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なすの日記

思考を散歩させるための場所

中立はただの無関心かも

この前、友達に「お前はいつもニュートラルだ」と言われた。

それは、良い意味でも悪い意味でもないと思うけれども、自分の中でハッとするものがあった。

確かに僕は、常に中立的だ。

誰かがある意見を言えば、反対の立場で論じてみせ、何かを断言することはない。

何かを言い切ってしまうのは怖い。

物事には常に様々な側面があって、それをわかっていることが知性だと思っていた。

それは、あながち間違いではないと思う。

しかし、中立であるだけでは何も始まらないとも思う。

 

どこで見たか忘れたけど、「中立」という言葉のうまい説明がある。

中立とは、争いが起きたときに当事者を仲介するための存在、態度であり、

何も意見を述べなかったり、ただ両論を併記する人は中立ではない、と。

その通りだ、と思った。

 

世界は争いで満ちている。

大きなものから小さなものまで様々だ。

民族間の紛争から、今日何を食べるかまで、生きていればあらゆる場面で意見の対立に出会い、時に自分も立場の表明を求められる。

しかし、日本人は自分の立場を持つことに慣れていない。

公平であることが是とされ、学校でも家庭でも特定の主義主張が推奨されることは少ない。

しかし、「公平」が「意見を持たないこと」と同義になってしまってはいないか。

「公平」とは「聞く耳を持つこと」であり、意見をもたないということではないはずだ。

事実、意見がなければ何もできない。

自分で意見を持たなければ、誰かの意見に従うだけになってしまう。

 

意見を持つということは、誰かと対立するということでもある。

それは、日本人にとって避けるべきものであり、意見を持てない一つの原因かもしれない。

 

しかし、意見を持たないというのは、無関心と同義でもある。

関心を持たなければ、何かに関わり対立を経験する必要もない。

しかし、それでは何も問題は解決しない。

ある現象を「問題である」と認識し、それを自分が「良い」と思う方向に変えていかなければ、世界は何も変わらない。

若いうちは、誰かの大きな意見に流されていればいいというほど鈍感ではないはずだ。

だから、今のうちに意見を持つ癖をつけたい。

どんな小さなことにも自分なりの論理で意見を持ち、対立を恐れないように生きていきたい。

対立は敵対ではないし、自分より優れた論理は素直に受け入れればよいと思う。

それが「公平」ということだろう。

知性は、中立という名の無関心を維持するためではなく、前に進むための意見を持つためにあるべきものだと信じたい。

 

そして、叫ばれるだけの意見は意見とは言えない。

意見に基づいた行動がセットになるべきだ。

意見を持っていたとしてもほとんどの人は、意見を叫ぶだけだ。

その姿は、正直醜いと思う。

全ての出来事に行動を起こせるわけではないかもしれないけれど、

ただ、何かを述べるだけの人間は一番かっこ悪いし信頼もされない。

今はSNSがあるから、そこで何か意見を表明すれば何かをやった気分に簡単に浸れる。

しかし、それは本当にインスタントなもので、

例えば本当に困っている人がいたとしてSNSで救われるかはかなり微妙だ。

SNSはあくまで補助的なツールであり、その力を過大評価してはならないと思う。

 

日本という社会が、意見を持ち、その意見に従って行動に移ろうと思う人に対して寛容で、そんな人を支援できる社会になるために何ができるのだろう。