価値、宗教、搾取、利益。
今日の日記の副題は「搾取システムとしての宗教」。
最近、授業でマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下、プロ倫)』を読んで思ったことを中心に。
人には「良い暮らしがしたい」という欲求がある。
そのために人は働き、対価を得て生活をする。
でも、どれだけ働いても良い暮らしのできない人がどの時代にもいる。
この人たちは客観的に見て「搾取」されている。
だれだって搾取されるのはいやだ。
では、なぜ搾取され続けるのか?
搾取されている人たちはいつでも実は多数派で、その気になれば社会をひっくり返せる。
実際、この世界は何度も革命を経験している。
でも、人々の不満が革命という形で爆発するまでに蓋をしているものがある。
それが価値観。
西洋ではそれが宗教、すなわちキリスト教だった。
技術が未熟で生産性の低い社会では、底辺層の農民とかはかなり苦しい生活を強いられる。
なぜ、これほどまでに苦しい生活をせねばならないのか。
宗教は「苦しい生活を打破しよう!」という発想ではなく、「苦しむのにも理由がある。」と説く。
要するに合理化。
人々はそれを信じ、働き続ける。
そして貧しい人たちが生み出した富は上流階級に吸収されていく。
人々に禁欲や職業の固定化を求めることで、この搾取システムは循環する。
そこにカルヴァンという空気のよめない奴が出てくる。
神の前での平等が唱えられ、人々は儲けることは悪いことではないと考えを改める。
でも、ここでもこの考え(予定説)を利用する人たちがいる。
資本家階級は勤労思想の普及を押し進めることで
再び黙々と働く労働者を手に入れた。
どの宗教も全て純粋な思いから生まれているのは間違いない。
でも、その思想を利用する人がいつでもどこにでも存在している。
何らかの価値観を盲目的に信じている時、その盲信を利用して儲けている人がいる。
バレンタインデーとかハロウィンとか盛り上がってる裏で誰かが儲けてるのと同じ。
別にそれが悪いと言いたいわけではない。
それを分かった上で信じよう、と言いたいだけ。