あの日あの場所にいたかもしれない自分
*今回のエントリーはごく個人的な発散なのであまり読んでも意味はないと最初に言っておきます。
今でも1年前あの場所になぜ行かなかったのかよく考える。
本当になぜかわからないけど、自分はいてはいけないような気がした。
たくさんの人が一つの目標の実現に向けて頑張っていた。
僕も最低ラインのことはやっていた。
でも、他の人たちの熱意に自分は及ばないと最後まで思っていた。
だからこそ、行くと言えなかった。
その場所へ行ったら安易な達成感を得てしまうような気がしていた。
本当に大勢の人が全力を尽くしていた。
その目標が達成されれば、その先にはきっと大きな感動が待っている。
そして、その感動の渦の中に入っていれば
僕も何かを成し遂げた気分に浸り、涙を流すことができただろう。
でも、それをしてはいけないという思ってしまった。
それは若干の後悔として僕の中にあるけれど、それは行かなかったことへの後悔じゃない。
他の人と同じように頑張れなかったことへの後悔。
頑張る価値のあったにもかかわらず、全力を捧げられなかった後悔。
どこかで、よくわからない反発心のようなものがあって頑張ることを妨げていた。
今でも当時頑張っていた人と会うのは少し気がひける。
自分はいつ頑張れるのだろうといつも思う。
自分は何のためなら頑張れるのだろうといつも思う。
過ぎ行く時間は二度と戻らない時間であることはわかっている。
でも、その不可逆的な時間を悔いなく過ごそうともがけばもがくほど
疲弊し、幻滅し、結局怠惰な自分に逆戻りする。
「死ぬ時に後悔しないように」としばしば言われるけれど、
自分の性格ならいろいろやり残しても「まあいっか」と言ってしまうだろう。
自己啓発という燃料を永遠に注ぎ続けなければ走れないのだろうか。
では、なんのために自己を啓発するのかそれすらよくわからない。
中途半端に勉強してしまったせいでいろんな欺瞞に気づいてしまった。
きっと欺瞞という言葉を使う時点で僕は何かから逃げて何かを暴いたつもりになっているのだろう。
僕が「欺瞞」と呼んでしまうそれを欺瞞と感じずにいられたら。
大人に教えてもらった常識を疑いもなく信じられたら。