エリートのあるべき姿としての「知識人」論
「知識人」という言葉がある。
少し古臭い言葉だが、今でもそれなりに使われているように思う。
ほとんどの場合、公共の場で言論活動を行う人のことを指して使われる。
一方で、ある程度のリテラシーを持つ人、という広い意味で使われることもある。
知識人とはなんなのか。
というか、知識人って必要なのか。
テレビに出てくる「評論家」なる人々は、社会の現状を批判するばかりで
誰にでも言えそうなことを言っている。
最近では、芸人や女優がコメンテーターとして情報番組に登場し、
まるで知識人かのように振舞っている。
僕が持つ疑問に答えてくれたのが
エドワード・サイードの「知識人とは何か」という本。
Amazon.co.jp: 知識人とは何か (平凡社ライブラリー): エドワード・W. サイード, Edward W. Said, 大橋 洋一: 本
彼が説く知識人論とはこうだ。
知識人とは内省し、権力に迎合せず、狭い専門性に閉じこもらず、常にマイノリティに立つ者。
その中でも「マイノリティ」に焦点を絞りたい。
どんな世の中にもマイノリティは存在する。
少数派であるがゆえに彼らの声は届かず、同じ人間でありながら抑圧されている。
それは、宗教かもしれないし性別かもしれない。
知識人はその知性を弱い者の為に使うべきだ。
「なぜ?」と問われれば難しい。
それは本能のような「哀れみ」といってもよいものだ。
例えば、ヘイトスピーチ。
人間に対して罵詈雑言を浴びせるという行為がなぜ悪いのか
考える必要があるだろうか。
それは人が人として「感じる」ことのはずだ。
しかし、知識人ではない人、すなわち内省のない人は
本性とは正反対の熱狂に感化された自分を省みることができない。
ただ、熱病に身をまかせ、憎悪をたぎらせることしかできない。
ナチスも同じことだ。
不幸なことに大多数はその熱病に抗う術を持たない。
ゆえに、知識人は常にマイノリティに立たされる。
サイード自身もキリスト教徒の家庭に生まれた在米パレスチナ人というこれ以上ないほどのマイノリティである。
知識人は内省を通して「人としてあるべき姿」に常に立ち戻り、
抑圧されている人々の味方とならなければならない。
これは、言論活動で生計をたてる狭義の「知識人」だけに言えることではない。
多少なりとも内省したことがあり、知性に対して敬意を払っている人間全員に言えることだ。
必ずしもアクティブに主張・発信し続ける必要があるわけではない。
意見を求められたり、選択を迫られた時、マイノリティの側にたてるか。
本当におかしいと思った時、「このままだと本当にやばい」と思った時に
行動に移れるか。
その覚悟を持つだけで十分だと思う。
エリートは権力を正しく行使する責任だけでなく、権力を点検し批判する責任も負っている。
つまらない謙遜や言い訳は必要無い。
「自分は頭が悪いから」とか「他の人にお願いしたい」とか。
そんなものは自分のやってきたこと、人生の積み重ねを汚すだけだ。
うまく説明できた気はしないけれど、迷ったらここに立ち返ろうと思う。