なすの日記

思考を散歩させるための場所

タブーなき世界と感情の閾値

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ISISが世界を震撼させている。

人質を斬首し、その動画を全世界に配信するという劇場型の残忍な行為は

テロリズムの新しい形となりつつある。

アフリカのイスラム原理主義組織、ボコハラムも女子児童約200人を誘拐し、

世界の注目を集めた。

なぜ、未だかつてなかったような残忍な形のテロが起こるようになったのか。

鍵となるのは「タブー」の存在だ。

 

現代は「タブーなき世界」と言っても過言ではないと思う。

あらゆる規範が相対化され、たくさんのタブーが可視化され、その存在意義が問い直された。

今は国家の悪口を言おうが罰せられることはまずないし

信教の自由も保証されている。

シャルリーエブドのように神を愚弄しても法律上は罰せられない。

 

タブーがなくなったことによって並大抵のことでは注目されなくなった。

何をしても許されるということは、あらゆることが「普通」という枠の中に収められることを意味する。

さらにインターネットが普及し、多くのイメージが溢れるようになった。

少し検索すればグロテスクな画像はいくらでも手に入る。

映画やテレビでも多少の残虐なシーンは許容される時代である。

そして、注目されるために最後の聖域に手を出す人々が現れはじめた。

その聖域とは「人間性」といえる領域だ。

あまり良い言い方ではないが、「人として当たり前」の領域ともいえるだろう。

 

ISISのような組織は注目されるための手段として人間性を侵す方針に出た。

未だかつて誰も見たことがないような残酷なイメージを公開することで、

世界を震撼させ、自分たちの存在を知らしめることができる。

テロの訓練であったり死んだ後の人質であったりを流しても

それは無数にあるイメージの一つとなり、先進国の消費者には見向きされない。

 

僕はこの状況を「感情の閾値が過剰に上がっている」と表現したい。

閾値とは反応が起こる最低限の値とでも表現しようか。

痛みの閾値が5なら5未満の痛みは感じられない。5以上の痛みが来て初めて痛みが感じられる。

同じように現代では、面白いと感じたり怖いと感じるためにはかなりの刺激が必要で、

それ以下の刺激は感情を動かすことはない。

 

この状態は全く逆の方向にも作用している。

Twitter上で展開されている#ISISクソコラグランプリのような

シリアスな状況を軽薄な笑いに変えてしまう文化も感情の閾値で説明できるだろう。

現状のままではますます人間性は侵され続ける。

僕たちはイメージの消費者として一つ一つの行動を省みなければならない