疎外感の行き先 -草間彌生展から-(上)
市内から電車で40分、眼前には海が広がり対岸にはスウェーデンを望む美しい場所にある美術館では、草間彌生の企画展が行われていた。
名前は知っていたけど実際に作品を見るのは初めてだ。
企画展終了まで1週間とあって多くの人が訪れていたが、海外でもこれほど人気なのかと驚いた。
僕にとって草間彌生とは、かわいいけど少しグロテスクな水玉模様を描く変わったおばさんであった。
しかし、その水玉模様は彼女が統合失調症であるがゆえに見る幻視・幻聴に由来するという。
それを証明するように初期の作品群は今の草間彌生が描く物より、遥かにグロテスクである。
また、彼女はヒッピーをテーマにしたインスタレーションや過激なパフォーマンスを行い前衛の女王と呼ばれていた。
そんな彼女の昔の姿と今の姿は大きく異なるような気がした。
最近の草間彌生はルイ・ヴィトンやKDDIとのコラボレーション商品を発表したり、24時間テレビのTシャツをデザインするなどしている。
この傾向に対して「彼女のアートは資本主義的だ」と批判するのは簡単だ。
実際、草間の水玉パターンは一目でそれが彼女の作品とわかる点においてブランド化との親和性が非常に高い。
しかし、実際アートの価値は金銭的価値に置き換えられるのが普通だし、値段のつかないもの、つまり誰も欲しいと思わないものをアートだ!と宣言したところでそれがアートであると認められることはないだろう。
このアートの市場化を大胆に行ったのが草間と同じ日本出身の村上隆だろう。
彼は最も市場価値の高くなるようなアートを作ることを明言し、事実彼の作品には途方もない値段がつく。
僕の感じた違和感は「市場化」「資本主義」というワードで説明しきれるものではなかった。
今回の草間彌生展の特徴は観客が草間彌生の世界観に「親しめる」こと、「触れられる」ことだ。
しかし、そもそも彼女の作品、特に初期のものはそういう価値観と相いれるものではない。
彼女が絵を描き始めたきっかけが実際に統合失調症を原因とする幻視・幻聴にあるとして、そのような世界観に多くの普通の人(幻視・幻聴を見ない人)が「親しむ」ことなど可能なのだろうか。
彼女の初期の作品が物語っているのは「疎外」であると僕は思う。
多くの人が普通に生活しているにもかかわらず、他者には見えないものが見え、その恐怖に日々脅えねばならない
その恐怖や不安の発露が彼女の作品であったはずなのだ。
あえて「発露」という言葉を使ったのは、おそらくそのような深刻な状況への「理解」を求めて作品を作ったのではないからだ。
彼女の初期の作品は、健常者(誰を健常者とするかはさておき)には触れられぬ世界、彼岸が存在することを暗示している。
僕がどれだけ手を尽くそうとあちらの世界に渡ることはできない。
僕が精神を病んだとしても、僕が見る景色は草間のものとは異なるだろう。
同じ世界観の中にある我々に別世界の存在を提示しようという試みは、彼女の過激なパフォーマンスにも通じる。
そのような「疎外」の感覚は今の展示からは拭い去られている。
美術界は発露せざるをえないような疎外の感覚の表現を駆逐し
「万人のためのアート」、つまり一種の福祉のようなものになろうとしている。
そのような価値観の中では、グロテスクなものをグロテスクなまま提示してはいけないし、アートはすべての人にとってアクセス可能なものでなければならない。
ルイジアナ美術館の試みが成功であったことは、会場にあふれる人々の笑顔や「楽しい」という言葉が証明している。
この展示に対して批判的な意見を持ったわけではない。
しかし、疎外を感じる人の居場所は残されるのだろうか
<たぶん続く>