狂気と執着 ー「やりたいことをやる」のに論理は必要かー
この前、なんとなく自分のやってみたいことを書き出してみた。
その場その場で、「この映画見たい」とか「ここ行ってみたい」と思うことはあるけれど、
改めて「やってみたいこと」を挙げるとどうなるのだろうと考えたからだ。
すると、意外にも考え込んでしまった。
なんでも書き出すというルールなのに、あまり出てこない。
もっとすらすら無限に湧いてくるものだと思った。
その後、時間をかけると「あー、あれやりたいと思ったことある」という感じで出てきたけれど、どうしても「やってみたいこと」ってそんなにないのかもしれない。
しかし、特に「やってみたい」と常日頃から考えているようなことがないのであれば、日々を特段の不満なく過ごせそうなものだ。
実際は、なんとなく日々に不満や消化不良感を抱えている。
「やったほうがいいこと」や「やりたくないこと」は沢山ある。
就活をする中で、自分は何がやりたいのか考える機会は本当に多い。
でも、それは「やりたくないこと」を挙げつくし、消去法的に導かれた答えであったり、
「やったほうがいいこと」を「やりたいこと」として語らざるを得ないこともある。
キャリアの選択において、「やりたいこと」は一番大切にしなければならないと思うけれど、実際は何かから逃げたり、嫌な環境を反面教師にして何かを選択したりする場合は非常に多いと思う。
少なくとも僕の人生は今までそういうチョイスの仕方が多かったような気がしてくる。
何かを肯定的に選ぶということは、他の可能性を(一時的に)消すことだ。
ゴールデンウイークにハワイに行くと決めたら、その期間、別の場所に行くことは基本的にできない。
一度、会社に入ったらしばらくはその会社で働かなければならない。
しかし、選ばなければ様々な可能性を残しておくことができる。
この状態はなんとなく楽しい。
(だから旅行の計画は、時に旅行そのものより楽しいのかもしれない。)
保留状態のだらだらした楽さから離れ、他の可能性を捨てて一つを選びとることに慣れるのはけっこう大変だ。
興味のあることは沢山ある。
でも、「どうしてもこれがやりたい!」ということはあまりない。
そんな状態で「やりたいことは何だ!語ってくれ!!」と食い気味で聞かれても困ってしまう。
必然的に、なにか合理的な雰囲気で、僕がそれをやりたい理由を語ろうとする。
しかし、結局は「やりたい」と感じた原体験に行き着く。
結局、僕の場合、その原体験は日常のなんでもないちょっとしたことで、「興味がある」の域を出ないことが多い。
それじゃ弱いと言われても、今さら「どうしてもやりたいこと」なんてすぐに錬成できるわけではない。
「やりたいことは何ですか?」「成し遂げたいことは何ですか?」
と問われ続け、自分にそんな野心とか理想とかないのかもしれないと思い始めた。
それならば、自分は死んでいないだけで、ただふらふら生き残っているに過ぎない。
生きててどうしてもやりたいことがないのなら、生きててもしょうがない気もしてくる。
そう、生きてることに理由はない。
陳腐な表現だけど、いわゆる「正論」である。
自分の存在や行動の意図に対してソクラテスのごとく「なぜ?」を繰り返せば、どこかで(それもけっこうすぐに)「理由なんてないよ」と答えざるを得なくなるだろう。
ロジカルであることは重要だけど、ロジカルでありすぎることは危険だと思う。
趣味や熱中できること、つまり「どうしてもやりたいこと」というのは、一種の「執着」にすぎないと思う。
突き詰めれば、そこに論理は無いし、優劣もない。
しかし、その「執着」がなければ人はたやすくこの世にいる理由を失う。
「執着」は、例えるなら現実と人間をつなぐフックだ。
なんだか分からないけど好きだとか、気になるとか、そういうフックを大事に育てなければ、現実という岩壁から人は転落する。
フックを育てるには、肯定的な語りと選択を繰り返す必要がある。
「○○したくない」ではなくて「○○したい」を繰り返し、それを実現させる。
その中で、どれかがその人の「執着」となって生きる理由を生む。
僕が、本当に尊敬する人に、コムデギャルソンの創業者、川久保玲がいる。
滅多に、インタビューに答えることのない彼女が、数少ないインタビューの中で70歳を超えても前衛的な服を作り続ける理由として、「新しいものを探しているから」と答えた。
インタビュアーは、さらに「新しい"何"を探しているのか」と尋ねた。
彼女は答えられなかった。
答えなかったのではなく。
僕はこのインタビューを読んで、勝手に「執着」という言葉を強烈に意識した。
服とは言えないような前衛的な服を作る必然性なんてどこにもない。
暖かければ裸でも死なないし、寒くても体温を保てる布さえあればいいのだ。
身体を隠す必要性を前提として認めるならば、みんなユニクロの服を着ればいい。
それでも、何かが彼女を動かし続けて、異形の服が作られ続け、彼女の作ったもので僕や大勢の人の何かが動かされる。
川久保玲のような何かを究めた人によく「好きなことを仕事にする」とか「やりたいことをやる」とかいった言葉があてはめられる。
それらは、なんとなくキラキラしたイメージをまとっている。
しかし、「やりたいことをやる」ということの実態は、何かに取り憑かれた状態に近い。
言ってしまえば、一種の狂気だ。
他人から見れば、当人以外の何者かがその人を突き動かしているように見える。
「やりたいことをやっています」と他人に自慢気に語るのは、他人から引かれたくないとか社会的に大勢から評価されたいという理由で、狂気を偽装する試みなのだ。
僕は他人の「執着」がなんであろうと馬鹿にしない。
それがどんなに馬鹿馬鹿しくて無意味でくだらないものだとしても、その人にとっては現実と自分を結び付けるフックかもしれないから。
僕も、少し遅いけれど「執着」を見つけて育てていこうと思う。
時には、気分が落ち込むような無駄な理由付けや妥協をしながらやりすごさないといけない時があるかもしれない。
もう子供ではないから。
でも、近いうちにきっと必ず。