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なすの日記

思考を散歩させるための場所

人類史は死の合理化をめぐる物語である。

すべての人に遍く訪れるものが「死」です。

どれだけ豊かだろうと

どれだけ貧しかろうと

死から逃れられる人はいません。

その死は今、日常から急速に存在感を消しています。

でも、死は人間にとってとてつもなく大きな命題だったはずです。

いささか過激ではありますが、

「人類史は死の合理化をめぐる物語である」

という話をしてみようと思います。

 

歴史上、あらゆる宗教が「死」の問題に取り組んできました。

我々はなぜ死なねばならないのか。

現世が喜びに満ちたものならまだわかる。

しかし、現世が苦しいのになぜ死なねばならぬのか。

宗教が持ち出すのが「死後の世界」です。

この現世は楽しい死後の世界の前段階にすぎない。

だから、安心して死にゆくがいい。

そういう発想で人々の死への不安を和らげます。

死に理由を付す、つまり合理化です。

こうして宗教は支持を獲得します。

 

ところが、死後の世界を重視しない考えが現れます。

それがプロテスタント(というより予定説)です。

天国に行くかどうかなんて我々のあずかり知らぬところで決まっている

という考えは、人々の死への不安の表れと捉えられないでしょうか。

すなわち、私たちは死後幸せになるために様々なことを我慢し、苦しい生活を送っている。

でも、聖職者や王侯貴族は楽しそうにやっている。

私たちは本当に救われるのか。

実は死後の世界なんてないんじゃないか。

だったら、死後のことなんて考えずに今、楽しく生きようじゃないか。

それを具体的な行動に移すとプロテスタント特有の勤労精神、及び蓄財を重んじる精神につながるわけです。

 

この流れは加速し、現代に至ります。

科学の進歩は寿命を大きくのばし、死を遠くしました。

天国を死後まで待つくらいならこの世に天国を作ろう、というのが現代の発想です。

そのため、死はさらに日常から遠ざかります。

私たちが若いうちに体験する主な死は肉親(それも祖父母などの世代)のみです。

 

個人的な意見なのですが、死を隠す現代社会は少し危険だと感じます。

ここから先はまた今度。