なすの日記

思考を散歩させるための場所

まじめな人

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「まじめ」とはなんだろうか。

決まりを守ること

よく勉強すること

嘘をつかないこと

「まじめ」という言葉は良い意味でも使われるが、

皮肉としてつかわれることもある。

辞書によると

うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。

らしい。

 

最近、まじめっていいなって思う。

僕の言う「まじめ」はかなり限定された意味だ。

僕の尊敬する「まじめ」な人は

自分の価値観、感覚に対して嘘をつかない人のこと。

日々暮らしていく中で「これは違くね?」とか「ちょっと嫌いかも」

という思いによく出会う。

それは例えばサークルかもしれないし授業かもしれない。仕事かもしれない。

そんなとき人はどうするだろうか。

始めたばかりならもう少し続けてみる。

しばらく続けていたなら、本気になる余地がないか確かめてみる。

それでも違和感を持ってしまう。

そこで、自分の持つ価値観の方向にシフトできる人を

僕は「まじめ」と呼びたい。

 

人間というのは他人の価値観で生きてしまいがちな生き物だと僕は思っている。

みんなお金持ちになりたいと思うし中小企業より大企業に勤めたいし

他人から高く評価されたいと願う。

目指したものになれた時、それはそれで本当に幸せなのかもしれない。

でも何か鬱屈としたものを抱えながら

社会的評価の高い目標を目指しているのはただの思考停止だ。

それは世間で使われる「まじめ」という言葉が指す意味と同じ。

良い大学にいくために「まじめ」に勉強し

良い会社に入るために「まじめ」に活動する。

 

でも、本当の意味でのまじめな人は自分の価値観や感覚と誠実に向き合う人だと思う。

そういう人はとても強い。

様々な体験を通じて自分と向き合った結果、結論を下すから

他人の言葉になびかない。

自分を他人の作った環境に適応させるのではなく、自分が生きるための環境を作り出してしまう人。

その行為は「理想の実現」というきれいな言い方もできるが

実際は自分を納得させるために「そうせざるを得なかった」というネガティブな表現のほうがしっくり来る気がする。

それは自分の感覚を無視したりすることのできないめんどくさい人間ともいえる。

 

「すごい人」っていうのは別に崇高な人じゃないと最近思う。

一つの目標があってそのための一本道を走り抜けるというイメージは

確かにかっこいいけれど、初めから見えている道なら走るのは簡単だ。

 

方向性ブレブレでいろんな道に入っては行き止まりにぶつかり引き返す。

ところが俯瞰してみると距離的には実はものすごく進んででいたり、ほかに誰もいない場所へたどりついたりする。

そういうのは傍から見るとダサいし何をやっているかよくわからない。

でもそういうものなんじゃないかな。

他人からすごいといわれるために何かをするのはもう終わり。