難民・移民から考える「思考」の射程範囲
物事を考える上で「どうしたいか」と「どうすべきか」という二つの次元が存在する。
ここでは、世の事象を全てこの二分法で説明できるということが言いたいのではない。
もっと身近な言葉で言えば「〜したい」と「〜しなきゃ」かもしれない。
この二つの大きな違いは「時間」だ。
「どうしたいか」を考えている時、自分の行動が始まると予想される時はけっこう先のことだ。
それは、結局実現されぬまま終わる可能性も大いにある。
一方、「どうすべきか」を考えているときは大体、期限が定まっている。
精神的余裕に差はあれど、時間に追われているはずだ。
個人レベルだとこの2つの思考の違いは分かりやすい。
宿題をやろうとする時、時間があればどれだけの完成度で宿題を完成させたいかを考えることができる。
でも、期限の前日になればそんなことを考えている場合じゃなく宿題を終わらせねばならない。
ただ、物事の規模が大きくなるとこの二つの思考がごちゃまぜになることがある。
僕がそれを強く感じたのは「難民問題」と「移民問題」だった(一応、二つを分けておく)。
移民を入れるか否か、ということを呑気に考えていられるのは移民の流入が少ない時だけだと思う。
いま、地中海沿岸のヨーロッパ諸国にはシリアや北アフリカから大量の難民が流入している。
日本にいて、ニュースだけを見ていると「難民を受け入れるべきかどうか」といった議論がなされがちだ。
日本の周辺に難民はほぼいないから、日本に難民が押し寄せるという状況になることはない。
だから「どうしたいか」という議論ができるし、個人の意見から責任が発生することはない。
でも、現実に難民の流入に直面する国にとって「どうしたいか」を話し合うことにはほとんど意味がない。
なぜなら、考えている内に難民はどんどん入ってくるから。
理想を語るのではなく、対処を語る必要が生じる。
「難民を入れたくない」という意見が勝れば、それは押し寄せる難民を拒否するという「対処」となり、トルコの海岸に打ち上げられた少年のように「難民の死」という結果になる。
(ちなみに、ここで言いたいのは難民を受け入れろ!という政治的主張ではない。)
少しわかりにくいと思うので、日本における移民問題を考えたい。
日本に移民を入れるべきか否かという議論がある。
僕は、これは殆ど意味のないことだと思っている。
なぜなら、これからの少子化のなかでそれなりの経済規模を維持するには
移民を「入れざるをえない」状況になると思うからだ。
来年から突如少子化対策が効果を現して出生率が途上国並みになったとしても
その子供たちが生産年齢人口になるには15年かかる。
そして、残念ながら出生率が爆発的に上がることも多分ないから、状況はけっこう絶望的だ。
日本は移民問題に関して「どうしたいか」ではなく「どうすべきか」を考える段階にある。
「移民を入れたくない」という意見は、それがこの先の日本の破綻につながるということを理解した上でなされなければならない。
(日本人がそういう選択をするのならそれはそれでしょうがないと思うけど。)
人口が増加していた時期なら「移民はいれたくないね」「それなら移民を入れなくていいよう出生率を維持しようね」という話ができたはずだが、
今となっては、「移民を入れたいか入れたくないか」という話をしていても意味がない。
どうせ移民を入れることになるんだから、どういう風に入れれば軋轢が少なくなるか、どうすべきかを考えようよというのが僕の意見だけど
多分、この先どうにもならなくなってなし崩し的に移民を受け入れて、低賃金労働に従事させて、移民の2世が大きくなる頃には彼らが権利要求をして争いがおきるんだろうなあという気しかしない。
「どうすべきか」っていうのは具体的な行動が伴うのも特徴かもしれない。
まず確実に起こりうることでも、それに備えて具体的な行動をとるのは難しい。
だって、まだそれは起きていないし、もしかしたらおきないかもしれない。
移民がなくてもまだ日本はやっていけるし、もしかしたらどうにかなるのかもしれない。
ただ、現代に欠けているのは20年〜30年あるいはもっと長い期間で物事を見て
仕事をする視点だと思う。
起こりうる事態に備えるには、国家レベルになると数十年規模の視点が必要だ。
もしかしたら無駄になるかもしれないその数十年に命をかけられる人間になれるだろうか。