壁の上に立つということ
最近、あるCMの、ある一節が僕の心の中をぐるぐる回っている。
「壁があるなら、壁の上に立ってしっかり向こう側を想像してやろうじゃないか」
僕が大のワンオク好きであることを差し引いてもすごくいいCMだと思う。
たぶん、今まで社会に流布されてきたイメージをなぞるのであれば、
「壁を壊そう」というフレーズになっていたと思う。
なぜ、「壁」を壊さず、上に立つのか。
人と人の間の壁を壊すと言うことは、人と人が分かりあうということだ。
お互いの違いを理解し、尊重する。
当然のことであり、どこか無条件に「良いこと」である思うだろう。
しかし、他人を理解することなど可能なのか。
理解できていないのに、理解したつもりになって、いつの間にか自分の考えを押し付けることになってはいないか。
壁を壊して行き来自由になったと思い込み、無節操に他人の領分を踏み荒らしてはいないか。
テロ事件とか移民の流入とかナショナリズムの高揚とか、目にするのもすでに飽き飽きするようなニュースの群れが、「他者理解の不可能性」とでもいうべきものを我々に突き付けているのが現実だ。
他人を完全に理解することなんてできない。
人それぞれに固有の人生があって、その人生の間の差異が個性というものを成り立たせ、その個性こそが一人の人間が尊重される最も重要な根拠とされているのに、
なぜか個性は理解可能なものであると想定されている。
相手も自分も同じ人間だから分かりあえる、と無条件に考えてしまうからこそ、自分と違う考えの人間に対して怒りが湧いてくることもある。
自分とは違う考え方に対して「差別」や「抑圧」というレッテルを張ってしまうこともある。
人の個性の中でも、「宗教」や「言語」や「文化」といった途方もない時間の中で築き上げられた要素は、どれだけ「ロジック」という人類共通の道具(とされているもの)を使っても崩すことができない。
理解できると考えれば考えるほど、思い通りにならないことにいら立ってしまう。
世界は、「壁は壊すものではない」と気付き始めている。
お互いに壁を築いて、お互いの領分に関わらないように生きていく世の中がやってくるかもしれない。
だけど、お互いに新しく壁を築き合って、相手の顔も見ないようにする前にできることがあるのではないか。
壁をぶっ壊して他人の領分に土足で上がり込み、「仲良くしよう」と言う前にやるべきことがあるのではないか。
そう、まず僕たちは壁を壊したり分厚くしたりする前に、壁の上に立って相手のこと想像すること。
その想像と現実はおそらく一致しないであろうし、想像を押し付けようとすればそれは再び「相互理解」を強いることにもなるだろう。
思えば、僕らは「全てが思い通りになる」、
つまり「想像と現実は必ず一致する」という風に考えすぎなのかもしれない。
今やポケットに収まるデバイスで世界中とつながれることを考えれば、それも致し方ないのかもしれない。
しかし、いまだに僕らは隣の人に自分の気持ちを伝えることにすら四苦八苦しているし、自分のふるまいですら思い通りになるとは限らない。
思わぬ一言が人間関係に溝を生んだり、そんな自分に怒りややるせなさを感じたり。
だが、歴史を振り返ってみれば、その想像と現実の差異に「なぜ?」と思えること、好奇心を持ち得ることが人間の人間たる理由であるように僕は思う。
問い、答え、再び問う。
その繰り返し。
完全な解など永遠に現れない。
「問う」という行為は、まず壁の上に立とうとすることであり、
「答える」という行為は、しっかりと想像しようとすることである。
想像すればするほど、想像との差異をはっきりと認識できる。
現実と想像の差異を意識するほど、現実に新たな問いを立てられる。
想像すること、想像と現実の差異を知ること、そして新たな想像で現実に立ち向かうことを楽しめるのは人間だけだと思う。
逆に、想像力が貧しければ貧しいほど現実と想像の区別がつかず、その差異に苛立つ。
思い通りにならないことに怒りを感じる。
24年ほど生きてきたが、なんとなく色んなことが想像の範囲内に収まっているような気がして、油断すると自分の中の好奇心の火が消えてしまいそうになることがある。
様々な壁を乗り越えたり壊しながら進んできたような気分になっているけれど、
今一度、目を凝らして自分を取り巻く壁に意識的になってみようと思う。
そして、壁の上に立って、しっかりと向こう側を想像してやるのだ。