そうだ、僕は日本人だった。
海外に一定期間行こうとすると
必ず「まず日本について学ばなきゃ!」という考えが浮かぶ。
外国人から日本について問われた時、答えられるように。
僕も留学を半年後に控え、そういう風に思う。
でも、僕たちはどうやったら日本を知れるのだろう。
歌舞伎や茶道みたいな伝統文化を体験すればいいのだろうか。
でも、一度や二度体験した程度で日本を語れるのだろうか。
そもそも日常生活に根付いていない伝統文化が「日本」なのだろうか。
じゃあ日本の歴史を語れるようになったらいいのかな?
でもそれは外国人だろうとgoogle検索すれば、wikipediaをのぞけば
得られる知識に過ぎないんじゃないだろうか。
その答えになるかどうかは怪しいのだけど
ハッとさせられる本との出会いがいくつかあった。
この本の中で「ミカド」というイギリスで19世紀につくられたオペラが登場する。
「ミカド」のあらすじはwikipediaを参照してほしい。
ここで登場する固有名詞は当時の日本への理解を実によく表している。
都の名前はティティプー、皇帝の名前はヤムヤム、皇太子の名前はナンキ・プー
という風に、当時の日本でさえありえないような名前ばかりで、
中国を含めたオリエンタルなイメージと混ざり合っている。
このオペラに登場するミカド(帝)は死刑を命じまくる人物として描かれている。
ちなみに、このオペラはコメディで東洋の架空の国を舞台としてイギリスを
風刺するという内容なのでストーリーそのものはコミカルに描かれているらしい。
驚くべきはこのオペラが世界中に広まり、オペラの定番の一つとなっている点だ。
現代においても改作され上演され続けている(ちょんまげにビジネススーツのサラリーマンが登場する現代版もある)。
このオペラにまつわる話は日本人にとってポピュラーではない。
「ミカド」を大々的に扱った『ミカドの肖像』が20年近く前に出版されベストセラーになったことを考えると
広く知られたり、研究対象になってもおかしくない。
でも、現実はそうではない。
思うに、日本人は「海外から見た日本」に対して鈍感すぎるのではないだろうか。
オペラ「ミカド」に見られるようなオリエンタルでファンタジックな日本像のようなものが
間違いなく海外にはあるし、そのことに日本人は薄々気づいているはずだ。
でも、それに正面から向き合おうとしない精神性とでもいうべきものがある。
アジアという枠の中でも日本という国は特殊だと思う。
エドワード・サイードの『オリエンタリズム』の中で
西洋にとって永遠に発展しない未開の世界として描かれた東洋が詳述されている。
日本もそのイメージにもちろん含まれていたし、今でも完全に消えてはいないだろう。
でも、日本は急速に発展し、いつしか欧米に本気で喧嘩を売ってくることもあった。
西洋にすれば、発展しないはずのアジアが自分たちのシステムを取り込み
自分たちと同じ水準にまで達したのだ。
これは西洋人からすれば理解不能なグロテスクな出来事ではないのだろうか。
当の日本人は自分たちの発展が欧米にどう見られていたのかを冷静に分析するということはあまりなくて
自画自賛的な議論しか展開されていないようなイメージがある。
僕たちは日常生活の中で自分の中の日本的な部分を意識することはあまりない。
というか、日本的側面は海外の文化に触れないと自覚できないだろう。
僕自身は海外経験はないけれど、紹介した2冊の本を読んでいて
自分が黄色人種であること。その黄色人種はほんの70年前まで露骨な人種差別をうけていたこと。今でも差別は少なからずあること。差別されなくても僕はサムライとニンジャとエンペラーの国の生まれであること。
そんな当たり前のことに想いを馳せてしまった。