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なすの日記

思考を散歩させるための場所

「社会に出る」という言葉の違和感

大学生は「社会に出る」という言葉の、不吉なニュアンスから逃れられない。

4年間という時間はあっという間にすぎ、大学という楽園での生活は終わりを告げる。

妄想に近い夢や希望は子供のもので、

社会に出るからにはそんなものは学校に置いていかなければならない。

なぜなら「社会」はとてもとても厳しくてそんなものを持っていては

遅い来る違和感の波に飲まれて生きていけないだろうから。

 

大学生の会話に出てくる「社会に出る」のイメージは僕からすればこんな感じだ。

そりゃ社会は厳しいだろう。

社会に出て仕事をするということは、成果を出してお金をもらうこと。

並大抵の仕事ではお金は稼げない。

 

でも、なぜ「社会に出る」ことがこんなに否定的な文脈で語られてしまうのだろう。

質問をかえると、なぜ、世の大人たちは社会の厳しさばかりを語るんだろうか。

学生が夢なんかを語ると「青いねぇ」なんて冷やかしたり

ちょっとミスをすると「そんなんじゃ社会で通用しないよ」と言われる。

全員が夢を全部叶えるのは多分無理だろう。

そりゃ学生は仕事をしている人よりぼぉーっとしてて甘いのは当然だ。

そんなことはわかっている。わかりきっている。

じゃあなんで彼らのことが気に入らないかといえば

自分を敗者のように語り、僕たちにも敗者としての未来が来ると嫌味を垂れるか、

自分を勝者のように語り、自分のような勝者になるために身を削るよう強いてくるから。

もしかしたら、実はそんな社会人は存在してなくて、

僕は存在しない敵と戦っているだけなのかもしれないけれど。

 

でも、別に僕たちはつまらないことをするために生きているわけじゃない。

勝つため、別の言い方をすれば、できるだけ多くの他人から良く思われるために生きているわけじゃない。

「楽しい」という感情を求めて生きている。

全然注目されなくても、

全然大金を稼げなくても、

自分が楽しければそれは紛れもなく「楽しい」なのだ。

「楽しい」仕事がそこにあるんじゃなくて

「楽しそうな」仕事をみつけて、それを楽しくすること。

そういう形が理想。

 

「社会に出る」という通過儀礼

いつか良い意味で

大したことじゃなくなることを願う。

 

「社会」にでたことがなくて、温室で育った大学生の独り言。