙を見続けなければならないのか。

年末年始、テレビを付けると若者のスポーツ大会ばかりやっている。

特にすることもないので箱根駅伝と男女の高校サッカー選手権を延々と見てしまう。

駅伝は二日間、サッカーは1週間くらいある。

毎回、誰かが負けて泣く。

だから、お正月なのにたくさんの涙を見てしまった。

人生の中でもはや見飽きたと思うくらいに、若者の涙をメディアを通じて見てきた。

そういうお決まりのシーンが嫌いな人もいるだろうが、

基本的に僕はけっこう自分もウルっときてしまったりする。

 

 しかし、なぜこの国ではこんなにも若者が泣く姿が消費されるのか、とさすがに疑問に思う。

今年の年始は、昼にリアルタイムで見た高校サッカーの試合からの夜のニュースでのダイジェスト映像と立て続けに高校生の泣き顔を見せられた気がした(どんだけテレビ見てたんた)。

スポーツに限らず年中なんらかの学生向けの大会が開かれ、いつも誰かが泣いている。

何年も一つの目標を持ってトレーニングをしてきたのに、

それがかなわなければ泣くのは当然の反応である。

しかし、敗者の涙にここまでクローズアップするのは

あまり欧米では見られないような気もする。

試しにアメリカのカレッジバスケを見てみたが、敗者は泣いてるっぽかったが、試合後はほとんど勝者しか映していないので分からなかった。

英語で「NCAA全米大学体育協会) ロッカールーム」で検索すると、アメリカでも日本と同じように泣く生徒とねぎらう先生みたいな構図がいくつかあったが、数も少ないし、勝利後のワイワイを映した映像の方が多かった、

日本語で「高校サッカー ロッカールーム」で検索すると、たくさん動画が出てくる。

多くが敗者のロッカールームだ。

高校サッカー ロッカールーム - YouTube

考えてみれば、大会は勝つために参加するものだし、勝者に重きを置くのが普通だ。

(さすがに、優勝者は注目されるが。)

しかし、おそらく日本でメディアに取り上げられる時間・スペースを比較すると、敗者に割かれるものが大きいように思う。

 

ある種、様式美と言えるまでになっている「若者の涙」は、なぜこれほど必要とされるのか。

一つに「敗者の救済」としての役割がある。

高校サッカーを例に取るなら、最後まで勝ち続けられるのは一校だけで、

地方大会まで含めればとてつもない人数が涙を呑んでいる。

では、目的である「勝利」を達成できなかった彼らの努力は無駄だったのか。

スポーツに限った話ではない。

何を勝ち負けとするかによるが、人生を通じて勝ち続けられる人などいない。

人生で一回でも「大勝利」と思えるような機会に遭遇できればまだマシなほうだろう。

ある目的のために払った努力・コストは感情的にも「無駄じゃない」と言いたくなる。

もし、ある目的達成のための努力が無駄なら、ささげた時間は無意味だったことになる。

その時間は二度と戻らないわけだから、すさまじい徒労感がその人を襲うだろう。

システムとしても「無駄かもしれない」という感覚を放置するわけにはいかない。

資本主義というシステムから考えると、どこかで負けても再び競争に参入してもらわなければ市場は発展しない。

たった一度の失敗で、出社しなくなっては困るのである。

だから、自分を納得させるためにも、システムを維持するためにも「努力は無駄じゃない」というメッセージが求められるようになる。

しかし、そんなこと自分で勝手に「努力は無駄にしない」と思えばいいだけではないだろうか。

なぜ、全国ネットで四六時中、若者の涙を見ねばならないのか。

これまた僕の勝手な持論なのだが、日本人は「不安」な民族だと僕は思っている。

ある出来事に対して評価を下す際に、自分一人では不安で下せないのだ。

この特性が端的に現れているのが、日本バラエティー番組だと思う(またテレビの話)

日本のバラエティー番組の中に、一時間ひたすらスタジオのゲストがVTRを見るという形式のものがたくさんある。

『世界まる見え!』とか『イッテQ』とか。

この形式だからこそ「ワイプ芸」も重要性を帯びてくるわけだ。

いつも、見ながら「これスタジオいらなくない?」「VTRだけ流しても普通に番組として成立するんじゃない?」と思ってしまう。

しかし、視聴者はVTRの中でどこがおもしろいのかを芸人という「笑いのプロ」やタレントという「一般人の代弁者」に明示してもらえなければ不安なのだと勝手に推測している。

だから、スタッフ笑いやら観覧客の笑いやらも重要になってくる。

まあ、アメリカのホームドラマとかもすごく笑い声が挿入されてるので日本に限った話ではないのかもしれない。

 

ここで、話が「敗者の救済」に戻ってくる。

つまり、「努力は無駄ではない」というメッセージをメディアを通じて確認しなければ不安になってしまう。

逆に言えば、そのような不安を和らげるために「努力は無駄ではない」というメッセージを発し続ける必要がある。

社会学っぽく言えば、「若者の涙」は特に精神的な側面における労働力の再生産のために必要となるコンテンツだと言えるだろう。

では、そのコンテンツはどうすれば効果を最大化できるのか。

重要なのは、努力の「純粋さ」だ。

よけいなことをせず、いかに一つの目標のために精神的にも肉体的にも時間を費やしたかが問題となる。

高校や大学であれば、基本的に3年や4年という時間制限もあり、「次」があるプロと比べても一つの試合や大会にかける思いが大きい。

(実際は、プロだって頑張っているわけだが、見ているこちら側が勝手に切実さを読み込んでしまう。)

余談だが、負けて彼女に慰められる高校球児の画像がネットで炎上するのも若者に純粋さが読み込まれている一つの証拠だろう。

貴重な若い時間の全てをささげた(とされる)人々が負け、涙を流したとき、コンテンツとして最も分かりやすくケチのつけようのないものとなる。

 

まとめると、ほとんどの人間が「負ける」資本主義社会において「これだけ頑張ってダメだったけど努力は無駄じゃないんだよ次につながるよ」というメッセージは、常に人々から必要とされている。

黙って再生産されていればいいものを、こんな風に分析してしまう自分は間違いなく「純粋」ではないだろう。

ただ、こういうことを指摘したのは「高校サッカー的」、あるいは「甲子園的」なコンテンツを批判したいわけではない。

かくも巨大な競争システムの中でもがき、敗北し、疲れては、日々だらだらと目に触れるコンテンツによって再生産され、再び競争の中に飛び込んでいくのかと思うと、自分は滑稽だと思った次第である。

 

日本の就活ってどんなもんよ?という話

日本で就職しようと思ったら多くの人が避けて通れないのが俗に言う「就活」だ。

僕も一応就活を経験し、単位さえ取り切れば4月から社会人になる。

結局、就活に参加し内定をもらった僕だが、就活が始まる前の就活に対するイメージは最悪だった。

何万人もの学生が同じスーツを着て、嘘を並べ、一番口の上手いやつが内定をかっさらう。

こういうイメージを持っている人はそれなりにいると思う。

根拠のない推定だが、海外生活に慣れている人ほどより就活への憎悪みたいなものが強い気がする。

ただ、就活を進める中で初めから拒否反応を持ちすぎると色々と見えなくなることがあるのではないかと思い、ここに考えたことを書いてみる。

最初に言っておくが、この記事は就活を絶対的におススメするものでもなければ、

就活に対する不満をぶちまけるものでもないし、内定の取り方を教えるものでもない。

 

初めに僕の就活ステータスをおさらいしておこう。

受けた会社の数は20社くらいであまり多くないかもしれない。

決まったのは、6月半ばでかなり遅い部類に入る。

内定は2社から(しか)もらった。

色々と予定外のことはあったが、結果的には自分の内定先に満足していて不満はない。

業界は、日系企業で広告関連という感じである。

 

見ての通り、あまり標準的な就活生ではないかもしれない。

めちゃくちゃな人数が新卒で入社する銀行なんかは受けていないし、受けた数も少ない方だと思う。

ただ、就活生が経験する合同説明会、座談会、ウェブテスト、面接、グループディスカッション等は一通り経験しているから、そこまで変な就活生ではない。

ここからは、就活を経る前の僕が就活を嫌いな理由に答える形で進めていきたい。

 

1.「リクルートスーツ着るのマジで嫌なんだけど」

 まあ、その気持ちは分かる。

就活と言えば、就活解禁と同時にニュースで流れる合同説明会(合説)の映像だろう。

数千人が髪型、服装を全て揃え企業担当者の話を聞く様はなかなかに気味が悪い。

この映像を見て、日本の就活は個性を殺す、と直感するのも無理はない。

ただ、サラリーマンとは基本的にスーツを着る人種である。

夏、アメリカのニューヨークでインターンをしていた時、金融街を通ると

うだるような暑さの中、サラリーマンたちが長袖シャツにネクタイの装備で

汗だくになりながらうろうろしていた(西海岸とかだと違うのかもしれないけど)。

猛暑の中でスーツを着ているのは日本人だけではないらしい。

 

結局スーツというのは、相手が人間としてコミュニケーションを取るに足るかを判別するためのアイテムである。

そういう判断の方法が正しいかはさておき、世の中はそういうルールで回っている。

問題は、そのルールの外に出てでも私服を着たいのか、という点だ。

僕自身、服が大好きで、いつも服を買いすぎて月末は非常に貧しい生活を送っている。

しかし、スーツを着るだけで相手の信頼を得られて面白い仕事ができるなら、スーツを着てもいいと思うタイプの人間だ。

ただ、自分の服が自分そのものであるほどの重要性を持つなら話は別だと思う。

身にまとう服そのものがあなたの強烈なステートメントであり、服無しでは自分が自分でなくなるほどなら、服装に関する条件を優先すべきだと思う。

 

就活で感じたのは、絶対スーツで行かなければならない面接は少ないということ。

私服で来い、と言われるパターンも多い。

ただ、普通はスーツで行く場を私服で行く場合は合理的な説明が求められる。

普通のビジネスシーンではスーツで臨むのが信頼という点でも合理的だ。

そこをあえて違う行動を取っている場合は、合理性が求められる。

逆に言えば、合理的であるならば私服でもOKな場合はかなりあるように思われた。

 

ここでの結論は、「私服は好きだしスーツは好きじゃないけど、もっと優先すべきことが自分にはあった」である。

 

2.「一人一人の個性を見ていない。結局しゃべれるやつが勝つんでしょ?」

この疑問は、半分当たっていて半分外れている。

大手企業となれば、何千人もの学生が殺到し1次面接は10分だけ、なんてケースは一般的だ。

正直、この短時間で分かるのは受験者の本当に一部だ。

エントリーシートだって「本当に読んでんのか?」と思った経験が何度もある。

 

ただ、就活をしていく中で気づいたけど、世の中もこんなもんなんだと思う。

まだ社会に出ていないから偉そうなことは言えないけど、お互いがお互いを知っている村でもない限り、自分の存在は叫ばないと気付いてもらえない。

多くの人は、学生の間、特に利益を提供しなくても自分を認識してくれて、長い時間を共有する中で特に主張しなくても個性を認めてくれて、意地悪をしなければそれなりに自分を尊重してくれる友人に囲まれて過ごす(学校はそんなにいい場所じゃない!と思う人もいるかもしれないが)。

良くも悪くも、学校の外の世界にそんな余裕はない。

目の前の人間は、自分に利益をもたらすのか、自分が時間を割くべき相手なのかを一瞬で値踏みされる。

だから、こちらも一瞬で相手にとって有益な人間であることを直感させなければならない。

就活は、その前哨戦というわけだ。

 

さらに加えるならば、「強烈な個性」とまで言えるものを持っている人はあまりいないと思う。

そんなことない!自分の周りにはおもろい奴がいっぱいいて、みんな個性的だ!と思うかもしれない。

しかし、人間がしっかり顔と印象を認識できる友人の数は150人だと言われている。

つまり、僕らはその150人くらいの中で「個性的」なのではないか。

何千、何万という人間の群れの中で本当に自分は「個性的」なのか。

残酷だけど、ほとんどの人は数千、数万単位の人間の中では大して目立たないし印象にも残らない(もちろん僕もそうだ)。

だから、自分がどれだけ他人と違うのかをしっかりと強調し、説明する必要があると言える。

それが就活の面接で感じる嘘っぽさの正体であり、「しゃべりの上手い奴が勝つ」と感じる原因だろう。

 

この問題に関して、違和感を向けるべき対象は就活というよりも教育制度だと思う。

今まで、二十数年間、自分のプレゼンテーションなんてほとんど練習する機会がなかったのに、就活という人生の転機において突然プレゼンスキルを求められるのはなんだか納得のいかない理不尽な感覚があった。

まあ、日ごろから社会人と関わっていれば、そんなことは当たり前なのかもしれないが。

 

3.「理由も分からずフィードバックも無しに落とされるのは嫌だ」

この点は、実際に就活をしてみてつらい要素だった。

まあまあ時間をかけて、志望度も高かったのにメールであっさり「お祈り」される。

僕自身も、なかなか内定をもらえず、精神的に追い詰められた時期もあった。

自分が落とされた理由は基本的に教えてもらえず、次に生かそうにも自分で自分の面接を振り返るしかない。

自分なりの反省を積み重ねて受け続けるしかないのだが、そこまでメンタルの強い人もそう多くないだろう。

ただ、不合格になるという点に関しては就活特有の問題とは限らない。

留学中、海外の学生も不合格が続いてなかなか決まらないときはしんどかったという旨の話を聞いたことがある。

強いて就活特有のしんどい要素を探せば、時期が限られる、学校に残るのが難しい、といった点があるかもしれない。

大手企業の就活は時期が決まっている。チャンスを逃せばまた来年だ。

つまり、自分のペースで受けることはできない(自分のペースなんてものがどれだけ有効なのかはさておき)。

また、多くの人は大学の最終学年で就活するので失敗すると留年しなければならない。

学費と生活費のほとんどを家庭が負担する(国が負担してくれない)日本では、留年が非常に大きな経済的負担となる。

僕も浪人と留学で+2年だったので、これ以上、実家に迷惑をかけられないという経済的なプレッシャーが一番大きかった。

 

2番にも関連するが、面接官が確固たる理由をもって学生を落としているかは定かではない。

なんとなくフィーリングが合わなかったから落としているだけで、フィードバックなんてやりようがないのかもしれない。

ただ、なんとなくフィーリングが合わない人間と毎日顔を突き合わせて働けるかというと微妙なところである。

特別な専門性がない限り、ほとんどの就活生の能力はそこまで変わらない(その結果が日本の教育制度のあるべき姿かと言えば疑問だが)。

だから、「人間力」とかいうほとんど中身のない偉そうな言葉が飛び交うのかもしれない。

ただ、「ビジネス」と大げさに言ってみたところで、究極的には仕事なんて人と人のコミュニケーションがほとんどだと思う。

だとすれば、地頭の良さ以上に雰囲気という言語化と定量化の難しいものが評価されるのも少しは納得できる。

少なくとも言えるのは、ノリの合わない会社に入るのは悲劇だと思う。

僕自身、それなりに志望度の高い企業の面接を受け、ある程度進んだ段階で突然「え、なんか全くノリが合わないんだけど」と感じた経験がある。

実際、面接は不合格だったし僕も何のショックも受けなかった。

とはいっても、落ちるのはつらいし理由を教えてくれないのもつらい。

改善が必要な部分だろう。

 

4.「就活のメリットってなんだ」

ここまでは就活への悪印象に対する防衛だった。

最後に、僕が就活をしてよかったと思う点を並べてみる。

ちなみに、入社後に感じるであろうメリットは分からないので就活と言うプロセスの中で感じたメリットだけを書く。

○普段会えないような人に会える。

就活で面接をしてくれるのは企業のわりと偉い人たちである。

社長が出てくる会社もある。

僕も、ツイッターで有名な某企業の役員の方に面接してもらった。

そういう人とサシで話そうとすれば、ビジネスで対等な立場になるか、講演会にでも行くしかない。

地位が高ければ偉いというわけではないが、自分の2倍近い期間を生きてきてそれなりに結果を残してきた人々である。

そういう人と話せる機会はそうそうないと思った。
面接だけでなく、OB訪問したいと言えば全く関わりがなくても興味のある業界の第一線で働く人が(普通は)タダで会ってくれる。

○自分を知れる。

全員が直面する悩みか分からないが、僕は就活の全期間を通じて自分は何がしたいのか、どんな人間なのか悩み続けていた。

自分のことを知るのは難しい。

普通に生きていて、自分がどんな人間かを振り返る機会などほとんどないからだ。

「自己分析」というとどこか嘘っぽくて、テクニカルなイメージがついてしまっているけど、要は自分は何をすれば喜び、何をされたら嫌なのか、何をやりたくないのか、何を恐れているのか、を知る作業だと思う。

自分が何をすれば喜ぶのかは決定的に重要だと思う。

「お菓子食べてれば幸せ」「寝てれば幸せ」という人もいるかもしれない。

じゃあ、無限にお菓子が出てきて、食べることと寝ること以外何もしなくていいという場面を想像してみる。

飽きそうだな、と思ったなら、お菓子と睡眠はあなたにとって重要ではあるが、本質的なことではないのかもしれない。

僕自身、自分については分からないことが多い。

ただ、一つ分かったのは、気の合う人が周りにいなければダメだ、ということだ。

では、どんな人と「気が合う」のか。

僕が一緒にいて楽しいと思うのは、変なことや新しいことを否定せず、その場が楽しくなるように努め、ノリが良い人だ。

そういう人に囲まれれば、給料が安くても仕事そのものがつらくても自分は最低限充実していると言えると思う。

 これは僕の個人的な条件なので、これから就活する人は条件に付いてゆっくり考えてみるといいと思う

 

最後に…

最初に言ったように僕はこの記事を通じて、就活を称賛したいわけではない。

正直、問題点はたくさんあると思う。

ただ、独特な習慣でところどころ非合理的だからといって、

過度に悪いイメージを想像で作り上げて叩くのは自分の可能性を狭めると思う。

自分を知って、自分のやりたいことがぼんやりとでも見えたなら就活という場を利用できないか検討してみる価値はあると思う。

私服を通すこと、自分を売り込まないこと、選考で落とされることが、自分にとって最も大事な価値なのかは考える必要がある。

就活のために髪を黒く染めてリクルートスーツを着て自分の経験を盛って話したからといって、それは負けではないと僕は思う。

自分にとってベストの環境を手に入れられないことが負けなのだ。

 

壁の上に立つということ

最近、あるCMの、ある一節が僕の心の中をぐるぐる回っている。

「壁があるなら、壁の上に立ってしっかり向こう側を想像してやろうじゃないか」

youtu.be

僕が大のワンオク好きであることを差し引いてもすごくいいCMだと思う。

たぶん、今まで社会に流布されてきたイメージをなぞるのであれば、

「壁を壊そう」というフレーズになっていたと思う。

なぜ、「壁」を壊さず、上に立つのか。

人と人の間の壁を壊すと言うことは、人と人が分かりあうということだ。

お互いの違いを理解し、尊重する。

当然のことであり、どこか無条件に「良いこと」である思うだろう。

しかし、他人を理解することなど可能なのか。

理解できていないのに、理解したつもりになって、いつの間にか自分の考えを押し付けることになってはいないか。

壁を壊して行き来自由になったと思い込み、無節操に他人の領分を踏み荒らしてはいないか。

テロ事件とか移民の流入とかナショナリズムの高揚とか、目にするのもすでに飽き飽きするようなニュースの群れが、「他者理解の不可能性」とでもいうべきものを我々に突き付けているのが現実だ。

 

他人を完全に理解することなんてできない。

人それぞれに固有の人生があって、その人生の間の差異が個性というものを成り立たせ、その個性こそが一人の人間が尊重される最も重要な根拠とされているのに、

なぜか個性は理解可能なものであると想定されている。

相手も自分も同じ人間だから分かりあえる、と無条件に考えてしまうからこそ、自分と違う考えの人間に対して怒りが湧いてくることもある。

自分とは違う考え方に対して「差別」や「抑圧」というレッテルを張ってしまうこともある。

人の個性の中でも、「宗教」や「言語」や「文化」といった途方もない時間の中で築き上げられた要素は、どれだけ「ロジック」という人類共通の道具(とされているもの)を使っても崩すことができない。

理解できると考えれば考えるほど、思い通りにならないことにいら立ってしまう。

 

世界は、「壁は壊すものではない」と気付き始めている。

お互いに壁を築いて、お互いの領分に関わらないように生きていく世の中がやってくるかもしれない。

だけど、お互いに新しく壁を築き合って、相手の顔も見ないようにする前にできることがあるのではないか。

壁をぶっ壊して他人の領分に土足で上がり込み、「仲良くしよう」と言う前にやるべきことがあるのではないか。

そう、まず僕たちは壁を壊したり分厚くしたりする前に、壁の上に立って相手のこと想像すること。

その想像と現実はおそらく一致しないであろうし、想像を押し付けようとすればそれは再び「相互理解」を強いることにもなるだろう。

 

思えば、僕らは「全てが思い通りになる」、

つまり「想像と現実は必ず一致する」という風に考えすぎなのかもしれない。

今やポケットに収まるデバイスで世界中とつながれることを考えれば、それも致し方ないのかもしれない。

しかし、いまだに僕らは隣の人に自分の気持ちを伝えることにすら四苦八苦しているし、自分のふるまいですら思い通りになるとは限らない。

思わぬ一言が人間関係に溝を生んだり、そんな自分に怒りややるせなさを感じたり。

だが、歴史を振り返ってみれば、その想像と現実の差異に「なぜ?」と思えること、好奇心を持ち得ることが人間の人間たる理由であるように僕は思う。

問い、答え、再び問う。

その繰り返し。

完全な解など永遠に現れない。

「問う」という行為は、まず壁の上に立とうとすることであり、

「答える」という行為は、しっかりと想像しようとすることである。

想像すればするほど、想像との差異をはっきりと認識できる。

現実と想像の差異を意識するほど、現実に新たな問いを立てられる。

想像すること、想像と現実の差異を知ること、そして新たな想像で現実に立ち向かうことを楽しめるのは人間だけだと思う。

逆に、想像力が貧しければ貧しいほど現実と想像の区別がつかず、その差異に苛立つ。

思い通りにならないことに怒りを感じる。

 

24年ほど生きてきたが、なんとなく色んなことが想像の範囲内に収まっているような気がして、油断すると自分の中の好奇心の火が消えてしまいそうになることがある。

様々な壁を乗り越えたり壊しながら進んできたような気分になっているけれど、

今一度、目を凝らして自分を取り巻く壁に意識的になってみようと思う。

そして、壁の上に立って、しっかりと向こう側を想像してやるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

留学することの市場価値

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デンマークから帰国して約1年がたった。

月日が流れるのは本当に早くて、この1年何をしていたのかはよくわからない。

とりあえず仕事を探したり授業に出たりしていたのだと思う。

 

留学というのは、当たり前のことながら、

自分の人生を振り返ってみても、とても重要かつ思い出深い時期だった。

日本語ではない言語でコミュニケーションをとり、

全く新しい人間関係と環境の中で暮らす経験が自分史の中で大きな位置を占めるのは当然である。

一方で、帰国してすぐに日本の環境に適応し、忙しい(あるいは実際には忙しくないのに何らかの不安と焦りに追われる)生活に逆戻りした自分がいた。

デンマークで刷り込まれた時間間隔は、驚くような速さで洗い流されてしまった。

「留学とは自分にとって何だったのか」という問いが頭をもたげた。

帰国してすぐに就職活動を始め、「自分」について深く掘り下げる必要が出てきたのも

その問いを生んだ大きな理由だろう。

デンマークという珍しい国に行ったこともあって、

相手から経験を尋ねられることももちろん多かった。

そして、自分としても大きな経験であることは間違いないから、

積極的にデンマークでの留学経験を語ろうとしていた。

 

しかし、「留学経験」を語るのは非常に難しい行為でもある。

 

たかだか数か月から数年の滞在にも関わらず、

留学先の国について語られることを求められる。

自分は面接などの場を含め、幾度となく

デンマークという多くの人にとって未知の国の印象を語ってきた。

そして、

その語りが相手にとってデンマークという国の

ファーストインプレッションになったり、

北欧に対してユートピア的なイメージを持つ人の

思想を助長させたりする光景を幾度となく見てきた。

臆病な自分は、基本的に「1年だけ住んだ感想ですが」という留保を置くようにしているが、

聞いている側にとってはほとんど関係ないだろう。

一年暮らしただけで、ある国に関して特権的な地位を得てしまうというのは、

個人的には歯がゆさにも似た感情を覚えるが、

逆にその特権性に飲まれ、自分が暮らした国について語り散らしたり、

その国にまつわる活動に積極的に関わる人が出てくるのも理解できる。

 

「留学経験」の語りの困難さとしてもう一つ

「留学が自分に及ぼした影響」という問いがある。

この問いもなかなかに答えるのが難しい。

 

たまに、留学前と留学後で劇的な変化を遂げる人もいるが、

自分の場合はそうではなかった。

多大なる影響を受けたことは間違いないが、どうも具体的な言葉にならない。

「物事の考え方」とか「時間の感覚」とかそんな次元でしか語れないのである。

もちろん、留学中にインターンを経験したりもしたから、

スキル面で成長した点はある。

そのインターンデンマークでしかできないことであったのは間違いないが、

それは「インターン経験」であり、留学経験の総体ではない。

「留学が自分に及ぼした影響」を考えることは、

「留学に行かなかった自分」をパラレルに想像することでもあるはずだが、

その点に注意が払われることはあまりないように思う。

それなりのリソースを掛けて海外で暮らしたのだから、

留学に行かない方が良かったという結論が出る可能性を恐れているのかもしれない。

ただ、留学が自分の及ぼした影響が複雑であるがゆえに、

「違った視点から物事を見られるようになった」とか「世界中の人と心を交流できた」

という紋切り型の留学経験談が多く見られるのは何とも残念に思えてしまう。

 

大味な経験談や教訓のつまらなさ、画一性を支点として考えてみると、

僕らの留学経験が思えてくるのは留学中のなんでもない一コマにおける母国との小さな違いの積み重ねみたいなものなのかもしれない。

自分がいたデンマークで言えば、よく行っていた公園の広さであったり、

石畳の街路のでこぼこ加減であったり、

町中で聞こえてくるけれど意味は分からないデンマーク語の音であったり、

そういう積み重ねが、「留学して良かった」と思える根拠なのかもしれない。

しかし、それは経験したものにしか分からないし、自分の市場価値を高めてくれるものでもない。

そんな話を面接でしたって、わかってはもらえないだろう。

自分は、留学経験を語るよう求められたとき、その「豊かだが個人的で些細な経験」と「評価はされるが誰にでも語れる経験」の差を埋められず、就職活動で積極的に留学中の経験を語ることをやめてしまった(聞かれたら答えたけれど)。

もちろん、それは僕自身の力不足によるものである。

しかし、多くの留学経験者が自分の市場価値として留学経験を挙げようとする(あるいは、市場価値を高める“ため”の留学だったのかもしれないが)現状を見ると、「留学」という行為が当人を幸か不幸か強力に拘束する経験となっているようにも思う。

 

留学の価値は必ずしも自身の市場価値の向上にあるとは限らない。

目的無き留学、つまり投資に対するリターンを考慮しない留学を批判する人は実業家界隈に沢山いるが、自分はそういう人とはあまり相性が良くないのだと思う。

つまり、僕は自分の市場価値を高めることに関心がない。

しかし、常に市場価値を計られる現代において、「興味がない」で通すことも難しい。

お金に興味はないが、お金を使って実現できることには大いに興味がある。

これからも、自分の経験を加工し、市場価値があるように見せかけたうえで発信していくシチュエーションは多々あるだろう。

 

ただ、僕の中で「市場価値」というものと「留学」はあまり結びつかないし、

これからも積極的に結び付けようともしないだろう。