なすの日記

思考を散歩させるための場所

誰の血が流されるべきか

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2013年1月、新たな女性のヒーローが生まれた。

マララ・ユスフザイ、当時16歳。

11歳の頃からタリバンによる女子教育への破壊活動を非難し続け、

2013年にタリバンにより銃撃され奇跡的に一命をとりとめた。

2014年にはノーベル平和賞を受賞し、弱冠17歳にして世界で最も有名な女性活動家となった。

どこからどう見ても完璧なヒーロー。

 

でも僕は最近の、彼女が持ち上げられていることに違和感を感じる。

話を進める前に誤解を招かないよう幾つか前提を明記しておく。

1 僕は暴力に断固反対であること。いかなる理由があろうと暴力に訴える方法は糾弾されるべきで弁解のしようがない。

2 僕は女性に男性と同等の教育・就業機会が与えられるべきだと考えていること。

もしこの文章を読み進めてくださるのであればこの2点を念頭に置いてほしい。

 

マララのノーベル平和賞受賞後、パキスタンペシャワールで約140人が殺害される学校襲撃事件が起きた。犯行声明を出したのはマララを銃撃した時と同じタリバンだった。

今回のノーベル平和賞受賞と無関係ではないだろう。

マララは声明を出した。「私たちは決して負けません」と。

でも、これで良いのだろうか。

彼女が唱えるのは男女の教育機会の平等、および自由な教育だ。

これは少なくない部分を西欧的価値観に依拠した考え方だ。

それをイスラム世界に押し付ければ反発が生じるのは当然のこと。

彼女が世界で最も有名な活動家になった背景には支援者の存在がある。

アメリカを中心としたほとんどの国が彼女を自由主義的考え方のアイコンとして賞賛している。

さらに、ユダヤ人資本の世界最大級の広告会社Edelman社がスピーチやPRに関わっている。

ここにはどうしても政治的意図を感じざるをえない。

彼女の意志がどうあろうと、イスラムのイメージが低下すれば相対的にユダヤへのイメージは向上する。

もちろん、ここでユダヤ人の陰謀論めいたことを説くつもりは毛頭ない。

でも、事実としてイメージの変化は起きる。

 

異なる考え方を導入しようとすればそこには必ず犠牲が必要になる。

およそ革命と言われるものは考え方の変化であり、そこにはたくさんの血が流れた。

日本でも明治維新は、西南戦争などの流血なしでは成功しなかった。

 

問題は「誰がその血を流すか」ということだ。

 

僕が指摘したいのは、

マララをイスラム世界における教育改革のヒーローとして祭り上げれば

そこで流されるのは「子供の血」であるということ。

彼女が声を上げれば、教育自由化運動の主人公は子供になる。

反対勢力は当然、主人公を攻撃するだろう。

そして、子供たちを支援する大人は反対勢力を「子供を狙った卑劣な人々」と糾弾する。

そして、この連鎖は繰り返される。

 

マララは偉大だ。彼女の主張は正しい。

そして、暴力は一切弁解の余地なく非難されるべきだ。

でも、大人たちが彼女を持ち上げれば持ち上げるほど

子供の血が流れるという仕組みが現実としてある。

これは運動として最も適当な形なのだろうか。

 

立ち上がるべきは「大人」ではないのか。

彼女の訴えに呼応して立ち上がるべきは子供ではなく大人でなければならなかったはずだ。

子供が、自らの運命を変えるために死を覚悟して立ち上がるという状況そのものがおかしいのではないか。

大人たちは、いや僕たちは彼女を「支援」していてはいけない。

僕たちは彼女と子供たちの代わりに叫び、彼女が「普通の女の子」に戻れるようにするべきではないか。