ごめんな、俺は機械じゃないんだ。
留学に際し奨学金をもらえることになった。
よくわからないけれど日本代表と名乗れるらしい。
そんなわけでその研修に参加することになり、事前課題が配られた。
その課題は人材育成企業が作成していた。
その企業のホームページがとても熱くて僕はのけぞってしまった。
僕はどうしようもなくこういう雰囲気が苦手だ。
上にあげたようなスクールにはどこか人間を機械みたいにとらえている部分がある。
「これだけお金を払ってくれたらその分の能力を与えます!」
これはなにも教育する側だけでなく教育を受ける側の意識でもある。
というか受ける側が生んだ傾向なのかもしれない。
「高い授業料払ってんだから能力ちょうだいよ」
コストを払えば必ずそれに見合うものが手に入ると考えている。
それは大学でも顕著で、今や大学は就職予備校と化している。
「高い教育費をかけたのだからそのコストを回収できるくらい良い企業に就職させてよ」
この考え方は個人主義的な考え方と同時に広まったのだと思う。
僕の世代は「個性」の重要さが強調された世代だ。
一人一人はオンリーワンの存在でみんな何かしらの才能がきっとあって
夢は努力すればきっとかなうので夢は追いかけるべき。
でも、夢がかなわなかったら?
もし天性の才能が自分になかったら?
そんな不安を殺すために、人は夢を金で買うようになった。
音楽で生きていきたいなら音楽学校へ。
英語で話したいなら英語学校へ。
大企業に就職したいなら名門大学へ。
でも、僕たちは本当に残念なことに機械ではない。
僕たち人間の間にはとても大きな個体差がある。
1時間の勉強で100点をとれる人もいれば10時間勉強しても100点をとれない人もいる。
或は、10時間勉強して100点をとれない人が別の面で才能を発揮したりする。
僕たち人間は一人一人の個体差がとても大きくいので
一律のやり方で能力を付与することなんてできやしない。
さらに言えば
人間としての機能の向上を追求する人は多いけれど、
機能的に優れた人間だからといってその人が魅力的であるということにはならない。
何をやっても失敗するけど、多くの人に愛されて何とかなってしまう人
数か国語を喋れて仕事も早いけど人に好かれない人
いろいろだ。
「機能の追及をやめて人格者を目指そうぜ!」的な話をしたいのではない。
人間はみんなどうしようもないくらい一人ひとりが異なっている。
できないこととできること、得意なことと不得意なことがある。
やってることに全く一貫性がなかったり
他人からすれば意味の分からないことをしたり。
僕たちは支払ったコストの分だけ何かできるようになる精密な存在ではなく
なんだかよく分からなくて理解しようがなくてどうしようもなくガチャガチャした存在だと思う。
そういう誤差にイライラするんじゃなくて
誤差を受け止めて
誤差を笑って楽しめる自分でありたい。