なすの日記

思考を散歩させるための場所

不感症時代

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もし自分が砂漠の中で銃を突きつけられ

自分の命が72時間後に無くなるらしいという状況に追い込まれたら。

ここまで読んで「あぁ、人質事件か」と気づき、

途中で想像をやめてしまう人はどれだけいるのだろう。

 

日本はという国はこの種の人質事件が起きると

自己責任という言葉で片付けてしまう国になってしまった。

たしかに、今シリアに入国するのは命の危険を伴う。

死んでも文句は言えない。

でも、僕はここで問いたい。

残忍な死を予告された人間に

「自己責任」という言葉をわざわざ放つ必要があるのだろうか。

たとえ人質となった彼らが軽薄だったとしてもそれは間違いではないのか。

 

この文脈における「自己責任」という言葉には明らかに

非難のニュアンスを含んでいる。

「軽率な奴のために税金は使わせない」という金銭の観点とか

「面倒なことに日本と俺らを巻き込むんじゃない」という消極的な観点とか。

そんなことを考えて「自己責任論」を正当化する前にやることがあるだろう。

 

困難な状況に置かれた他者に同情することはできないのか。

たとえ彼らがどれだけ軽薄だったとしても

死の恐怖にさらされている人間に非難の言葉を向けて何になる?

彼らは無邪気に助けを求めているわけではない。

自己責任論者のやっていることは、「無邪気に助けてほしいと言う」人質を勝手に想像し、それを責めるという自慰行為でしかない。

 

ここではっきりさせておきたいのは

この同情と身代金は全く別のレベルの話ということだ。

身代金を払うか否かは同情するか否かとはちがい、純粋に政治的な問題だ。

過激派に金を払えばその金でまた誰かが殺されるかもしれない。

日本はテロに屈したと言われるかもしれない。

そういう政治的な議論の中で少しの人命より政治的方針が優先されることは

宿命と言っても良い。

きついことを言えばおそらく日本政府は(塾考の上で)何もしないだろう。

それが間違いだと言うことは僕にはできない。

 

それでももっと根本的なレベルで

他者への感情移入があってもよいのではないか。

「人として当たり前」という安易な言葉を使うのは悔しいが

そうとしか言いようがない。

ヘイトスピーチもシャルリーエブドも同じ。

単純に他人の真剣な行いや誇り、そして切なる願いを侮辱してはいけないのだ。

自分が汚い言葉で罵られたら。

自分が信じているものを侮辱されたら。

自分の「生きたい」という願いを否定されたら。

少し想像し、少し言動を変えるだけでいい。

そんなこともできない人間を

僕は人間と認めたくない。