なすの日記

思考を散歩させるための場所

放置の倫理 ー多様性を保証するには?ー

最近、下記のような記事が大きな反響を呼んでいる。

dot.asahi.com

実態は、「炎上した」のほうが正しい。

まあこのタイトルを見れば「いやいや、高校生のうちに恋愛したいでしょ!」とか「こういう教育が精神的に貧しくて社会で使えない東大生を育てるんだ!」みたいな反論が湧くことは予想できるし、実際になされた反論もそのようなものだった。

ここで考えたいのは、この母親の言っていることが正しいかどうかではない。

そもそも一個人の意見が正しいか否かというのは、勝手に情報の受け取り手が判断すればいいことだ。

ましてや東大理三を目指す子供の親なんてものすごく少ないのだからほとんどの人にとってどうでもいい情報ではないのか。

にもかかわらず、なぜこの記事は炎上したのか。

それは多くの人がSNSというツールを使う中で、あえて自分の意見を述べることを選択しているからだ。

逆に言えば、例え気に入らない意見があったとしても「放置する」という選択肢を取らない人が一定数いるということをこの炎上案件は示している。

この傾向はSNS特有の炎上につきものだ。

嫌なら見なければいいのに、わざわざ嫌いな芸能人のブログに誹謗中傷を書き込んだりする人がいるのも一つの例だ。

 

なぜわざわざ人を攻撃するのか、という疑問は今回は置いておいて

このような炎上が多様性や自由にどう影響するのか考えたい。

なんらかの言動が炎上した場合、その当事者は謝罪や発言の撤回を求められることになる。

騒ぎになれば炎上された本人、そしてそれを見ていた人々が萎縮する。

その結果、自由に行動することは難しくなり、結局人から何も言われないようなことしかできなくなる。

ここで、僕が言いたいのは「炎上が自由を奪う」という陳腐な意見ではなく、

多様性や自由を担保するのは「放置」だ』ということだ。

 

当たり前のことだが、この世界には自分と意見の違う人間がたくさんいる。

極論を言えば、人間は一人一人異なる存在なので全員違う意見を持っていることになる。

では、そのような世界で多様性を保証するとはどういうことなのか。

「相手のことを理解しようと試み、他者を尊重すること」というイメージを持つかもしれないが、

それは必ずしも正しくない。

自分と違う人間の気持ちを理解したりさらにそれを尊重したりできるのはそれこそ聖人だけだと思う。

むしろ、他人の気持ちがわかるなんていうのは傲慢ですらあると思う。

例えば、多様性の問題としてセクシュアルマイノリティーがよく取り上げられるが、

僕はその人たちの気持ちを完璧に理解した上で尊重することなんてできない。

でも、「共感できない」は「認めない」ではないということを覚えておいてもらいたい。

「君たちのこと理解はできないけど、君たちが生きたいようにいきればいいんじゃない?」という心の持ち方は可能だ。

「あんたも勝手に生きていいから、俺も勝手に生きさせてくれ」という態度

つまり、「放置」だ。

自分とは全く違う意見を持っている人がいようと、他人の権利を侵さない限り相手の嗜好や考えに干渉しない。

多様性や自由を守るのはこういう態度だ。

 

しかし、自分と意見が違う人間を徹底的に攻撃しなければ気が済まない類の人間がいる。

そのような人たちからの攻撃からは、守られなければならない。

自分の権利が侵害されていないにもかかわらず、他人の権利を侵すのは過剰防衛だ。

 

多様性を求める態度は思想的にリベラルと呼ばれるものだと思うが、

日本のリベラルはあくまで「保守に対するリベラル」といった印象が強い。

安保法案に関する運動では、「デモに賛成しないのであれば反安倍政権の人でも攻撃する」という光景が見られた。

多様性を認めないその態度はリベラルには程遠い。

 

最初の記事に戻れば、「そういう意見の人もいる」というだけのことなのに

まるで自分が攻撃されているように感じたり、もっとタチが悪いのはある意見によって傷つく人々を”勝手に”想定して、その人たちが声をあげたわけでもないのに勝手に正義感を振りかざし他者を攻撃する人たちがいる。

本当に些細なことでも放置できない人がいるとい例として記事を挙げた。

 

 

勝手に生きたい人たちが声を上げるのは、勝手に生きることが許されなくなる状況だ。

「放置」とはいかなる状況においても相手に干渉しない、ということではない。

困っている人がいて、それを実際に目にしたなら助けなければならない。

それは「哀れみ」という言葉で表現されるべき感覚だ。

道端に倒れている人がいたらどれだけ嫌いなやつでも一応助けるみたいな感じだろうか。

LGBIの問題や難民の問題が具体例だ。

自由や平等の観念の基盤には人種や国籍、性別といった観点の前に「人間」という概念が存在する。

日本語の「人として」というやつだ。

人の生き方や考えを画一化しようとする試みはどこかで破綻するというのは歴史の教訓である。

だからこそ、ここ数百年の間に人間は多様性を認める方向に進んできた。

多様性を認めつつそれぞれの権利を守り義務を課していくにはできるだけ大きな括りが必要だ。

思想信条や国籍で括れば、その括りから漏れた人たちが必ず反発する。

そこで編み出されたのが「人間」という括りだ(奴隷のように人間であるにもかかわらず人間とされなかった場合もあるけれど)。

 

週刊誌の記事からとんでもなく大きなところに飛躍してしまったけれど、

まとめとしては「放置こそ多様性」ということで。