海外経験の語り方
留学から帰ると必ず、「どうだった?」と聞かれる。
留学というのは、短時間で終わるイベントではなく、数か月から数年に及ぶ生活そのものだから、一言で感想を言うことはできない。
一方で、話を聞く側からすれば、遠い異国での体験や感想を聞きたいと思うのは当然だ。
聞かれる側も留学先で感じたことを語りたいと思うようになる。
僕は、その際、どう体験を語るのか、という問いを留学前から持ち続けている。
経験を語る際、大きな軸となるのが留学した「国」だ。
デンマークに行った僕は、よく「デンマークでは~」という語りかたをしてしまう。
僕が言いたいのは、この語り方では、過度な一般化がなされてしまう、ということではない。
留学先の体験の語り、もう少し明確に言えば、留学先で感じた問題意識が語られるだけで放置され、聞き手にとっても遠い国の遠い話として終わってはいないか、というのが僕の感じる疑問だ。
デンマークなんか特に福祉やジェンダーなどが絡む文脈で好例として、言及されることが多いけれど、デンマークに行ったことがない人からすれば「へー、すごいねー」で終わってしまう。
それは、ほかのどの国でも同じだ。
海外経験をもとに日本をディスっているだけだと、ただのうざいやつだ。
自分の海外経験を根拠に議論する人がなんとなくむかつくのは、情報量・経験の差に優越感を感じてしまっているからだろう。
相手に同じ経験がない場合、語り手と聞き手には情報量の差という上下関係ができてしまう。
聞き手が質問し、語り手が答えるという一方向的な情報伝達になってしまう。
会話を通じて同じ問題意識を共有するには、相手の共感を得ることが必要だと思うけれど、そもそも海外経験とは、異国での体験であって、本来的に共感を得られるものではない。
相手が行ったことのない国の話をした時点で、それはおとぎ話のような遠い世界の話になってしまう。
特に日本人は、ほとんどの場合、日本人に囲まれて育っているから、異文化との距離が非常に遠いのではないかと感じる。
とは言ってもせっかく海外に行って感じたことを、封印してしまうのはもったいない。
自分の経験を元に、自分がもっと幸せに暮らせるようにしたいし、あわよくば、日本という国で幸福を感じる人が増えればよいと思う。
そもそも、海外で感じたことを日本全体に適用したいと思ってしまうのも、日本人の性なのかもしれない。
デンマーク人のように、16時に帰宅する生活をしたいなら、自分がそうできる環境を探して自分が幸せに暮らせばそれでいいはずなのに、なぜか、日本人みなが16時に帰る生活を送れればいいのに、と思い議論し、何とかならないかと思ってしまう。
日本というのは、皆が国益を考えてしまう国なのかもしれない。
日本は、外との隔たりを実際以上に強く意識する。
だからこそ、長期間海外に行くことは多大なエネルギーを伴う一大イベントとみなされるし、
そういうメンタリティーは自分を含め、多くの人が無意識のうちに持っていると思う。
だから、逆に海外の経験を日本というフィールドの中で生かし切るのは相当難しいことだと思う。
本気で、海外での経験を日本で生かそうと思うなら、しっかりとした自己理解が欠かせないと思う。
自分が海外で何を良いと感じたのか、それはなぜなのか、その背景には何があるのか。
デンマークではみんなが16時に帰宅していて、日本もそうなれば良いと思った、という語りでは誰も動かないし、聞き手にとっては、想像の及ばない理想郷の話になりかねない。
まあ、飲み会の話題になればいいという考えなら、そこまで考える必要なんてないのだけど、実際、少なくとも自分が抱えている問題意識は他人も同様に抱えていることが多い(労働時間の話とかはまさにそれ)。
だから、やっぱり、海外での経験は自分の中での消化の仕方、そして、語り方によってはもやもやしている人にとって光明になる可能性を持っている。
日本における海外経験者の作法みたいなのは、もっと研究されるべきではないか。