なすの日記

思考を散歩させるための場所

メディアについて思うこと -某新聞社でのインターンと最近の情勢から-

先日、とある新聞社のインターンシップに参加させてもらった。

正直、あまりメディアは志望していないのだけど、いろいろあって機会を頂いた。

僕が気になっていたのは、インターンの内容ではなく、巨大なメディアとジャー成純の中身だ。

どんな社員(記者)がいて、どういう考えで会社が動いているのか。

それを知りたかった。

特に新聞は、オールドメディアの代表格として、散々に叩かれることが多い。

個人としては、「嫌われすぎだろ…」と思うこともあれば、「どうしてこんなこと書いちゃうんだろう」と感じることもある。

保守的な思想をもつ人が、もはや報道の内容に関係なく新聞社を非難していることにも否定的だし、一方で、時に新聞の側が特定の政治思想に肩入れしすぎているのではないかと感じることもある。

また、各新聞社が保守とリベラル(右派と左派)どちらに属するのかに関しても、なんとなく世間で共通の了解があって、そのバイアスに基づいて新聞社に関する議論が行われることも多い。

そういう思想的偏向のようなものは実際にあるのか。

現場の記者は何を考えて記事を書いているのか。

世間が持つイメージをどう考えているのか。

以上の問題意識で、インターンに参加した。

 

まず、会社全体としてなんらかの思想的な指針はあるのか、という点だが、

記者さんいわく「ない」とのことだった。

まあ、そんな「社訓」みたいなものが存在するのであればとっくに世の中に出回っているだろう。

左派と呼ばれる新聞にも右翼の記者はいるし、その逆もしかりということだった。

もちろんインターンの中で特定の思想を刷り込まれることもない。

 

一方で、非常に気になったのが、新聞社の役割には確固たる自分の考えを持っている人が多かったことだ。

権力の監視、弱者の救済、民主主義の基盤となる。

そういう使命感を持っている方が本当に多かった。

実感でしかないが、みな建前ではなく、本気でその使命感を軸に仕事をしていた。

一言で言えば、非常に「マジメ」という印象を受けた。

それは、インターンの参加者も同じだった。

みな、なんらかの使命感を持っている。

イマドキ、就活において本気で使命感を持っている人がどれくらいいるだろう。

 

感銘を受けた一方で、このマジメさが空回りしているのが、今のジャーナリズムのおかれた厳しい状態を引き起こしているのでは、とも思った。

彼らは、権力を監視によって権力の暴走を防ぐこと、弱者の状況を広く人々に知らしめることで行政を動かすこと、といった使命感を持っている。

しかし、彼らがよって立つ基盤が揺らいでいるとしたら?

権力を監視する必要なんてないと考える人。

弱者の状況なんて知りたくない、

或いは、弱者のことを取り上げるといいながら自分たちのことは取り上げないじゃないかと怒る人。

そういう人が増えつつあるとしたら?

そんな想像は、彼らの中でなされていないか、非現実的だと思われているような気がした。

 

しかし、現実には、ジャーナリズムが自らの存在意義の基盤に位置付ける「民主主義」という制度そのものが欠陥を露呈しつつある。

その課題を突き付けたのは、言うまでもなくトランプだ。

トランプ大統領の誕生は、間違いなく民主主義の欠陥だ。

多数決は、マイノリティを抑圧する方向に作用する。

アメリカ国民の半数は、理性的な決断を下す「リーダー」ではなく、自分達の主張を代弁する強力な「王」を選んだ。

「王」が代弁する主張によって、不利益を被る層がいたとしても知ったことではない。

仮に、自分たちの主権が制限されても、「王」がうまくやってくれるのならそれでいい。

民主主義は、その主権者によって否定されつつある。

 

民主主義が否定されるということは、民主主義を基盤に持つジャーナリズムも否定されるということだ。

メディアによる「王」の否定は、「王」を選んだ自分たちへの否定へとつながる。

ジャーナリズムが守ろうとしてきた「国民」は、権力を支持する側に立とうとしている。

 

ジャーナリズムの側は、自らが守ろうとしてきた人々に攻撃される状況を受け入れられない。

そのフラストレーションは権力へと向かう。

その過程で、ジャーナリストたちの持つ強い使命感が、時には過剰に思えるほど強い論調を生むのかもしれない。

ジャーナリズムの役割は人々を「反権力」の名の下に連帯させるという方向から、「親権力派」と「反権力派」に意図せず分断させる方向に転じ始めた。

いまや権力の側が、SNSを通じてメディアと同じかそれ以上の発信力を持ちつつあることも、この傾向に拍車をかけるだろう。

人種や宗教に対する差別を助長するような思想はもちろん問題だが、分断が深まりつつある状況にあっても民主主義を盲信し、トランプ支持者を罵ることしかできないリベラルにも深刻な問題がある。

 

ジャーナリズムが抱える問題は、インターネットの普及で紙の新聞やテレビを見る人が減ることではない。

ジャーナリズムの根幹が否定されつつあることが問題なのだ。

そういう意味で、今のジャーナリズムの将来性は危ういと思う。

この状況が記者さんの努力とか経営努力みたいなものでどうにかできるレベルなのかは分からない。

できるだけ早くこの状況を変えようもがけば、それはジャーナリズムによる権力への過剰な(時には客観的証拠にも欠ける)攻撃やリベラルを名乗る人々による過激なデモという手段をとることになるだろう。

それは自分たちの立つ基盤を自ら破壊する自爆に他ならない。

しかし、少なくともアメリカではそういう方向に進んでいるような気もする。

かといって、差別が許されてはならないし、困難な状況にある人を切り捨て、自分だけが助かることを求めるような主張は慎まれるべきだと思う。

分断が深化する状況をすぐには止められないだろう。

もしかしたら、何らかの大きな痛手を負わなければ人間は学べないのかもしれない。

 

それでも、「どうにもならない」とか「これが人間だ」と言い切ることが、知性的と言われてはならない。

「人類の未来」という途方もなく深遠かつ滑稽なテーマに、本気で取り組み続けなければならないのだと思う。

少なくとも、エリートと呼ばれる人達だけは…。