ゴジラ(1954)を見て
久しぶりにゴジラを見た。
1954年の最初のやつだ。
敗戦から10年後、日本人に未だ焼きついていた戦争の記憶を呼び起こすような作品である。
もちろん僕は戦争を経験してはいないし、戦争を扱った映画を見尽くしたわけではない。
(というか普段あまり映画そのものを見ない)
でも、焼け野原になっていく東京や途中で挿入される死を覚悟した親子の会話、そして多くの遺児と共に映し出される病院の描写は戦争のイメージを喚起せずにはいられない。
黒瀬陽平によれば椹木野衣は、このゴジラを日本人が戦争の記憶を無意識化で継承するための古典として最も”マシ”なものだと言った。
しかし、ゴジラという空想上の怪獣を用いて戦争、あるいは原爆を表現したのはなぜか。
それは日本人にとって戦争もまた地震や津波、そして怪獣の襲来と同様の一種の「災害」だったからだ。
突如、空から飛行機が飛んできて爆弾を落とし今まで人の形をしていた存在が焼け焦げていく。
そこに、人によって殺される戦争というリアリティは感じ得なかったのではないか。
その点、地上戦が行われた沖縄は特殊である。
災害の国でもある日本は、あらゆる犠牲者、つまり「もっと生きられたはずの命を途中で絶たれた人々」をまとめて「慰霊」という形で弔ってきた。
その中で、人災と天災の区別はうやむやになっていく。
その構造は東日本大震災の時も同じであった。
津波・地震による被害と原子力発電所の問題はどこか一つの問題のように処理され、
どちらも天災として処理される傾向にある。
しかし、後者には明らかに人災の側面がありそもそも原子力というテクノロジー自体に内在する危険が引き起こした問題であるという点から、誰かに責任が生じることは疑いようもない。
その責任とは、東電のトップが辞めることであったり補償を完遂するというだけの意味ではない。
テクノロジーの限界を露呈した事件を引き起こした国として、どのような未来を世界に示していくのか、という問題だ。
この種の「理想を示す」という行為は日本の不得意とするところでもある。
かつて、日本は「大東亜共栄圏」という理想を掲げアジアに進出したものの、利権の獲得と表裏一体であったことや事の進め方があまりに性急で乱暴だったことから失敗に終わった。
差異たる例は、満州国の建設だろう。
民族共和をかかげ、立憲民主政の形をとりながらほとんどの権力を日本人に集中させた国家は、あらゆる民族の指示を得られぬまま瓦解した。
話が逸れた。
今回、ゴジラを見返してみて最も印象的だったのはゴジラ対策として巨大な高圧電線を海岸に張り巡らし、沿岸から人々を退避させた上でゴジラを撃退しようとするシーンだ。
その光景は、三陸沿岸に建設されている巨大な堤防、そして人々の高台移転と重なる。
祈りでは何も現状を変えられない事に気付いた人類であるがしかし、凄まじい速さで発展させてきた科学技術をもってしても巨大な災いへの対処はなんとも心もとない。
極端に言えば、祈りというごまかしによって解決せずとも心の平安を得ていた時代から、ごまかしに気付いたものの自然を征服するだけの技術を手にしたわけでもないという時代を僕は生きている。
また別の機会に書こうと思っているけれど、今ぼくのいるデンマークには地震がない。
少なくともいまここにいる間は地震で死ぬ事はないのだ。
逆に、日本人なら誰もが経験済みであると思うが、地震の最中は本当に死を意識する。
後で確認してみると震度3程度の揺れだったとしても、自分のいる建物の崩壊、津波への恐怖で心がつぶれそうになる。
そういう意識を持ち得ない社会とは大きく違うのだろうなと思う。