なすの日記

思考を散歩させるための場所

コトバノゲンカイ

言葉とはつくづく難しい道具だと思う。

僕たちが他人に何かを伝えようとする場合、使える方法はいろいろあるけれど

最も正確に伝達できて、かつ常に使えるのは言葉くらいのものだろう。

言葉がなければ今の人間の発展はなかったはずだ。

試しにそれぞれ共通の言語を持たない人たちがコミュニケーションを試みる様を想像してみる。(お互い英語を一切知らない日本人とロシア人とかを想像してみるといい)

お互いどれだけ高い知能を持って入れも、使える手段はせいぜいボディランゲージくらいで、伝えられる内容といえば「トイレに行きたい」とか「腹が減った」ぐらいのものだろう。

これだけでは人間の組織化や経済の発展は望めない。

というわけで今の人類は言葉を当たり前のように使い生活している。

読み書きができない人間はまだ地球上に多くいるが、体系的な言語そのものを持たない(「うー」とか「あー」だけで意思疎通を図るような)民族は存在しない。

 

音声や動画を伝えるメディアが発明されて僕らの言葉の使用頻度が下がったかといえば、そんな意見に賛同する人もいないだろう。

とにかく僕らは言葉に重度に依存している。

だからこそ、言葉は万能な道具だと思い込んでしまう。

 

 

或いは、言葉で説明できないことに対して無関心になってしまう。

 

 

僕は、言葉の役割は下の図で示したように、心で感じたことを切り取るものだと思っている。

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図のように思っていることの多くを切り取れる人は言葉の使い方がうまい人で、

多くの人は本当にわずかな部分しか切り取ることができない。

言葉は木でできた四角い枠のようなもので、後からその枠を丸にしたりすることはできない。

(ほとんどの場合)「きれい」という言葉で汚さを表すことができないように。

思ったことを正確に言い表そうとすればするほど、言葉は長ったらしくなる。

現に僕は一つのことを説明するためにこうしてだらだら文章を書き綴っている。

その最たる例は学術論文だろう。

結論だけを読めば、「AはBだ」としか言っていないのにそこに至るまで壮大な言葉の羅列がなされることになる。

小説なんかも、ある感情の動きなどを説明するためだけに膨大な言葉を用い、一冊の本になる。

そもそも小説が何を描こうとしているかは「感情の動き」だの「説明」だのというつまらない言葉だけで表せるものではないし、それこそ何冊でも本が書けてしまう。

 

現代のように凄まじい言葉の氾濫を目にしていると、人間は言葉で表せないものはないと過信しているのではないかという気がしてくる。

言葉の限界に無自覚な人間は、言葉を尽くしてできる限り正確に自分の見たこと感じたことを表現するよう努力するよりも、安易な言葉で手短に説明しようとする。

そういう人間の前では、どんな景色も「きれい」だけで表されてしまうし、

「どれだけきれいか」を丁寧に説明されても、聞く側の頭の中では「きれい」で処理されてしまう。

長い説明からその言葉が表しているものを想像する力は失われてしまう。

感情の起伏を「楽しい」とか「悲しい」とか「つまらない」とか、そういう便利な言葉だけで表現し自分の思いを伝える努力を怠り、「楽しい」という言葉から1パターンだけの「楽しい」しか想像できなくなると、自分が苦しい思いをすることになる。

 

心の中のもやもやしたものを表現する術を持たなければそのもやもやは解消されず、それはいつかネガティブな感情に変わる。

表現する術は言葉でなくてもいい。

言葉で表すことができないものがありそのことからくる文字通り「言い知れぬ」フラストレーションがあるからこそ、人は言葉があるにも関わらず絵を描き、踊り、歌う。

それが芸術という非合理的な存在の一つの側面だと思う。

言葉には限界があるという自覚、限界を知ったうえで言葉を尽くして何かを伝えようとする努力、そして言葉以外のもので表現されうることがあるという理解、言葉の背後への想像力。

これらを持てない人間は、言葉という記号から記号以上の意味を見いだせない機械と同じだ。

 

思い通りにならず、他人に完璧に伝えることもできない「感情」へのリスペクトを、どれだけ合理的な世の中になっても忘れないようにしたい。