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なすの日記

思考を散歩させるための場所

当然と任意の境界 

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最近、思うことがあります。

それは、

「人としてやるべきこと、あるいはやっちゃいけないこと」ってあるよねってこと。

「え、そりゃ当然でしょ」

って思うかもしれません。

でも、「当然」って実はすごく難しいと思います。

 

僕は「人を傷つけない」のは当然のことだと思っています。

ところが、それを論理的に説明するのはすごく難しい。

「人には生きる権利がある。他人の権利を侵害することは自分の権利の放棄を意味する」

みたいな冗長で難しい説明になります。

こんな難しい説明をされなくても僕たちは直感的に「人を傷つけてはいけない」と感じます。

どう考えたって他の人を殴ったり、あるいは殺してしまったりしてはいけないんです。

罵詈雑言を浴びせて精神的に傷つけることだってどう考えたって

やっちゃいけないんです。

でも、「なぜ?」と問われると一言では言えない。

逆に、人間には憎しみとか怒りとかいう「当然を当然ではなくする」欲求も

存在しています。それは、普段色々な事情で隠れているのですが、

ふとしたきっかけで現れます。

現代の理論偏重の時代にあっては、「やってはいけない」はずのことを

理論的に正当化しようとする人たちも出てきます。

 

その最たる例は「ヘイトスピーチ」です。

このような運動が起こる背景には様々な事情があることは認めます。

でも、目の前にいる「人間」にむかって罵詈雑言を浴びせるのは

どう考えたって人間としてやってはいけないことです。

でも、いろんな理屈をこねてそれを正当化しようとする人が増えています。

 

戦争だってそうです。

人が殺し合うことなんてどう考えたって、

いや、考えなくてもやっちゃいけないんです。

その当然を理論的に言葉で説明するために

たくさんの哲学者、思想家が「国際法」やら「民主主義」を考え出したんだと思います。

 

では、僕たちはこの「当然」とどう向き合うべきなのでしょうか。

今も、世界では戦争が起き人が死んでいます。

でも、それに対して何かできるわけではないし、全てのことに向き合うのは不可能です。

世界の裏側で貧困にあえいでいる人がいるからといって、

僕たちが生活レベルを落としてできる限り募金したり、

みんなが世界平和のために働いたり

そんなことはできないし、するべきかといわれてもそうではない。

(もちろん世界にはびこる「あってはならないこと」について考えるのは重要だし、それを解消するために働く人は絶対的に必要な存在です。)

一つ言えるのは、当然のことを「当然だ」と表明することが重要だということです。

「それはやっちゃだめだ!」「それはやるべきだ!」「論理どうこうの問題じゃない!」

という勇気を持つことが大切なのではないでしょうか。

 

そこでまた難しい問題が浮上します。

それは「どこまでが当然なのか」という問題です。

これを具体的に規定することは不可能でしょう。

ある意味、この「当然と任意の境界」を知ることが

勉強なのかもしれないという気もします。

「当然」を知るために学ぶ。

一見、矛盾していますが個人的には腑に落ちています。

「当然」を「実は当然ではない」と言う

学問が主流ですが、

「当然を当然として確定させる」学問もあっていいのではないかと思います。

社会学なんかはがっつり当然を壊す分野なわけですが焦)

 

一つ謝っとくことが。。。

今まで、タイトルに「その1」とかつけてたんですが

わりと一回書くと満足しちゃうのでこれからはつけません(笑)