思い出し、確認するということ
卒業シーズンが終わり、新年度が始まった。
大学に残る僕は多くの仲間を見送った。
割と長い時間を過ごした友人も、多少面識がある程度の人も互いに門出を祝う雰囲気は切ないけれど、やはり楽しかった。
この4年間、特定のコミュニティにあまり属することなくふらふらと動いてきた。
それは、一応、僕が常に新しい刺激を求めてきたからだ。
いうなれば、特定のコミュニティのなかで人間関係を完結させることは、なれ合いだと思ってきた。
初対面の人から刺激を受けるのはもちろん楽しい。
自分にない知識や視点で話が進むから、もっといろんな人に会ってみたいと思うようになる。
逆にずっと同じ人と話していても、話題は尽きるし、ただ時間を過ごすだけになってしまう気がしていた。
僕はそれを堕落だと思っていた。
しかし、卒業シーズンになり、自分が大学生活を共に過ごした人たちと過去の思い出を語りある時、「新たな刺激」とはまた別の楽しさみたいなものを感じた。
それは、「確認する幸せ」とでも言えようか。
「こんなこともあった」といって過去を思い出し、お互いの記憶に残っているという事実を確認すること。
それは、自分と友人が確かに同じ時間を過ごしたことの確認であり、同じようにその過去の出来事がお互いにとって重要だったという事実を確かめる行為でもある。
未知のものに触れる楽しみは、スリルに近いものがあり、恐怖と紙一重だ。
一方、「確認する幸せ」は、安心感がある一方で、二度と同じことはないのだという切なさを孕んでいる。
どちらも純粋にポジティブな経験ではありえない。
それは僕がひねくれいているだけかもしれないし、常にポジとネガのうち、ネガの部分を否応にでも見てしまう損な性格なのかもしれない。
とにかく、何が言いたいかと言うと「確認する幸せ」みたいなものも大事に抱きしめていかなきゃ、ということだ。
僕以外、全員そんなことは分かっているのかもしれないが、つんつんしている人も多いように思う。
色んな付き合いを、その場限りの楽しみではなく、自分にとって大切なものにしていきたい。