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なすの日記

思考を散歩させるための場所

「勉強」という行為の権威性についてー勉強はそんなに良いことかー

生まれてこの方、勉強しなさいと言われ続けてきたように思う。

小学生だろうが大学生だろうが社会人だろうが、勉強という行為からはなかなか自由になれない。

大学までは、受験を始めとした学校の勉強をしなければならないし、

社会人になったら、業務の勉強はもちろん、勉強によって教養も身につけねばならないらしい。

基本的に、勉強はわりと無条件に良いことだと考えられている。

「受験勉強」的なものが、頭でっかちを生み出すという批判はあるにせよ、広義の勉強は、人間として常に行うことが奨励される行為の一つだ。

 

しかし、勉強はそんなに良いものなのだろうか。

初めに行っておくと、僕は勉強がわりと好きな方だと思う。

だが、自分の専門分野の勉強を深めたところで、モテるわけではない。

初対面の女性に、自分の専門分野について滔々と語れば、ほぼ100%引かれるだろう。

モテなどどうでもよい!勉強することで広い視野を持つのが大事だという人もいる。

しかし、広い視野と批判的精神を育みすぎた挙句、物事の全てにネガの側面があると知り、何かを批判するだけになったり、何も決断を下せなくなったりする。

世の中には、「勉強が嫌い!」と言い切る人が一定数いる。

そういう人たちも、勉強などしなくとも幸せそうである。

 

勉強は無条件に肯定されている点からいっても、一種の権威と化していると思う。

誰も、勉強という言葉に抗うことはできないのだ。

「勉強」という言葉は時に特定の人に拒否反応を引き起こすが、似たような言葉に「読書」がある。

高校生くらいまでは、読書が好きだと言うと聞いてもいないのに「私は読書が嫌い!」という主張が返ってくることがあった(さすがに東大に入ってからそういうことはあまりないが)。

先日、電車で座っていると、正面に立っていた女子小学生二人組の会話が興味深かったので思い出して、記してみる。

 

小学生A「私が今読んでる本すごく面白いから続きが早くよみたいんだよね。。」

小学生B「へー。私は読書嫌い」

A「え、なんで?」

B「なんか字が多いし、途中から読めなくなる。字が消える。漫画の方がいい」

A「え、消えるわけないじゃん(笑)。読書楽しいよ。長い時間楽しめるし、面白い本に出合ってないだけなんじゃない?」

B「絶対読まない。漫画の方がいい」

A「そっか。まあ。漫画の方が楽しいもんね。」

 

自分も何度も同じような会話をしたように思う。

読書をするだけで、まじめで固い人のように思われることがあった。

なぜ、「読書」や「勉強」は社会の中で権威を獲得し、一定の人に嫌われるのだろう。

月並みな答えだが、結局それはどちらも一部の人にとって自発的に「する」ことではなく、「させられる」ことだったからだろう。

好きなことを中断してさせられるのが「読書」や「勉強」だった。

一部の人は、その現実に適応し、楽しむ術を覚えていったのだろう。

僕もまたそういう人間の一人である。

 

しかし、「勉強」や「読書」が権威となっている現状には違和感を覚える。

勉強したからといって自分という存在が無条件に、良いものになるわけではない。

そんな違和感に答えてくれた本があった。

千葉雅也の『勉強の哲学』である。

千葉いわく、人間という存在は言語に規定されており、同じ言語をしゃべっていても言葉の用法は自分が属するコミュニティに規定される。

高校の友達と大学の友達、職場の友人とは会話の雰囲気が違うという場合が多いと思うが、そういう場面をイメージしてもらえればわかりやすい。

それが、いわゆる「ノリ」である。

勉強とは、既存の「ノリ」から離れ、新たな言葉を身に着けることである。

「ノリ」から外れることは、ある意味で「キモくなる」ことだと千葉は言う。

今までゲームしかしてこなかったテニスサークルの飲み会で、最近学んだ哲学について滔々と語れば浮くのは当然だろう。

周囲が「お前どうした?」という反応になり、冗談として場を納めようとするのは目に見えている(偶然同じことを学んだ人が積極的に話してくる可能性は無くはないが)。

新しいノリを身に着けることは、新たな視点を持つというのとほぼ同義だと考えてよい。

しかし、新たな視点を持ったところで何が起きるのだろう。

短期的には、今まで没入していたコミュニティの会話を妙に客観的に見てしまい、ノリ切れなくなってしまう。

その状態だけ取ってみれば、勉強を「楽しい」とか「幸せ」とか「有益」なものと強弁することはできまい。

 

ある意味、この短期的な「キモい」状態すら肯定しようとしているのが既存のアカデミズムであるようにも思う。

政権が高等教育への補助を削減しようとするとき、特に矢面に立たされる文系の学者は哲学や歴史学に有用性を力説する。

その多くが、哲学や歴史学がまわりまわって国のためになること、あるいは「役に立たないことで役に立つのだ」という主張である。

こういう自分たちの権威性をさらけ出すような発言を目にするたびに違和感があった。

それが明らかな詭弁だからだ。

 

勉強、あるいは「学問」は短期的には役に立たないものだと思う。

また、長期的に役に立つのかどうかも分からない。

結局、役に立たない可能性だってある。

役に立ったかどうか、検証する術などないだろう。

ある意味、勉強を生業にしてきた人の傲慢さが、多くの人にとって勉強を抑圧的で権威的なものに感じさせ、つまらないものにしたのではないか。

勉強をするということは、言葉の扱いに長けるということだから、自由に言葉を操り、勉強の価値を説くことができる。

しかし、パズルのように言葉を組み合わせ、それらしい説得を為したところで、反論できなくとも勉強の権威性を感じ、勉強から進んで距離を取る人は増えるばかりだ。

 

だから、「勉強をやめよう!」と言いたいのではない。

勉強の成果が世の中を動かしてきたのも事実だ。

理系の研究は非常にわかりやすく世の中を変えてきたが、文系も同様である。

現代の基盤である民主主義や人権といった発想も、思考を止めることのなかった先人たちが生み出した成果である。

かつて、世界を覆った共産主義も同様だ。

共産主義は、多くの悲惨な結果を生んだけれども、その生みの親であるマルクスは、近代化の中で虐げられる労働者を救うために共産主義を練り上げた。

結果として、現代の資本主義社会は共産主義的な考えを一部取り入れ、発展してきた。

誰もが、「勉強」の成果の上で暮らしている。

 

勉強し続けることは、常に新しいノリを生き、常にマイノリティとなることである。

それは、サイードが『知識人とは何か』で述べたのと同じようなことだと言えるかもしれない。

マイノリティになるということは、「世間」というノリに乗ることができなくなることであり、大きなノリに身を任せ、楽に生きていくことができず、かといってその苦悩を理解してもらうこともできないまま生きていくということである。

数多くいるマイノリティの多くが忘れ去られていく中で、ごくまれに世の中のムーブメントを生み出すことがあるということでしかない。

 

何が言いたいかと言えば、勉強という行為の権威性が少しでも薄らいでいけばいいということだ。

勉強は「させられる」行為ではなく「する」行為であるべきだ。

勉強している人が偉いわけではない。

学問、ビジネス、スポーツ、アート、肉体労働といった行為の間に優劣はない。

誰もが気軽に勉強にアクセスでき、気軽に離れることのできる世界であればと思う。