なすの日記

思考を散歩させるための場所

壁の上に立つということ

最近、あるCMの、ある一節が僕の心の中をぐるぐる回っている。

「壁があるなら、壁の上に立ってしっかり向こう側を想像してやろうじゃないか」

youtu.be

僕が大のワンオク好きであることを差し引いてもすごくいいCMだと思う。

たぶん、今まで社会に流布されてきたイメージをなぞるのであれば、

「壁を壊そう」というフレーズになっていたと思う。

なぜ、「壁」を壊さず、上に立つのか。

人と人の間の壁を壊すと言うことは、人と人が分かりあうということだ。

お互いの違いを理解し、尊重する。

当然のことであり、どこか無条件に「良いこと」である思うだろう。

しかし、他人を理解することなど可能なのか。

理解できていないのに、理解したつもりになって、いつの間にか自分の考えを押し付けることになってはいないか。

壁を壊して行き来自由になったと思い込み、無節操に他人の領分を踏み荒らしてはいないか。

テロ事件とか移民の流入とかナショナリズムの高揚とか、目にするのもすでに飽き飽きするようなニュースの群れが、「他者理解の不可能性」とでもいうべきものを我々に突き付けているのが現実だ。

 

他人を完全に理解することなんてできない。

人それぞれに固有の人生があって、その人生の間の差異が個性というものを成り立たせ、その個性こそが一人の人間が尊重される最も重要な根拠とされているのに、

なぜか個性は理解可能なものであると想定されている。

相手も自分も同じ人間だから分かりあえる、と無条件に考えてしまうからこそ、自分と違う考えの人間に対して怒りが湧いてくることもある。

自分とは違う考え方に対して「差別」や「抑圧」というレッテルを張ってしまうこともある。

人の個性の中でも、「宗教」や「言語」や「文化」といった途方もない時間の中で築き上げられた要素は、どれだけ「ロジック」という人類共通の道具(とされているもの)を使っても崩すことができない。

理解できると考えれば考えるほど、思い通りにならないことにいら立ってしまう。

 

世界は、「壁は壊すものではない」と気付き始めている。

お互いに壁を築いて、お互いの領分に関わらないように生きていく世の中がやってくるかもしれない。

だけど、お互いに新しく壁を築き合って、相手の顔も見ないようにする前にできることがあるのではないか。

壁をぶっ壊して他人の領分に土足で上がり込み、「仲良くしよう」と言う前にやるべきことがあるのではないか。

そう、まず僕たちは壁を壊したり分厚くしたりする前に、壁の上に立って相手のこと想像すること。

その想像と現実はおそらく一致しないであろうし、想像を押し付けようとすればそれは再び「相互理解」を強いることにもなるだろう。

 

思えば、僕らは「全てが思い通りになる」、

つまり「想像と現実は必ず一致する」という風に考えすぎなのかもしれない。

今やポケットに収まるデバイスで世界中とつながれることを考えれば、それも致し方ないのかもしれない。

しかし、いまだに僕らは隣の人に自分の気持ちを伝えることにすら四苦八苦しているし、自分のふるまいですら思い通りになるとは限らない。

思わぬ一言が人間関係に溝を生んだり、そんな自分に怒りややるせなさを感じたり。

だが、歴史を振り返ってみれば、その想像と現実の差異に「なぜ?」と思えること、好奇心を持ち得ることが人間の人間たる理由であるように僕は思う。

問い、答え、再び問う。

その繰り返し。

完全な解など永遠に現れない。

「問う」という行為は、まず壁の上に立とうとすることであり、

「答える」という行為は、しっかりと想像しようとすることである。

想像すればするほど、想像との差異をはっきりと認識できる。

現実と想像の差異を意識するほど、現実に新たな問いを立てられる。

想像すること、想像と現実の差異を知ること、そして新たな想像で現実に立ち向かうことを楽しめるのは人間だけだと思う。

逆に、想像力が貧しければ貧しいほど現実と想像の区別がつかず、その差異に苛立つ。

思い通りにならないことに怒りを感じる。

 

24年ほど生きてきたが、なんとなく色んなことが想像の範囲内に収まっているような気がして、油断すると自分の中の好奇心の火が消えてしまいそうになることがある。

様々な壁を乗り越えたり壊しながら進んできたような気分になっているけれど、

今一度、目を凝らして自分を取り巻く壁に意識的になってみようと思う。

そして、壁の上に立って、しっかりと向こう側を想像してやるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

留学することの市場価値

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デンマークから帰国して約1年がたった。

月日が流れるのは本当に早くて、この1年何をしていたのかはよくわからない。

とりあえず仕事を探したり授業に出たりしていたのだと思う。

 

留学というのは、当たり前のことながら、

自分の人生を振り返ってみても、とても重要かつ思い出深い時期だった。

日本語ではない言語でコミュニケーションをとり、

全く新しい人間関係と環境の中で暮らす経験が自分史の中で大きな位置を占めるのは当然である。

一方で、帰国してすぐに日本の環境に適応し、忙しい(あるいは実際には忙しくないのに何らかの不安と焦りに追われる)生活に逆戻りした自分がいた。

デンマークで刷り込まれた時間間隔は、驚くような速さで洗い流されてしまった。

「留学とは自分にとって何だったのか」という問いが頭をもたげた。

帰国してすぐに就職活動を始め、「自分」について深く掘り下げる必要が出てきたのも

その問いを生んだ大きな理由だろう。

デンマークという珍しい国に行ったこともあって、

相手から経験を尋ねられることももちろん多かった。

そして、自分としても大きな経験であることは間違いないから、

積極的にデンマークでの留学経験を語ろうとしていた。

 

しかし、「留学経験」を語るのは非常に難しい行為でもある。

 

たかだか数か月から数年の滞在にも関わらず、

留学先の国について語られることを求められる。

自分は面接などの場を含め、幾度となく

デンマークという多くの人にとって未知の国の印象を語ってきた。

そして、

その語りが相手にとってデンマークという国の

ファーストインプレッションになったり、

北欧に対してユートピア的なイメージを持つ人の

思想を助長させたりする光景を幾度となく見てきた。

臆病な自分は、基本的に「1年だけ住んだ感想ですが」という留保を置くようにしているが、

聞いている側にとってはほとんど関係ないだろう。

一年暮らしただけで、ある国に関して特権的な地位を得てしまうというのは、

個人的には歯がゆさにも似た感情を覚えるが、

逆にその特権性に飲まれ、自分が暮らした国について語り散らしたり、

その国にまつわる活動に積極的に関わる人が出てくるのも理解できる。

 

「留学経験」の語りの困難さとしてもう一つ

「留学が自分に及ぼした影響」という問いがある。

この問いもなかなかに答えるのが難しい。

 

たまに、留学前と留学後で劇的な変化を遂げる人もいるが、

自分の場合はそうではなかった。

多大なる影響を受けたことは間違いないが、どうも具体的な言葉にならない。

「物事の考え方」とか「時間の感覚」とかそんな次元でしか語れないのである。

もちろん、留学中にインターンを経験したりもしたから、

スキル面で成長した点はある。

そのインターンデンマークでしかできないことであったのは間違いないが、

それは「インターン経験」であり、留学経験の総体ではない。

「留学が自分に及ぼした影響」を考えることは、

「留学に行かなかった自分」をパラレルに想像することでもあるはずだが、

その点に注意が払われることはあまりないように思う。

それなりのリソースを掛けて海外で暮らしたのだから、

留学に行かない方が良かったという結論が出る可能性を恐れているのかもしれない。

ただ、留学が自分の及ぼした影響が複雑であるがゆえに、

「違った視点から物事を見られるようになった」とか「世界中の人と心を交流できた」

という紋切り型の留学経験談が多く見られるのは何とも残念に思えてしまう。

 

大味な経験談や教訓のつまらなさ、画一性を支点として考えてみると、

僕らの留学経験が思えてくるのは留学中のなんでもない一コマにおける母国との小さな違いの積み重ねみたいなものなのかもしれない。

自分がいたデンマークで言えば、よく行っていた公園の広さであったり、

石畳の街路のでこぼこ加減であったり、

町中で聞こえてくるけれど意味は分からないデンマーク語の音であったり、

そういう積み重ねが、「留学して良かった」と思える根拠なのかもしれない。

しかし、それは経験したものにしか分からないし、自分の市場価値を高めてくれるものでもない。

そんな話を面接でしたって、わかってはもらえないだろう。

自分は、留学経験を語るよう求められたとき、その「豊かだが個人的で些細な経験」と「評価はされるが誰にでも語れる経験」の差を埋められず、就職活動で積極的に留学中の経験を語ることをやめてしまった(聞かれたら答えたけれど)。

もちろん、それは僕自身の力不足によるものである。

しかし、多くの留学経験者が自分の市場価値として留学経験を挙げようとする(あるいは、市場価値を高める“ため”の留学だったのかもしれないが)現状を見ると、「留学」という行為が当人を幸か不幸か強力に拘束する経験となっているようにも思う。

 

留学の価値は必ずしも自身の市場価値の向上にあるとは限らない。

目的無き留学、つまり投資に対するリターンを考慮しない留学を批判する人は実業家界隈に沢山いるが、自分はそういう人とはあまり相性が良くないのだと思う。

つまり、僕は自分の市場価値を高めることに関心がない。

しかし、常に市場価値を計られる現代において、「興味がない」で通すことも難しい。

お金に興味はないが、お金を使って実現できることには大いに興味がある。

これからも、自分の経験を加工し、市場価値があるように見せかけたうえで発信していくシチュエーションは多々あるだろう。

 

ただ、僕の中で「市場価値」というものと「留学」はあまり結びつかないし、

これからも積極的に結び付けようともしないだろう。

なぜシリコンバレーの企業は壮大なビジョンを掲げるのか ーミレニアル世代と目的感ー

グーグルとかフェイスブックとかアマゾンとか、僕がなんとなくかっこいいと思っているグローバル企業には、そろってかっこいいビジョンがある。

 

グーグルなら、「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」 

フェイスブックなら「誰もが安心して情報を共有できる、オープンでつながりのある世界を実現したい

アマゾンなら「地球上で最もお客様を大切にする企業であること

 

大体、どんな会社もビジョンやらミッションは持っていて、

大体、聞こえのいい言葉を採用しているので、ビジョンを掲げること自体は特別なことではない。

先に掲げたグローバル企業が特殊なのは、その社員の多くが当たり前のようにビジョンに共感し、その達成のために動いている点だ。

典型的な日系大手企業でもビジョンは掲げるものの、それが現場レベルまで浸透しているかは怪しい。

そもそも、ビジョンが数年ごとに変わったりする。

 

就職活動を例に考えてみても、グーグルやフェイスブックを受けるならば、ビジョンへの理解と共感は必須であると言ってよい。

彼らのビジョンへの執着は、もはや宗教に近いと感じられることもままあり、いつも自社ロゴのTシャツを着て、自社愛を口にする。

 

一方、日系大手企業の場合、取り立ててビジョンへの理解と共感をアピールする必要はない。

ビジョンは誰でもホームページ上で確認できるがゆえに、特別なアピールにならない可能性が高い。

 

ではなぜ、シリコンバレーの新興グローバル企業(もはや新興とは言わないかもしれないが)は、大きなビジョンを持ち、それが宗教的なまでに社員に行き渡っているのか。

理由は沢山あるが、この記事ではそのうち一つを、つい先日フェイスブック創業者であるマーク・ザッカーバーグハーバード大学の卒業式で行ったスピーチの内容から考えてみたい。

(訳はこちら)

ザッカーバーグのハーバード卒業式スピーチが感動的だったので日本語訳した。 | 倉本圭造

 

このスピーチの中で、彼の提示したテーマが「目的感」だった。

ざっくり要約すると、

現代(特に先進国)は、地縁や宗教的コミュニティが解体され、人々は豊かになったものの俗に言う「大きな物語」を失ってしまった。

だからみんなで、多くの人が目的意識を持てるような大きなプロジェクトとそこに参加する自由、コミュニティを改めて作り上げよう。

みたいな話だったと思う。

 

「目的」に注目したザッカーバーグの指摘は、非常に鋭いと思う。

世の中が豊かになればなるほど、強い目的意識を持つのは難しい。

子供の頃、何不自由なく育ち、それなり以上の教育を受ければ、少なくとも生き延びることはできる。

しかし、生存から一歩離れ、自己実現や社会貢献といったことを考え始めると途端に困難に直面する。

世の中には、問題が溢れすぎていて、その中から自分が時間と労力を注ぎ、解決に取り組むものを選ぶ際に基準となるのは、「経験」だ。

しかし、恵まれた環境で育っていれば、自分を強くモチベートしてくれるような困難に直面する機会はそうそうない

あったとしても、それは貧困や暴力とは違った、受験とか面接といった「贅沢な」困難でしかないだろう。

 

社会に貢献するためのスキルはどんどん蓄積されていくにもかかわらず、そのスキルをどこに向けて発散して良いのか分からない。

これがかなり一般化したミレニアル世代の悩みだと僕は考えている。

(もちろん、ミクロレベルで見れば個人的に様々な深刻な困難に直面した人は沢山いると思うので、あくまで理念型だと思ってもらいたい。)

そういう「優秀な」若者が取りうる方向性としては、

①割り切る

②「興味」にフォーカスする

③可能性を減らさない進路に進む

④共感できるビジョン(目的)を探す

の4つが考えられる。

 

まず、①は、自分の人生を自分の欲求を満たすだけのものと割り切る態度である。

世の中には沢山の問題があるし、世界が良くなればいいとは思っているが、自分が頑張っても社会は変えられないし、何より、それなりに良い暮らしがしたい。

キレイな家に住み、美味しいものを食べ、海外旅行に行きたい。

だから、会社は自分がお金や社会的地位をもらうツールでしかないと殊更に強調する。

欲求の充足と社会貢献への意識が矛盾しているという前提の下で、矛盾を解消しようとする態度ともいえる。

多くの場合、こういう人は「短い人生を楽しみたい」と言ったり「死ぬまでにやることリスト」みたいなものを持っていたりすると思う。

この態度は、自分が社会に対して問題意識を持てないことへの罪悪感の裏返しでもある。

 

②は、自分が昔から好きだったものを軸にキャリアを模索するやり方である。

デザインやプログラミングといった一芸に秀でている人は、この方法を取ることが多い。

どのような目的かは、あまり気にせず、その手段に対して愛着を持てるかどうかで選択肢を吟味する。

手段が自己目的化した人々であり、満足度は高いかもしれないが、あくまでもビジョンんを持った人間・組織のコマでしかなくなってしまう面はある。

 

③は、自分の人生における大いなるビジョン探しはとりあえず保留し、キャリアの選択肢が狭まらないような進路を取る方法である。

コンサルティング会社を志望する人に、この傾向がみられる。

しかし、結局は保留でしかないので、いずれはビジョンの欠落に悩む時期が来るか、仕事や家族を通じてビジョンの探求を放棄することになるだろう。

 

④は、まさにグーグルやフェイスブックのやっていることだと僕は思う。

特定の人(起業家)がビジョンを打ち立て、ビジョンに欠ける「優秀な」人々が「共感」し、プロジェクトを成し遂げるために邁進する。

このビジョンが、壮大でコスモポリタン的になるほど、組織がスケールする可能性は上がる。

最初に提示したアマゾンのビジョンは「地球上で」という言葉を含んでいるように、わかりやすくコスモポリタン的である。

ビジョンがデカければデカいほど、優秀だが明確なビジョンにかけた人材が集まる。

(ここでいう「ビジョンに欠けた」という表現は、何も考えていないわけではなく、漠然と社会貢献したいとかかっこいいことがしたいという状態を含む)

グーグルやフェイスブックは、壮大な目標を掲げ、そこで働く人たちに存在意義を与える現代の宗教的組織と言えるかもしれない。

日本では「宗教的」という言葉に無意識に悪いニュアンスを読み取ってしまうが、一応、ニュートラルな意味で受け取ってもらいたい。

「宗教的」が嫌なら「超越的」とかでもよい。

 

日本の企業もこの「目的感」を真剣に考えるべきだと思う。

これから就職したり、職場で主力になる世代は、お金だけでは動かない。

「自分の人生の意味」みたいなものを真剣に考え、それに沿う組織を選ぼうと試みる。

そして、ビジョンをわりと本気で自らのモチベーションとして働く。

企業にも、自らのビジョンと社員、そして製品・サービスを首尾一貫させる努力が必要な時代なのかもしれない。

 

 参考文献

狂気と執着 ー「やりたいことをやる」のに論理は必要かー

この前、なんとなく自分のやってみたいことを書き出してみた。

その場その場で、「この映画見たい」とか「ここ行ってみたい」と思うことはあるけれど、

改めて「やってみたいこと」を挙げるとどうなるのだろうと考えたからだ。

 

すると、意外にも考え込んでしまった。

なんでも書き出すというルールなのに、あまり出てこない。

もっとすらすら無限に湧いてくるものだと思った。

その後、時間をかけると「あー、あれやりたいと思ったことある」という感じで出てきたけれど、どうしても「やってみたいこと」ってそんなにないのかもしれない。

しかし、特に「やってみたい」と常日頃から考えているようなことがないのであれば、日々を特段の不満なく過ごせそうなものだ。

実際は、なんとなく日々に不満や消化不良感を抱えている。

 

「やったほうがいいこと」や「やりたくないこと」は沢山ある。

就活をする中で、自分は何がやりたいのか考える機会は本当に多い。

でも、それは「やりたくないこと」を挙げつくし、消去法的に導かれた答えであったり、

「やったほうがいいこと」を「やりたいこと」として語らざるを得ないこともある。

 

キャリアの選択において、「やりたいこと」は一番大切にしなければならないと思うけれど、実際は何かから逃げたり、嫌な環境を反面教師にして何かを選択したりする場合は非常に多いと思う。

少なくとも僕の人生は今までそういうチョイスの仕方が多かったような気がしてくる。

 

何かを肯定的に選ぶということは、他の可能性を(一時的に)消すことだ。

ゴールデンウイークにハワイに行くと決めたら、その期間、別の場所に行くことは基本的にできない。

一度、会社に入ったらしばらくはその会社で働かなければならない。

しかし、選ばなければ様々な可能性を残しておくことができる。

この状態はなんとなく楽しい。

(だから旅行の計画は、時に旅行そのものより楽しいのかもしれない。)

保留状態のだらだらした楽さから離れ、他の可能性を捨てて一つを選びとることに慣れるのはけっこう大変だ。

 

興味のあることは沢山ある。

でも、「どうしてもこれがやりたい!」ということはあまりない。

そんな状態で「やりたいことは何だ!語ってくれ!!」と食い気味で聞かれても困ってしまう。

必然的に、なにか合理的な雰囲気で、僕がそれをやりたい理由を語ろうとする。

しかし、結局は「やりたい」と感じた原体験に行き着く。

結局、僕の場合、その原体験は日常のなんでもないちょっとしたことで、「興味がある」の域を出ないことが多い。

それじゃ弱いと言われても、今さら「どうしてもやりたいこと」なんてすぐに錬成できるわけではない。

 

「やりたいことは何ですか?」「成し遂げたいことは何ですか?」

と問われ続け、自分にそんな野心とか理想とかないのかもしれないと思い始めた。

それならば、自分は死んでいないだけで、ただふらふら生き残っているに過ぎない。

生きててどうしてもやりたいことがないのなら、生きててもしょうがない気もしてくる。

そう、生きてることに理由はない。

陳腐な表現だけど、いわゆる「正論」である。

自分の存在や行動の意図に対してソクラテスのごとく「なぜ?」を繰り返せば、どこかで(それもけっこうすぐに)「理由なんてないよ」と答えざるを得なくなるだろう。

 

ロジカルであることは重要だけど、ロジカルでありすぎることは危険だと思う。

趣味や熱中できること、つまり「どうしてもやりたいこと」というのは、一種の「執着」にすぎないと思う。

突き詰めれば、そこに論理は無いし、優劣もない。

しかし、その「執着」がなければ人はたやすくこの世にいる理由を失う。

「執着」は、例えるなら現実と人間をつなぐフックだ。

なんだか分からないけど好きだとか、気になるとか、そういうフックを大事に育てなければ、現実という岩壁から人は転落する。

フックを育てるには、肯定的な語りと選択を繰り返す必要がある。

「○○したくない」ではなくて「○○したい」を繰り返し、それを実現させる。

その中で、どれかがその人の「執着」となって生きる理由を生む。

僕が、本当に尊敬する人に、コムデギャルソンの創業者、川久保玲がいる。

滅多に、インタビューに答えることのない彼女が、数少ないインタビューの中で70歳を超えても前衛的な服を作り続ける理由として、「新しいものを探しているから」と答えた。

インタビュアーは、さらに「新しい"何"を探しているのか」と尋ねた。

彼女は答えられなかった。

答えなかったのではなく。

僕はこのインタビューを読んで、勝手に「執着」という言葉を強烈に意識した。

服とは言えないような前衛的な服を作る必然性なんてどこにもない。

暖かければ裸でも死なないし、寒くても体温を保てる布さえあればいいのだ。

身体を隠す必要性を前提として認めるならば、みんなユニクロの服を着ればいい。

それでも、何かが彼女を動かし続けて、異形の服が作られ続け、彼女の作ったもので僕や大勢の人の何かが動かされる。 

川久保玲のような何かを究めた人によく「好きなことを仕事にする」とか「やりたいことをやる」とかいった言葉があてはめられる。

それらは、なんとなくキラキラしたイメージをまとっている。

しかし、「やりたいことをやる」ということの実態は、何かに取り憑かれた状態に近い。

言ってしまえば、一種の狂気だ。

他人から見れば、当人以外の何者かがその人を突き動かしているように見える。

「やりたいことをやっています」と他人に自慢気に語るのは、他人から引かれたくないとか社会的に大勢から評価されたいという理由で、狂気を偽装する試みなのだ。

 

僕は他人の「執着」がなんであろうと馬鹿にしない。

それがどんなに馬鹿馬鹿しくて無意味でくだらないものだとしても、その人にとっては現実と自分を結び付けるフックかもしれないから。

僕も、少し遅いけれど「執着」を見つけて育てていこうと思う。

時には、気分が落ち込むような無駄な理由付けや妥協をしながらやりすごさないといけない時があるかもしれない。

もう子供ではないから。

でも、近いうちにきっと必ず。

「勉強」という行為の権威性についてー勉強はそんなに良いことかー

生まれてこの方、勉強しなさいと言われ続けてきたように思う。

小学生だろうが大学生だろうが社会人だろうが、勉強という行為からはなかなか自由になれない。

大学までは、受験を始めとした学校の勉強をしなければならないし、

社会人になったら、業務の勉強はもちろん、勉強によって教養も身につけねばならないらしい。

基本的に、勉強はわりと無条件に良いことだと考えられている。

「受験勉強」的なものが、頭でっかちを生み出すという批判はあるにせよ、広義の勉強は、人間として常に行うことが奨励される行為の一つだ。

 

しかし、勉強はそんなに良いものなのだろうか。

初めに行っておくと、僕は勉強がわりと好きな方だと思う。

だが、自分の専門分野の勉強を深めたところで、モテるわけではない。

初対面の女性に、自分の専門分野について滔々と語れば、ほぼ100%引かれるだろう。

モテなどどうでもよい!勉強することで広い視野を持つのが大事だという人もいる。

しかし、広い視野と批判的精神を育みすぎた挙句、物事の全てにネガの側面があると知り、何かを批判するだけになったり、何も決断を下せなくなったりする。

世の中には、「勉強が嫌い!」と言い切る人が一定数いる。

そういう人たちも、勉強などしなくとも幸せそうである。

 

勉強は無条件に肯定されている点からいっても、一種の権威と化していると思う。

誰も、勉強という言葉に抗うことはできないのだ。

「勉強」という言葉は時に特定の人に拒否反応を引き起こすが、似たような言葉に「読書」がある。

高校生くらいまでは、読書が好きだと言うと聞いてもいないのに「私は読書が嫌い!」という主張が返ってくることがあった(さすがに東大に入ってからそういうことはあまりないが)。

先日、電車で座っていると、正面に立っていた女子小学生二人組の会話が興味深かったので思い出して、記してみる。

 

小学生A「私が今読んでる本すごく面白いから続きが早くよみたいんだよね。。」

小学生B「へー。私は読書嫌い」

A「え、なんで?」

B「なんか字が多いし、途中から読めなくなる。字が消える。漫画の方がいい」

A「え、消えるわけないじゃん(笑)。読書楽しいよ。長い時間楽しめるし、面白い本に出合ってないだけなんじゃない?」

B「絶対読まない。漫画の方がいい」

A「そっか。まあ。漫画の方が楽しいもんね。」

 

自分も何度も同じような会話をしたように思う。

読書をするだけで、まじめで固い人のように思われることがあった。

なぜ、「読書」や「勉強」は社会の中で権威を獲得し、一定の人に嫌われるのだろう。

月並みな答えだが、結局それはどちらも一部の人にとって自発的に「する」ことではなく、「させられる」ことだったからだろう。

好きなことを中断してさせられるのが「読書」や「勉強」だった。

一部の人は、その現実に適応し、楽しむ術を覚えていったのだろう。

僕もまたそういう人間の一人である。

 

しかし、「勉強」や「読書」が権威となっている現状には違和感を覚える。

勉強したからといって自分という存在が無条件に、良いものになるわけではない。

そんな違和感に答えてくれた本があった。

千葉雅也の『勉強の哲学』である。

千葉いわく、人間という存在は言語に規定されており、同じ言語をしゃべっていても言葉の用法は自分が属するコミュニティに規定される。

高校の友達と大学の友達、職場の友人とは会話の雰囲気が違うという場合が多いと思うが、そういう場面をイメージしてもらえればわかりやすい。

それが、いわゆる「ノリ」である。

勉強とは、既存の「ノリ」から離れ、新たな言葉を身に着けることである。

「ノリ」から外れることは、ある意味で「キモくなる」ことだと千葉は言う。

今までゲームしかしてこなかったテニスサークルの飲み会で、最近学んだ哲学について滔々と語れば浮くのは当然だろう。

周囲が「お前どうした?」という反応になり、冗談として場を納めようとするのは目に見えている(偶然同じことを学んだ人が積極的に話してくる可能性は無くはないが)。

新しいノリを身に着けることは、新たな視点を持つというのとほぼ同義だと考えてよい。

しかし、新たな視点を持ったところで何が起きるのだろう。

短期的には、今まで没入していたコミュニティの会話を妙に客観的に見てしまい、ノリ切れなくなってしまう。

その状態だけ取ってみれば、勉強を「楽しい」とか「幸せ」とか「有益」なものと強弁することはできまい。

 

ある意味、この短期的な「キモい」状態すら肯定しようとしているのが既存のアカデミズムであるようにも思う。

政権が高等教育への補助を削減しようとするとき、特に矢面に立たされる文系の学者は哲学や歴史学に有用性を力説する。

その多くが、哲学や歴史学がまわりまわって国のためになること、あるいは「役に立たないことで役に立つのだ」という主張である。

こういう自分たちの権威性をさらけ出すような発言を目にするたびに違和感があった。

それが明らかな詭弁だからだ。

 

勉強、あるいは「学問」は短期的には役に立たないものだと思う。

また、長期的に役に立つのかどうかも分からない。

結局、役に立たない可能性だってある。

役に立ったかどうか、検証する術などないだろう。

ある意味、勉強を生業にしてきた人の傲慢さが、多くの人にとって勉強を抑圧的で権威的なものに感じさせ、つまらないものにしたのではないか。

勉強をするということは、言葉の扱いに長けるということだから、自由に言葉を操り、勉強の価値を説くことができる。

しかし、パズルのように言葉を組み合わせ、それらしい説得を為したところで、反論できなくとも勉強の権威性を感じ、勉強から進んで距離を取る人は増えるばかりだ。

 

だから、「勉強をやめよう!」と言いたいのではない。

勉強の成果が世の中を動かしてきたのも事実だ。

理系の研究は非常にわかりやすく世の中を変えてきたが、文系も同様である。

現代の基盤である民主主義や人権といった発想も、思考を止めることのなかった先人たちが生み出した成果である。

かつて、世界を覆った共産主義も同様だ。

共産主義は、多くの悲惨な結果を生んだけれども、その生みの親であるマルクスは、近代化の中で虐げられる労働者を救うために共産主義を練り上げた。

結果として、現代の資本主義社会は共産主義的な考えを一部取り入れ、発展してきた。

誰もが、「勉強」の成果の上で暮らしている。

 

勉強し続けることは、常に新しいノリを生き、常にマイノリティとなることである。

それは、サイードが『知識人とは何か』で述べたのと同じようなことだと言えるかもしれない。

マイノリティになるということは、「世間」というノリに乗ることができなくなることであり、大きなノリに身を任せ、楽に生きていくことができず、かといってその苦悩を理解してもらうこともできないまま生きていくということである。

数多くいるマイノリティの多くが忘れ去られていく中で、ごくまれに世の中のムーブメントを生み出すことがあるということでしかない。

 

何が言いたいかと言えば、勉強という行為の権威性が少しでも薄らいでいけばいいということだ。

勉強は「させられる」行為ではなく「する」行為であるべきだ。

勉強している人が偉いわけではない。

学問、ビジネス、スポーツ、アート、肉体労働といった行為の間に優劣はない。

誰もが気軽に勉強にアクセスでき、気軽に離れることのできる世界であればと思う。

スニーカー試論 ー靴とアイデンティティー

今、僕の靴箱には約20足の靴がある。

そのうち、1足を除き、全てがスニーカーである。

除かれた1足というのは、就活用の革靴だ。

最近、スニーカーブームが再燃しているとよく言われるけれども、自分の大学に限ればそんな雰囲気は、微塵も感じられない。

僕もスニーカーが好きになって日が浅いし、知っていることもごくわずかなのだけれども、「スニーカーヘッズ(スニーカー愛好者のこと)」とそれを取り巻くストリートファッションの現状を僕なりに解釈し、紹介してみたい。

 

スニーカーが生まれた歴史から語り始めても良いが、それよりも売れるスニーカーについて話してみよう。

僕は勝手に売れるスニーカーを3種類に分類している。

一つ目が、コラボスニーカー

二つ目が、有名人が履いたスニーカー

三つめが、とにかく目立つスニーカー

もちろん、この3つは重なり合うこともある(コラボのスニーカーを有名人が履いて爆発的に売れ出すこともあるということだ)。

 

まず一つ目のコラボスニーカーについて。

ファッションブランド同士のコラボレーションは近年盛んになっている。

コラボアイテムの多くは、生産数が少なく、プレミアになることが多い。

また、コラボにはスニーカーを作るノウハウのないファッションブランドが、ナイキやアディダスのテクノロジーを活用して、ブランド価値を高めるとともに、トータルコーディネートを完成させるという意図もある。

最も、人気のコラボの一つがナイキと伝説的ストリートブランド「Supreme」のコラボだろうか。

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この画像のスニーカーは、ナイキのジョーダンブランドとSupremeがコラボしたものだが、価格は3倍以上に跳ね上がり、10万円近くで売られている。

コラボの原型となったAir Jordan5は、もとから人気のあるモデルなのだが、それが人気のブランドとコラボしたことでプレミア商品となってしまった。

「Supreme」ってなんやねん、という人のために解説しておくと、「Supreme」とは今、世界で最も人気の高いストリートブランドである。

スケートボーダーがニューヨークで開いたセレクトショップを起源に持ち、ルイ・ヴィトンカルバン・クラインといったハイブランドの商品をあからさまにパクったり、該当の広告の上に勝手に「Supreme」のステッカーを貼る過激なプロモーションで一気に話題となった。

このブランドがどれくらい人気かと言うと、2016年末の秋冬新コレクションのリリース時には、2秒でオンライン上の商品が完売し、たった1日で約10億のページビューが記録された。

このモデル以外にも、ナイキと「Supreme」は定期的にコラボしているが、どれも即完売必至だ。

 

スニーカーヘッズの間で苛烈な競争を引き起こすのは、ブランド同士のコラボだけではない。

大物デザイナーやアーティストがスポーツブランドとコラボすることで生まれるモデルもある。

ごく最近発売された超大型コラボレーションとして挙げられるのが、ナイキとKawsのコラボだ。

Kawsは、バンクシーと並び、いま世界で最も金を生むアーティストの一人に挙げられる人物で、バツ印の目を持つキャラクターがトレードマークだ。

目がバッテン「KAWS(カウズ)」って知ってる?コンテンポラリー・アーティストKAWSの腕時計 - 時計怪獣 WatchMonster|腕時計情報メディア

Supremeと同じように、ミッキーやスポンジボブといったキャラクターの目をバッテンに変える完全にアウトなペインティングで人気に火がついた。

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そして、上の画像が、Kawsとナイキのコラボモデルである。

正直、僕もどこら辺がかっこいいのかよくわからない。

もちろんベースとなったAir Jordan4はかっこいいし、人気の高いモデルである。

僕も真っ赤な奴を一つ持っている。

しかし、こんな一見地味な灰色の靴が(失礼!)オンライン上では20万近くの値段で取引されているのである(元値はおそらく4万円)。

 

ブランドというものは、不可解である。

スニーカーなんて言ってしまえば、全て色違いにすぎないにもかかわらず、マニアは何百足と収集するのである。

ただ、そのブランドが持つイメージを纏いたいというのがスニーカーヘッズたちの欲望なのだろう。

ストリートファッションには、「いかに反抗的か」という視点が求められる。

ハイブランドを始めとした既存のカルチャーに中指を立て、時に訴えられるほどの抵抗をしたブランドが、カウンターカルチャーの担い手となる。

その意味では、スニーカーブームは消費によってアイデンティティを形成する現代人の分かりやすい例であるともいえる。

 

 

今回は、試しにコラボスニーカーについて語ってみた。

気が向けば、他の2つの「売れるスニーカー」の要素と現代社会に関わりについて書いてみたい。

思い出し、確認するということ

卒業シーズンが終わり、新年度が始まった。

大学に残る僕は多くの仲間を見送った。

割と長い時間を過ごした友人も、多少面識がある程度の人も互いに門出を祝う雰囲気は切ないけれど、やはり楽しかった。

この4年間、特定のコミュニティにあまり属することなくふらふらと動いてきた。

それは、一応、僕が常に新しい刺激を求めてきたからだ。

いうなれば、特定のコミュニティのなかで人間関係を完結させることは、なれ合いだと思ってきた。

初対面の人から刺激を受けるのはもちろん楽しい。

自分にない知識や視点で話が進むから、もっといろんな人に会ってみたいと思うようになる。

逆にずっと同じ人と話していても、話題は尽きるし、ただ時間を過ごすだけになってしまう気がしていた。

僕はそれを堕落だと思っていた。

 

しかし、卒業シーズンになり、自分が大学生活を共に過ごした人たちと過去の思い出を語りある時、「新たな刺激」とはまた別の楽しさみたいなものを感じた。

それは、「確認する幸せ」とでも言えようか。

「こんなこともあった」といって過去を思い出し、お互いの記憶に残っているという事実を確認すること。

それは、自分と友人が確かに同じ時間を過ごしたことの確認であり、同じようにその過去の出来事がお互いにとって重要だったという事実を確かめる行為でもある。

 

未知のものに触れる楽しみは、スリルに近いものがあり、恐怖と紙一重だ。

一方、「確認する幸せ」は、安心感がある一方で、二度と同じことはないのだという切なさを孕んでいる。

どちらも純粋にポジティブな経験ではありえない。

それは僕がひねくれいているだけかもしれないし、常にポジとネガのうち、ネガの部分を否応にでも見てしまう損な性格なのかもしれない。

 

とにかく、何が言いたいかと言うと「確認する幸せ」みたいなものも大事に抱きしめていかなきゃ、ということだ。

僕以外、全員そんなことは分かっているのかもしれないが、つんつんしている人も多いように思う。

色んな付き合いを、その場限りの楽しみではなく、自分にとって大切なものにしていきたい。