言葉には、力がある ―氾濫する醜い言葉に立ち向かうために―
言葉は魔法だと思う。
いかなる言葉も、誰かへ向けて発せられる。
その誰かの所に届いた言葉は、その人の心や行動に影響を与える。
言葉はただの音や模様ではなく、人(自分も含む)を動かすものなのだ。
その昔、言葉には魔力が宿ると信じられていた。
言葉を扱えるのはごくわずかなエリートだけであり、言葉による祈りや呪いが現実になると思われていた。
今の時代にそんなことを真面目に語れば、間違いなく馬鹿にされるだろう。
現代人にとって言葉はだれにだって使えるもので、それは情報伝達のツールにすぎない。
本当にそうなのだろうか。
今だって、言葉には力がある。
それだけ書くと、本のキャッチコピーみたいだし言葉の力を肯定的に捉えているように思われるかもしれない。
だが、今回は言葉の力のマイナス面を考えたい。
友達に突然、「お前は馬鹿だ」と言われたらどう思うだろう。
僕なら結構傷つく。
「僕が馬鹿である論理的理由が述べられるまでその言葉は無効だ!」なんてことは考え付かない。
どれだけ無根拠でも、人は言葉だけで傷つく。
逆に言えば、人は言葉によって簡単に人を傷つけることができる。
例え他人に向けられた言葉であっても、誰かを侮辱したり貶めたりするような言葉を聞いたり読んだりするだけで嫌な気持ちになる。
最も分かりやすいのはヘイトスピーチだろうか。
自分に向けられた言葉でなくても、だれかをゴキブリ呼ばわりしたり殺害を示唆したりする暴言は聞いていて本当に不快だ。
憎しみの込められた言葉は、その対象となる人間だけでなくその言葉に触れた全ての人間に憎しみを喚起する。
言葉を発した人間の中では憎しみが再生産され、対象となった人間には怒りが湧き上がり、それを単に聞いただけの人間もどちらかの側に無意識に立ってその感情を追体験することになる。
負の感情を背負った言葉が負の感情をまき散らすだけではない。
言葉は一種の麻薬でもある。
大きな夢であったり、かっこいい理想をその口から語るとき、人は少なからず快感を覚える。
その言葉が、自分を突き動かし発言が現実になったりすることもある。
しかし、自分の言葉に酔いしれるだけの人間になってしまえばそれは虚言癖という誹りを免れない。
使い方によって自分のパフォーマンスを高めることも、自分を破滅させることもできる。
そういう意味での麻薬だ。
時事的なことを例にとると、国会前でデモをやっている人達も言葉という麻薬に侵されていると思う。
「平和」「戦争反対」「子供たちの未来のために」
これらは、誰にも否定されようのない「正義の言葉」だ。
そんな正義の言葉を発する自分も誰にも否定されようがない。
正義の言葉を発することで得られる快楽に浸っていては物事は変わらないわけだが、
言葉の麻薬の中毒者になった以上、他人の言葉は届かない。
よほどのことがない限り、彼らは自分の言葉の世界の中だけで生きていくことになるのだろう。
言葉には僕たちが想像する以上の大きな力がある。
一方で、言葉はあまりに簡単に拡散されるようになってしまった。
大きな力を持つからこそ、言葉は慎重に練られるべきだし安易に発してよいものではない。
Twitterで暴言を吐き炎上する人も、それに対して暴言で非難する人もどちらも安易だ。
一人の心の中にしまっておくことのできたはずの憎しみが一瞬で拡散してしまう。
「思う」ことがあくまで自己完結的な行為であるのに対し、「述べる」ことは本質的に他人を巻き込む行為だ。
ここでの「他人」には「自分の中の自分」とでもいうべき存在も含まれる(勝負の時、自分にむかって「大丈夫」と声をかけたりするでしょ?)。
そうはいってももう言葉の氾濫を止めることはできない。
言葉を練り上げることのできるプロ以外は発言するな!といってもそれは無理な話だ。
爆音で響く汚い言葉を嫌って耳をふさげば、小さな言葉を聞きのがすかもしれない。
それはそれで無責任ともいえる。
かといって雑音に身をさらせば、言葉によって自分の中に汚い感情が喚起されることに無自覚ではいられない。
僕は、世の中の雑音から身を遠ざけられるほど落ち着いた人間ではないし、嫌でも耳を傾け続けるしかないのかなと思う。
美しい言葉が、醜い言葉に音量で勝る世の中になりますように。