なすの日記

思考を散歩させるための場所

自分の時間 他人の時間

「自分の時間がほしい」と言ってしまうことがよくある。

基本的には、一人で好きに過ごす時間というような意味で使っている。

「自分の時間」というと、その時間は完全に、自分でコントロールできているかのように思える。

でも、本当に自分の時間、プライベートな時間を自分のものにできているのだろうか。

そう思うようになったきっかけが、下に挙げた記事。

自分の時間を過ごしている子は、抽象的な思考ができる状態に自然に発達していく - 虹色教室通信

子供は、自由かつ一人で考える時間を与えられると、その中で抽象的な思考が鍛えられるみたいな話だが、

それこそ中学生くらいから、自分のペースで物事を考えられる時間なんて与えられていたのだろうか、という疑念がよぎった。

記事の中で、大人が懇切丁寧に様々なことを教えた子供はテストで良い点を取るが、自分で答えを探す段階になったとき、急に弱くなるという経験談があった。

本の学校は、まさにこの状態で、教えられたことを吸収することに特化されている。

その達成度は、テストで測られるので、つねに吸収に励まなければならない。

ところが、突如、自分の意志による選択を迫られる場面が、人生には何度かある。

特に進路を選ぶ時は、いきなり自分のやりたいことを問われる。

今まで、自分が何をやりたいかとか「こう生きたい」といった意志とは無関係に、学ぶべきこと・やるべきことを決められ、従っていたのに、突然「好きなことをしてごらん」と放り出される。

放り出されたって、自分の意思を持ったことなどないものだから、他人から吹き込まれたり、今までに刷り込まれた知識に沿って判断を下していくことになる。

その知識とは、学校選びでいえば偏差値だったり、誰かが吹聴する校風なるものだったりするわけだ。

そもそも、いつまでに進路を決めなければならない、というタイムリミットも誰かが設定したものだ。

しかし、実際は、別にその期限までに決断を下せなくたって、死ぬわけではない。

(もちろん家庭の事情とかで、選択肢のない場合もあるが)

それでも、何かに追われ、今までに得た、特に根拠のない、自分に合っているかどうかも分からない物差しで自分の将来を決めていく。

 

こういう風に、自分の人生における決断を下そうとしている時、その時間は、本当に「自分の時間」なのだろうか。

他人が決めた時間設定の中で、他人が作った物差しを用いて、自己決定をする。

それは、一見、「僕は○○したい。だから、□□という選択肢を選ぶ」という語りで、自分の意志のように見えるけれど、その過程をコントロールしていたのは自分なのか。

そもそも、自分が選択しなければならないタイミングは今なのか、という問いから、なぜ自分はこの決断を下すのか、という段階まで、全て納得したうえで、物事を進めることができているのだろうか。

 

この国では、基本的にどの選択肢を選んだって、絶望的に不幸になることはあまりない。

一方で、その恵まれた環境が、自分の決断への根拠の強さとか、決断から生じた結果への責任とか、決断を下した自分への信頼とか、そういうことへの意識を曖昧にしているのではないだろうか。

受験期間は、「こんなテストで本当の学力は測れない」とぼやきながら必死に勉強しても、どこかしらの大学に受かってしまえば、「受験勉強もそれなりに役に立っている」とか言い出すのである。

就活だって同じだ。こんなテストや2~3回の面接で本当の人間力は測れないと文句を言いながらも、どこかに受かれば「就活やってよかった」というのである。

 

一応フォローしておくと、これは「転向するな」という話ではない。

転向したといっても、受験や就活が人生にとってプラスに働くというのは、真実だと思う。

ここで言いたいのは、人生をより納得しながら進めることはできないのか、ということだ。

換言すれば、自分が持つ時間の尺度で生きていくことはできないのだろうか。

自分の時間とは、単に一人で何かをするという意味ではなく(もちろんそういう意味で使っても良いのだけど)、自分が生きる時間とその中で下す決断を、自分のものとして納得するための時間だと思う。

 

なぜこういうことを言うかというと、私たちが生きる現代は、色々なことが効率化されすぎていて、自分独自の時間軸をほとんど持つことも適用することもできないまま、誰かが作った画一的な時間の速さで物事が過ぎていくからだ。

その中で、素早く自分の納得できる決断を下す才能がある人もいる。

そういう人は、今までの人生の中で時間を自分のものにしてきたからこそ、意思決定の時間を短縮できているのだろう。

でも、そうじゃない人もいる。

自分の意思決定の過程に入り込んだ他人の思考、乱暴に言えば他人の受け売りを、どこまで批判的に検討し、決断を自分のものにできるかは、他人が決めた期限におびえることなく自分の時間軸で物事を思考できるかにかかっているように思う。

なにも下した決断が独創的である必要はない。

例え、普通と言われるような決断でも、その決断に至る過程を自分でコントロールできていたなら、それはとても立派な選択と言われるべきだろう。

例え、他人に指示されたことをやっていても、自分の疑問が全て解消されていたり、従うべきだと判断していれば、それは自分の時間と呼べるだろう。

他人の時間を生きているとき、それは少しの時間でもその人を疲弊させるし、

逆に、自分の時間を生きているとき、どれだけ長く活動していても精神的な疲労は少ない。

 

元の記事とは、すこしずれた話題になっていると思うが、

最近は、こういうことを思わずにはいられない。